五・一五事件から90年 「若者の反乱」から今考えること|【WEDGE OPINION】
広がる経済格差や国民不在の政党政治、不安定化する国際環境──。政党政治を斃(たお)した五・一五事件当時と類似する現代を生きるわれわれはこの事件から何を学ぶべきか。
1932年5月15日、午後5時30分頃。4人の海軍青年将校と5人の陸軍士官学校の候補生、計9人が首相官邸を襲撃した。そして「話せばわかる」と応じた、犬養毅首相に「問答無用、撃て」の号令のもと、二発の銃弾が浴びせられた。いわゆる「五・一五事件」である。
年若いエリート軍人が、老首相を襲った事実は、当時においても衝撃的であった。だがそれだけでは、事件の本質を見誤ることになる。このとき首相官邸だけでなく、警視庁、日本銀行、政党本部など、政財界の中枢組織に爆弾が投げ込まれている。事件の首謀者たちには、国家を支配する特権階級全体の排除をめざす「昭和維新」の思想が根づいていたのである。
さらに軍人たちの同志である農村青年らが、東京・埼玉の変電所を襲い「帝都暗黒化」を図った。彼らの計画は、日本中の農村が深刻な不況に沈む中、享楽的なネオンを煌めかせる大都市への拒否通告でもあった。
五・一五事件の襲撃経路図
事件の全体をみれば、政党と軍人の対立という一側面だけでは説明できないことが多い。その背景にあった、昭和戦前当時の深刻な格差社会の存在や、政財官エリートたちの思惑、閉塞感に直面する若者たちの焦燥などに迫る必要があるだろう。今年は事件から90年の節目にあたる。現代のわれわれは事件から何を学べるかを考えたい。
事件の発生から約1年後の33年5月、秘されていた事件の概要が公表された。そして同年7月に陸海軍の軍法会議が開廷する。興味深いのは、殺害された犬養首相への同情論が強かった世論の動向が、公判の開始以後に急転回したことである。被告である軍人たちの助命を嘆願する運動が全国的に広がり、同年9月末までに70万筆を超える署名が提出された。
世論が沸いた理由の一つは、被告たちの動機が法廷で明らかにされたことによる。彼らは口々に「犬養閣下には何の怨みもない」と言明した。そして農村の深刻な窮乏と荒廃を陳述し、政治の腐敗を徹底して糾弾した。
国民の反響は大きかった。裁判を担当した検察官に届いたある女性工員の手紙を紹介しよう。それまで首相の襲撃に反感を抱いていた彼女は、若い被告らの「社会に対する立派なお考え」をニュースで聞いて、それまでの誤解を「まことに恥ずかしく」感じたという。そして凶作地出身の身の上を語り「私共世の中から捨てられた様な貧乏人達の為にどれだけ頼母しいお働きであったか」との感慨の念を、わずかばかりの金銭に添えて書き送った。
人々の不満や絶望の背景には、当時の日本経済の深刻な状況があった。20年に起きた第一次世界大戦後の恐慌以来、日本は……
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