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【日記】大きな喜びはすぐに日常に溶けるからこそ、毎日少しずつ歩いていたい。

■ VRC、いつもの自分のフレオンインスタンスで何の気なしにしていた話の思考整理。

■ 当たり前だけれど、わたし達は生きる上で調子のいい日と悪い日が。テンションの高い日と低い日が。やる気がモリモリ出る日とうまく出ない日がある。それは折れ線グラフの様のようで、ある時は気温や気圧の高低だったり。ある時は仕事の納期なんかのプレッシャーだったり、ある時は一時的に趣味活動が誰かに注目されるタイミングであったり、自分の物理アバターの年齢による現象であったり。色々な媒介変数に振り回されながら、私たちは調子のいい日にはたくさん頑張って、調子の悪い日はほどほどに頑張ったりする。

こんな感じ?

■ 長い時間を生き続けていると、大きく気持ちや心を持ち崩して。調子の平均値が底まで落ちてしまうような時もある。底まで調子が落ち込むと何もかもに興味が失せたり、自分に対する欲求の叶え方を忘れてしまったり、そんな事の連続に自己嫌悪に陥ったり。でもそんな渦中にいながらでさえ、時々妙に調子よく動けるタイミングが不随意に訪れては、「今日はまともに動けたぞ!」「そうだった! 俺ってもともとこういうのが"普通"だったよな!」なんてつい思ったりしてしまう。その感情をまた思い出したくて、時にカフェインなんかで無理に体を動かしたり、時に仕事や趣味活動の件数を多く持つことで、使命感から自分を無理に奮起させようとしたりしてしまう。でもそれって、どこか無意識に調子の悪い自分を『普通じゃない』『元々は違うものだった』として受け入れてないことの何よりの証拠で、うまい立ち直り方って多分そうじゃないよね。と今はよく思う。

■ わたしの好きな表現に『怒りに対抗するのは喜びじゃない』という、精神科医:名越先生の言葉がある。値段の張る美味しい物を食べたり、ブランド物を買ったり、異性と遊んだり、何かの分野で賞賛を得られることで得られる喜びは、とてもじゃないが毎日は続かなくて、その後1週間2週間と生きる続ける事になる日々にすぐに塗りつぶされる。塗りつぶされた結果、一時的な喜びにより調子のいい状態にいた自分は、すぐに『普通』の自分に戻される。その普通の状態に自己嫌悪しているような状態だと、お金を多く使ったり、モノや薬や他人にべったりと頼る形で、まるで取り立て屋から逃げるかのように普通の自分から逃避してしまう。だから怒りに対抗するのは一時的な大きい喜びなんかじゃなくて、毎日訪れる普通の日常が幸せであることなんだよ。という解釈をしてる(下記動画4:22-6:20ごろ)

■ この話をさっきのグラフに当てはめるなら。グラフのピーク値(調子のいい時)の出力を伸ばしたり、そのアイテムを沢山用意したりということでなく、それより普通の日常である日の方が圧倒的に多いんだから、金槌で鉄板をコンコンと叩いて形を引き上げるように、まずはままならない自分を受け入れてあげて、少しからでも向き合って、底の方を引き上げていこうよ。って話かなと思う。


■ じゃあ調子のいい時に対しては何もしないのか?となるけれど、調子のいい時なんて大体は特に考えなくても沢山動けることが殆どなので、あまり気にしなくてもいいように思う。自分の底が引きあがっていれば体力気力の最大値も自然と引きあがっていやすくて、結果としては調子のいい時のパフォーマンスも伸びていくのだと思う。そうして、少しずつ『自分の底を金槌でコンコンと引き上げる』ことを繰り返した結果、未来のある日、こんな風に気づけたら自分の調子の波が持ち上がっていたらいいよね。みたいな話。

■ このイメージって、自分の調子に限らず。趣味活動に対するモチベーションとか、友達や好きな人との関係値にも適用できそうだ。なんて思ったりもする。やろうと思えば1クリック1アクションで人とつながれて、歓楽的なコンテンツの溢れるこの世の中で、自分を着飾ったり、人の目を能動的かつ刹那的に引くことのできるものは数えきれないほどある。それは例えば、肌色が沢山出てるR-18な改変で誰かを誘惑するように立ち居振舞うことであったり、仮想敵を作って同じ気質の人間と団結心を持ち合うことであったり、フォロワー数なんかの数字のアピールであったり、何かのイベントなどでの活動実績であったり、他人に取られたくない仲の良い人との関係値の匂わせであったり。そんなコマンドの数々は、成果や帰属意識や愛情に飢えやすい人の心に、ふとするりと入り込んでは、俺を行使しろ。望むものはすぐに手に入るだろうと誘惑をかけてくる。

■ でも、そんな行動達もいずれは『普通』の日常に溶けていく。現実の傍らに続けるVRの話なら、なおさら。趣味活動が何かの賞を取ったり、大きな売り上げにつながっても。好きなあの人と名前のついた関係が手に入っても、気力を込めたツイートが沢山のインプレッションを稼いでも。定期的に歩いていない限りは、どうにもならず日常に溶けて、そのうち元の形が見えなくなっていってしまう。そんな時『普通の日』を『受け入れたくないもの』と思ってしまっていると。衝動的に友達や恋人に対し試し行動を取ってしまったり、ある日ばったりと趣味をやめてしまったり、勝ち負けで価値観を判断してしまったり。そんな良くない行動につながりやすいと、どこか思う。わたし自身も、2カ月ほど前に自分の本をboothで出したとき、そう思った。ここはゴールでもなんでもなくて、普通の日常の延長線上にある喜びの一つでしかなかったんだ。と。

■ だから、時々訪れる喜びの形を、純粋に噛みしめてうれしくなれるようになるために。という一面と、『普通の日』の自分もまた自分の形には間違いなくて、普段接するお友達や、彼らからもらう暖かさを維持するために。少なくとも落ちないよう管理して、できれば引き上げて持てる物を増やしたいね。という一面で。こんな考え方の生き方が、多分大事じゃないかなと思う。そんなお話。

■ そんな心の動きの連続系。『普通のわたしはどう思ったのか』『調子のいいわたしはどう思ったのか』『底で涙ぐむわたしはなにを思ったのか』そんなもの達を忘れず残すことで、自分の波の形を知り、また引き上げんとする…。 わたしの文章を書く欲の根源の一つは、きっとそんなところにあるんじゃないのかなと噛みしめながら、その気持ちすらまた忘れないようにと綴る、そんな思考整理のお話でした。

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