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メンタル不調における『筋トレ』との関わり方を、セルフネグレクトの面から思考整理するお話。

こんにちは。やや久しぶりに文章を書く気がするスーア先生です。

ここ2カ月ほど、なかやまきんに君の筋トレ動画にお世話になっています。
何人かのVRCのフレンドから度々『きんに君の世界一楽な筋トレ動画とても良いよ~』とアドバイスを貰うことがあって、興味本位で一度初めてみたらその手軽さと程よい負荷にすっかりハマって、他の動画も含めて日々のルーチンに組み込まれてしまいました。

最近やっているのはこの下腹部トレーニングです。
こっちは『世界一楽』な方とは異なって、始めは10秒も続かないぐらいのしっかりしたメニューだったけれど、段々こなせていく感覚がいい達成感を生んでくれる…

そんな日々を過ごしたここしばらく。
少し頭の中に思い浮かんだことの思考整理のお話。


メンタル不調にはよく筋トレが勧められるよね

SNSや著名なニュースサイト、書店に平積みされた書籍にまで。
今日び、生活のあらゆる場所で『メンタル不調には筋トレ』という概念が浸透してますね。

ちょっと検索するだけでも一杯見つかる

わたしももちろん、この概念は知っていました。
が、ただ単に『体を動かすと気持ちが良いよね』『程よく筋肉があれば肩こりとかの不調が取れる分余裕ができて良いよね』程度の理由しかないのだろうといった理解で止まっていて、社会人になり、デスクワークメインのIT職となってからはめっきりこの手の運動から縁がなくなっていました。
日によっては1000歩も動かないぐらい。職業柄、長く腰を下ろして集中することが必要な場面も多々あり、その事をあまり疑問に思うこともありませんでした。

時々思い立って筋トレや運動をしても、それを心の底からは『自分に必要な事』だと思っていないので、3日もすればずるずると習慣は消失。世にいう筋トレのメリットと言ったものを、あんまり享受することはできてなかったなと振り返って思います。

冒頭で述べた筋トレ動画も、最初は「オススメされた動画見てやってみたよ~」といった話題作りにとどめるつもりでした。
ただ、思ったより楽だったので数日そのまま続けているうちにふと、いくつか気づくことがありました。
それは、効率良く筋トレをするために食事や飲むもの・過ごし方を考えているうちにふわふわと浮かんできたこと。今までの自分は自分をセルフネグレクトしていて、あまり自分の身体・環境・精神性を慈しんでいなかったな。ということ。

『そもそもわたしは何のために筋トレをするんだっけ?』

そんな気づきに至ったのは、この疑問が頭の中に浮かんだから。でした。
広く世に勧められる筋トレだけれど、筋トレと言っても色んな段階があって、例えば下記のように

  • 最低限の体力作りの一環としての筋トレ

  • 野球・サッカーなどの競技の一助にするための筋トレ

  • ボディビル・リフト上げなどに必要なハードな身体づくりのための筋トレ

ざっと考えるだけでも、『筋トレ』に対しこんなゴールを設けることができて、そしてわたしに適したゴールは、世の中の基準に照らせば負荷の軽いものになるはず。
さぁ。さて自分はどこをゴールにしてこの筋トレを習慣にしてみたいのか?
どんな自分の姿になりたいのか? どう生きたいのか?

そう考える中で、そもそもそんな姿をイメージすること自体がうまくできないことに気づいた。
なぜならば、これまで生きるだけで精いっぱいで、そんなイメージをもって時間を過ごす事自体をほとんどしていなかったから。行為自体に慣れていなかった。「食事ができてたまに文章書けてればそれでいい」といつしか長い間、ずっとそう思う癖がついてしまっていた気がする。

では、なぜそのイメージを持つことができないのだろう?
なぜ生きるだけで手いっぱいになるんだろう?
なぜ当てもない思考のループや不安でいっぱいになってしまうのだろう?

