【自己紹介】【産むことに人生全振り?!のりちゃんの話】車椅子ユーザーと結婚しました!!…から17年、パートナーとして生きてきて。
みなさんこんばんは。
脊髄損傷車椅子ユーザーをパートナーに持つ2児の母、のりちゃんです。脊髄損傷の車椅子ユーザーと子どもをつくるということについて、私の経験をお話させていただいています。
ここに書かれた内容は、あくまでも私の場合の話ですので、一個人の経験談としてお楽しみください。
はじめに
インターネットで出会った相手と同棲し、軟禁され、殴られ、包丁を突き付けられ、もう死ぬか殺されるかのどちらかだなと、思い切って逃げた21歳の秋。家賃3万のワンルームの古いアパートの部屋を初めて自分で契約し、冷蔵庫も買えなくて、でもご飯なんて食べようとも思わないからまぁいっかと、閑散とした部屋に座り込み、ドンドンとドアを殴り続ける音に、もう怯えもしなくなった頃、出会ったひとは車椅子ユーザーでした。
それから気付くと20年近い歳月が過ぎ、今も横を向けばそこにいる
車椅子ユーザーこと、夫。いつの間にか筋肉質だった腕は細くなり、白髪も増え、深いしわも刻まれるようになりました。
結婚当初から一緒だった2匹の犬たちを虹の橋に送り、今は2人の息子たちと彼の生まれ育った雪国の田舎町で家族4人の生活を送っています。
私たちが出会ったころはまだ、障害のある人に対する理解などほとんどなく、哀れみや同情の対象という側面が強かったように思います。「障害を持つと結婚はしてはいけない。相手を不幸にしてしまうから。」そう多くの人が疑いもしませんでした。
「面倒を見てやってください。」「よろしくお願いしますね。」
結婚のあいさつでそんなことを親戚の方々に言われたり、
車椅子の積み下ろしを手伝う姿を見て、
「まぁ、ちゃんとしっかりやってくれて」
と極端に感謝されたり。
見ず知らずの方々にも散々、
「あなたがしっかりしないでどうするの?」「辛いのはあなたじゃない。旦那さん」「あなたはサポートをするんでしょ?がんばりなさい」
と声を掛けられたり、叱られたり。
共に生きるという視点で見てくださる方は少なかったように思います。
2003年に支援費制度がはじまり、ようやく障害者の自己決定が尊重されるようになり、まだ世の中が障害ある人は保護を受けて当然だという風潮が残っていました。
そして、20余年の歳月を車椅子ユーザーの夫と共にする中で、
さまざまな時代の変遷を目の当たりにし、私自身、様々な経験をしてきたように思います。
このnoteではそんな生活の中から気付いたことや、
経験したこと、そしてその生活の多くを占めてきた、産み育てることについてなどを綴っていけたらいいなと思っています。
車椅子ユーザーと結婚した私の話
そんな車椅子ユーザーと結婚した私がどんな人なのか、自己紹介?自分語り?をしたいと思います。
できる方法でやればいい
私は昭和の終わりごろに関西の田舎町で生まれ育ちました。
3歳からカトリック系の幼稚園に通うようになったのですが、そこには様々な障害を持つ子どもも通っていました。
飼育されていたオタマジャクシが何かよくわからず、握りつぶしてしまった重度知的障害の子。二分脊椎で歩行困難なため、ハイハイをしたり先生の抱っこで園生活を送る子。パニックを起こすと耳を押さえ、頭を抱えて、叫びながら走り回る子。
その中で私たち園児は、「できないことはみんなある。それぞれができる方法でやればいいし、自分に合った方法で一緒に楽しめればいいよね!」というようなことを学びました。
私も疑問を何でもすぐ先生に投げかける子でしたが、おおらかな目で見ていただき、「色んなことに興味があるんだね」「面白いことに気付くね」「頭の回転が速いんだね」とポジティブに捉えていただいていました。
はじめて差別と偏見に出会ったのは5歳だった
その後、引っ越しによる転園で初めて障害児差別を目の当たりにし、私自身も状況が一転し、しゃべりすぎる問題児として扱われ、わけもわからぬままに園長室に連れていかれ、1日を過ごすようになりました。
5歳にして初めて、環境と自分との不適応による摩擦を体験し、それからずっと疑問をもって生きてきました。
障害ある人も他の人と何も変わらないただの人に違いないのに、なぜこんなにも強い抑圧と偏見にさらされるのか。
今でもずっとあの3歳だった頃の幼稚園で体験した世界にまた巡り合いたいという思いをずっと胸のどこかに抱いて40年近い日々を生きてきました。
福祉系の短大を卒業後、希望した障害者施設の求人がなく、介護保険施設で2年ほど相談員を経験しました。デイサービスに配属されたため、車椅子介助をみっちり学び、その経験はのちのち夫との生活で大いに役に立つことになりました。階段昇降、段差介助も今では体力の衰えや片手に子どもがいるためほとんどすることは無くなりましたが、当時の経験のおかげで3段くらいまでなら夫をひとりで上げることができました。
結婚後に大学に編入しさらに福祉を学び、資格取得か大学院にと思いましたが、そろそろ子どもを持つかを決めなければならないタイミングに差し掛かっていたため、不妊治療をすることを選びました。
ですが不妊治療の情報が全くなく、また車椅子ユーザーのパートナーの女性との出会いの場もなかったため、男性当事者に相談するしかありませんでした。
辛いと思ってもいいんだ!?
