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鬼と呼ばれた写真家「土門拳」の写真集を見て35mmのレンズが欲しくなってしまったその後。②

鬼と呼ばれた昭和の写真家「土門拳」の写真集に出会い、35mmのレンズが欲しくなり、実際にその画角のレンズではメンタルよくて人並みの自分には難しいことは分かった。

それでも新しい撮影の楽しみを見つけ、その後もモノクロで撮影を楽しんでいたのだが、また壁にぶつかる。

最初の頃は光とか位置とか構図とか、偶然ピタリとはまる写真が撮れただけで、最近はなんだかしっくりこなくなってきた。

どう撮ったらいいのか分からなくなってきた。
撮っても「なんか違うんだよなぁ。実際の印象より何だか軽い」と悩みだした。

何かヒントはないかと思い買った本が「土門拳の写真撮影入門」。

土門拳自身が書いた本ではなく、土門拳の撮影技法と撮影現場、人間的なエピソードを交えたドキュメンタリー本だ。

「『ウォー!』裂帛の気合」「生涯修行の求道者」「カメラの肉体化」「執念深さー強い人生肯定」「想像力と魂の憑依」など、迫力ある見出しが並ぶ。

「道行く人の目を意識して寄れないからズームレンズ使います」なんて自分とは世界観が違いすぎる。

しかしヘナチョコな自分でも取り入れられそうなヒントは沢山あった。

そのなかでまず目に止まったのは第三章「土門拳のこころ」第九条「被写体を熟知、気力で対決」の箇所。

「撮影対象に飲まれ、弱みを見せては勝負にならない」

「信楽の壺なんて見たくない、もう見るのもうんざりだというときになって、はじめて壺そのものを撮影できるような気がする」

「土門拳の写真撮影入門」より引用

撮影に行くところがなかなか迫力ある場所ばかりなもので、内心「コワイ」と思いながら撮ることも多かった。

つまり既に飲まれ負けている。

そんなことでは撮れないのだ。

「撮らせてもらいます…!」と意を決してファインダー越しに細部まで見る。

そうすると今まで気が付かなかったことにも気付く。

これ桃?

あっ、手の先が無い(廃仏毀釈のためか?)とか。

土門は、命なき静物に命を吹き込む、それを写真の使命だと心得ている写真家である。仏像にしろ、陶器にしろ、骨董にしろ、じーっと見ることで、その作者の思いに迫り、その作者の「世界観が自分の中で育ち、深まる。」そのプロセスを大事にする。作者の思いが、作者の命が、かたちとして目の前に凝縮し、存在するのである。じーっと見ることで、その静物と一体となり、内なる声を聞き、言葉を交わす。そして作者の世界観なり思いがわかった時、それを画面の中央、レンズの中心に据え、ピントを正確に合わせ、「えい!」とシャッターを切る。

「土門拳の写真撮影入門」より引用

とにかく「じーっと見る」。

仕事でイベントやホームページ用の写真を撮っていたとき、下調べをすることはあっても、ここまで対象をじーっと見ることは無かった。

国東半島 豊後高田市 応暦寺

「神と仏と鬼の郷」と言われる国東半島の古刹「応暦寺」の石仏。

目が鋭い。手の先が無い。

国東半島 豊後高田市 応暦寺

同じく応暦寺の仁王像。力強い足。

中津市 八面山 神護寺

修験道の霊山のひとつ「八面山」の真言宗のお寺。

中津市 八面山 神護寺

同じく八面山の石仏。


不思議なことに肉眼で見るよりファインダー越しに見るほうが細部までよく見て取れる。

細かいところまでじーっと見て「あ、これいいかも。こっちよりもこっち?いやこっちか」と悩みダイヤルを動かし、カメラ本体を動かしながら「ここ!」と思った瞬間パチっといく。

しばらくはこんな感じで繰り返し沢山撮っていこう。

本によると「とにかく沢山撮る」「何度も撮る」ことも大切なようだ。


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