…じゃあ、筋トレの負荷はこのまま最低限に維持して。
まずは自分の不調を取り払おう。
言い方を変えるなら、『不調をごまかし抱えて生きるのではなく、正しく不調に気づけてメンテできる自分』を目指そう。

『生きるだけで手いっぱい』と思ってしまう原因を整理して、そこに対処する時間を反復し繰り返して、精神のキャパシティを増やそう。
せっかく休職してる今、ずっとそうしていればそのうちどう生きたいか。どんな姿がいいかも見えてくるかもしれない。

そうして、わたしはメンタル不調時に勧められがちな『筋トレ』に対して、セルフネグレクトに気づくいち手段としての関わり方をすることに決めたのでした。

身体に気をかける事を通して、精神や生き方を自己診断したい

『外見は内面の一番外側』とはよく言ったもので、自分の積み重ねた生き方の演算結果めいてその様が現れてしまう。
当然ながら食べ過ぎていれば太るし、食べなければ痩せる。
欲自体をほどほどで抑えていても、それ以外の過ごし方が不健康だと肌が荒れたり、筋肉が減っていたり、目が充血していたり…
自覚しにくいだけで、客観した時の特徴は意外と現れている。

"筋トレ"という行為を通して、自分の内面の一部たる外見を日ごろから観察することで…他人という鏡を通さずとも、ある程度自分で自分をメンテナンスできるようになることが、メンタル不調時に勧められがちな『筋トレ』の妙たるところかなと思ったりしています。

例えば、『世界一楽な筋トレ』動画で続けていた最低限の筋トレをやりながら、自分の身体の不便について気づきなおしたこととしてはこんなことがあって…

  • 常時石みたいなレベルで肩・首が凝り続けている。まだ若いのに…

  • 身体を動かす気力が全然湧かず体力も無い。謎の心因喘息も引き起こしがちで、あらゆることに自信を起こせない…

  • 贅肉はあまりないが、筋肉はもっとない。体重は標準だけど、内包されてるのはほとんど贅肉のほうかも…?

  • 仕事をした後、精神を消耗してよく横になってしまう。自由時間に何もできないことが多いため、気晴らしも刹那的(ゲーム/外食など)に寄りやすく、このこと自体が自責を引き起こしがち。

そこから振り返ってみる、自分の精神や生き方の目立つ問題としてはこんなことがあった気がしていて…

  • 食生活に気を回す余裕が無かった。時間の無い時は同じ常備食・冷食を食べがちで一日に楽しみが無く、欲(≒行動)の感度を下げ続けている。

  • 栄養管理アプリ(あすけん)を使ってみたら、そもそも普段あまり食べていなかったことがわかった。間食として甘い物をよく食べていたが、それは普段の食生活で欠乏してたカロリーを補うための無意識の行動だったのかも?

  • 『自分のしたいこと』の優先度は常に最低で、ほとんど他人の依頼や要望・仕事を優先させていた。その思考の悪癖で、自分の身体や精神に気をかけていなかった。なぜなら自分の価値観において、自分とは優先度最低の存在だから。なのでお金だけは貯まる。しかしいくらになっても満たされない…。

  • かつ、他人から期待されているあらゆる物事に完璧に対応することで、自分が存在することを許されようとする節があった。他者の肯定を通して自分を許そうとすることを信条としていたため、常に他者や場所・環境のことばかりを考えている。とにかく考え続けるので疲れるし、他者の言葉が無い限りは小さな成功を自分で認められない。最終的に疲労で失敗をし、『うまくできなかった』と自分に失望しては精彩を欠いていく。

筋トレ自体の負荷を増やす前に。まずはこの問題に対して対処することを優先してやりました。ここが解決していなければ、筋トレという行為が形骸的なものになってしまうし、根本の自分の問題が解決しないから。
模倣すべきだと考えていたのは、幼児が大きくなるにつれて段階的に獲得していく欲望のモデル。
食欲・食べ物の好き嫌いに始まり、『とにかく自分でやってみたい!』といった動機でとりあえず何でもやる大人の真似事で自分の得手不得手を認識し、その繰り返しで自分のしてみたい生き方を想像し、実際に獲得するためにより高度なやり方を模索していくような…