2014年、2年間の不妊治療を経て長男を出産したものの、あまりの情報のなさと、車椅子ユーザーが使える育児グッズのなさに驚きました。「みんなどうやって育ててきたの??」思わず漏れました。ですが、自分が選んだ道だから弱音は吐いてはいけないと思っていました。
同月齢のお子さんを持つ車椅子のママさんたちと運よくブログで繋がることができ、情報交換しながら夫にできる育児方法を探りました。彼女たちがいなければ、私はあまりにも孤独な育児に耐えられなかったかもしれません。あんなに辛い思いをして不妊治療までして手にした育児がこんなにも辛いなんて…。それが悲しくて仕方ありませんでした。
そんな中、少し後にお子さんを出産された車椅子ユーザーの奥様がブログにこんなようなことを綴られました。
その一文を見た私は衝撃を受けました。「辛いって言っていいんだ。私もしんどいって思っていいんだ。自分で選んだ道だからそんなことは言ってはいけないんだと思っていた。育児グッズがなくて任せられない、一人で担うしかない。私が倒れたらこの家族が終わるというプレッシャーがしんどい…。そう言ってもいいのか。」と涙が止まりませんでした。
こんな思いをするのは自分だけでいい
不妊治療から育児に至るまで、車椅子ユーザーのそれらを取り巻く環境は一貫して「未整備・情報がない・方法がない」手探り状態でした。
そして、こんなしんどい思いをこれからの人にさせたくないと思うようになりました。ずっとその思いを抱いているものの、何ができるかわからないし、一人でどうしたらいいかもわかりません。何かしませんか?動きませんか?社会をかえませんか?と色んな方にお声掛けするも断られ続け、Twitter(現x)で呟き始めたのが切っ掛けで仲間が集まり、2019年ウィルチェアファミリーを立ち上げました。
育児や不妊治療をしながらの運営は難しく、なかなか思うようには進みませんでしたがなんとか5年を持ちこたえ、細々と続けることができるのは「がんばろう」と言ってくれる仲間と、協力してくださる方々、応援してくださる方々のおかげです。
おわりに
気づけば5歳の頃、疑問で仕方なかった「障害がある人もただの人やろ?ほかの人と変わらんやん?何が違うん?なんで誰も答えれへんの?何が違うん?障害って、何?」を、ずっと人生のテーマとして追っていました。
気づくと周りには常に多くの障害ある人々がいて、その時々で支えられたり勇気づけてくれたり、バカ言いあったり、寄り添いあったり、喧嘩したり、時に刃を向けられ、時に切り刻まれ、騙されもし、他の人間関係となんら変わらぬ友情や愛情や憎悪を与えたり与えられたりしてきました。障害が隔てるものが何なのか、私はまだそこにたどり着けていません。
2005年、夫に初めて会った日、実は私は怖くて一旦逃げました。ですが、「今追いかけないと一生後悔するよ」と聞こえた気がして彼を追いかけました。それからずっと寄り添うではなく、彼の轍の後を必死で追いかけ続けています。時に犬たちのリードをひきながら、時に子どもたちを小脇に抱えながら。そしてようやく、時々彼が後ろを振り返ってくれるようになってきたここ最近。
そんな生活の中から気付いたことや、経験したこと、そしてその生活の多くを占めてきた、車椅子ユーザーと産み育てることについてなどを綴っていけたらいいなと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
この記事を書いた人:のりちゃん
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