些細な優しさで人は立ち上がれる。 (エッセイ)
私はこの数週間、自分にとって嬉しくはないことが重なり、重なり、重なり…
結構なレベルでメンタルがしんどくなっていた。日常は変わらない。同じ人、同じ風景、同じようなやり取り。そんな連続がロードムービーのように流れていく。
しかし私の中が変わっていて、心が傷ついているような、光を遮断している感じ。暗く辛く、でもどーしたらいいのかわからない。
ぐるぐるぐるぐる自問自答が反芻される。
もういやだ。そんなことは本人が1番よくわかっていて、望んでいることなのに。
「元気」という言葉がある。
分解すると、元の気。
私は今まで自己を偽ったり、ペルソナを被ったりして人間関係を構築してきたことはある。
だけど、中身は元気な私で、人によって相性だったり、笑いのツボ、中にはやっぱり分かり合えない人も居るから、それで仮面を取っ替え引っ替えする。
これは社会で生きていれば無自覚無意識であろうと誰もがやることで、自分の心を守るために現代社会人が身につけてきた習性でもあると思う。
でも心は見えない。
音も味も匂いもわからない。
だからこそ壊れた時にやっと気づく。
そして誰かの小さな優しさが、絆創膏のように割れたハートを一生懸命くっつけようとしてくれる。
一回じゃくっつかない時もある。割れ目が消えるくらい綺麗に治ることもない。
だけど、この世の中には誰かが適切なタイミングで、待っていたよと絆創膏を貼ってくれることがある。
壊れても壊れても、私が私じゃなくなっても、それはそれで私なのだと。自分のことを360度裏表、肯定できる時が必ず来る。
月並みな言葉だけど明けない夜はないように、あなたも私もどれだけ傷ついても、また必ず立ち上がれる日がやってくる。
これだけは人の間で生きる人間を続ける限り、胸の奥深くで信じていることなのだろうと実感した。
だから人に優しくすることも勇気がいるこの時代に、優しさを分けてくれた人が居たならば、ただありがとうと感謝をしたい。
応える、返す、そういったことは傷ついた人には大袈裟ではなく、重労働だ。
だからそんなことは考えなくていい。
ただありがとう。と、心の中で呟いて。
もらった優しさで元気になれたなら。
また誰かに優しさを廻してあげられたなら。
絆創膏だらけのハート丸ごと。
愛しえる日々が続いていくのだろうと思う。