うまく言語化できているかは分からないけれど、こんなことをここしばらく、繰り返し繰り返し行うよう心がけていました。

  • (1)食欲(≒一番手近な欲望)の感度を高める。

    • ここが満たされていないと、他の高度な欲望にも気づけない。

    • 常備するレトルトや冷食・素の種類を増やす所から初めて『食べたいもの』に気づく感度を高める。手の込んだ自炊は無理にしなくていい。問題は自炊の有無の側に無いから。

    • 食べたいものに気づいたら『もっと美味しく食べる方法』を考えたり調べたりしてみて、必要があれば自炊する。(美味しいやり方を知れれば自然に食べたくなるよね?の思考)

    • その繰り返しで、結果として食欲≒自炊頻度を結び付けて、食事量と生活における活動量を増やしていく。

  • (2)余計に食べた分の対価として、何か小さい事を一つやってみる

    • 散歩したり、棚の掃除をしたり、整理のできてなかった押し入れに手をかけたり…

    • 出来た事は記憶に任せず、外側に文字として記録する。(結果の良し悪しは一旦量を基準にし、自分の善悪の価値観を挟まない)

    • 「今日はこれをやったから食べた分は気にしない!」と言った食欲の口実と、日常の達成感を両立させる。

  • (3)その繰り返しの日常の中、高度な欲求が出てくればすぐやってみる

    • 外出欲・創作欲、あるいは筋トレの負荷を増やしてよりいい体を作りたい欲など、高度な段階欲求は生存・安全欲求が満たされ始めている証拠。旅行に行きたければすぐ行ってみて、積んでいたゲームはすぐやってみる。

    • 食欲でやったのと同じやり方で、高度な欲求に対しても。できることからとにかく手を出して感度を高めていく。

    • 『何か小さい事を一つやってみる』と同じやり方で、感じたことは外側に記録して、意味があったか・生産的かなどの自分の善悪の価値観を挟まない。

    • 同じように『他人の価値観』も一旦挟まない。とにかくやってみたことと、その結果自分は嬉しかったか・そうでなかったかだけをひたすらに記録していく。

  • (4)これら3つを日常でただ繰り返して、自分がどう生きると気持ちいいかの姿を列挙し続ける

こんな感じ。

自分の姿が他人の価値観や、自分自身への抑圧でよく分からなくなっており、そのために動けなくなっているのなら。まずは生物の根元の欲求であり、かつ選択の余地が挟まる食欲から自分がどう選択をするのかを客観視し…そのやり方を他の高度欲求に当てはめ続け、非破壊検査で剛体の内部構造を把握するように。『自分が生きたい姿』がどのような形を持っているのか。そのあたりを付け続けていきました。

この繰り返しで、意外とできる事は増えていったように思う。
日に1000歩も歩かない生活だったのが、平均して7000~8000歩ぐらい歩くようになった。同じ冷食や常備菜を毎日のように食べたりしなくなったし、カロリー不足の反動で甘い物を食べたり、普段の食事を極端に食べなかったりということもしなくなった。

文章記述のような精神的な生産活動は安定してはできてないけれど、部屋の状態に関しては明らかに安定していて、心身の疲労に比例して散らかるということもなくなった。

小さい子が大人になるにつれて会得していく段階的な欲の持ち方。それを模倣したこの生き方。
これでうまく言語化しきれているかも、これが真に正しい行為なのかも、まだすべては分からないけれど。ひとまずは、自分でやれていることを信じてこのまま続けてみたい。
その果て、今度こそ自分のしっかりした…  "当面の"でもいいから、生き方を確立してみたい。そんな思考整理としてのお話。

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