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ウェルビーイングと私 自分を俯瞰するツールとしてwell-being けいこ

well-beingと出会ったのは、大学院に入学した5月のこと。その出会いは、衝撃的で入学前までに準備していた研究計画書での研究の実施が困難であることが判明したことによる。「まじか。ここまで結構準備に時間をかけたのに、、、、」意気消沈、、、している時間もないので、次のテーマ探しを緊急に実施。「好きなことしていいよ」との言葉をいただき、嬉しいのか何なのか、、、という状況の中でたどり着いたwell-being。しかし、なぜwell-beingにたどり着いたのか、何度考えても今でも思い起こせない。つまり、衝撃的にwell-beingに出会ったのではなく、研究計画が没になるという衝撃に出会ったお陰でwell-beingに出会ったのである。何しろ1か月後には、ゼミが迫っており、ある程度、論述しないとならないのであれば、迷っている暇はない。ここで私の前向きと楽観が全開し、論文を片っ端からあたるのだが、読めど読めど終わりがない。「先生、このままいくとアリストテレスに行きつくんですけど、、、、」とても手に負えない。しかし、進み始めたテーマに今更後戻りという言葉はない。今度こそこのテーマで進み切る!!!根拠のない理由のよって、その野望を果たし無事、大学院を修了した。ここでの学びは、自分の実力や与えられた条件を鑑み諦めることも大切、一方で今できることをできる範囲でやり諦めない、というそれまでの経験に裏打ちされた何とかなるだろうという楽観性と、何もわからない中でひらめきと共に進むだけの前向きさが、自分の知らない未来に進むときには、とても大切な力だということかもしれない。

もし、あの時well-beingに出会っていなかったら、どうなっているのかな、と思いを馳せてみた。当時、周囲から「なんでまた?」と胡散臭いような目で見られたことも事実である。学びを深めるうちに哲学的に訴えるだけでなく、数値的に訴えることも可能になったことを知った。そして現代においては、well-beingを改めて求める人々が増えていると感じ、日本においても様々な文献を目にするようになった。well-beingという言葉は、広くとらえられる概念であるがゆえに、それぞれの人がそれぞれの解釈が可能な言葉であると思う。それがゆえに、well-beingを学んでいなかったら、情報に振り回されて、頑張っている自分を発見できず根拠もなく他の人と比較して、うまくいっていない自分を残念がっていたかもしれない。人とのつながりが大切であると理論的に理解していても、その出会いに十分感謝せずに当然として処理していたかもしれない。自分の今までの経験に自信を持てず、前に進むことをあきらめていたかもしれない。そう思うと自分で自分の背中を押せるようになったのかなと感じる。

well-beingに関わって5年、まだまだwell-being初心者の私が今思うこと。well-beingとは、自分を客観視するためのツールであるということ。上手くいく出来事、上手くいかない出来事とか、色々あるけど、その原因とか理由とか考えてみると、上手くいく時は、自分の強みを活かせている時だったりとか、ついつい後ろ向きになって、挑戦することを諦めそうになる時、過去の自分を思い出して、何とかなると思えるようになったり、一歩踏み出す勇気を持てたり。そんな自分になれたのは、自分の視野が広がるような出会いがあったことに感謝する。日常の繰り返しの中で自分に変化を感じられない時でも、ちょっとした変化に気づきやすくなったかもしれない。でも時々、well-beingとか、幸福とかいう言葉が、面倒になることもある。なんか、元気に頑張ろうとか、前に進もうとか、そういうことが。そんな時は、あー疲れてるんだなって感じて、自然の中に溶け込みたくなっている自分に気づき早めの対処をすることができる。

well-beingを知るきっかけは必要だけど、well-beingは、教えものではなくての関わりの中から、自分自身で気づいていくようなのもなのかな、と感じている。それぞれに大切なものがあるから、そこには多少の比較が必要で、そこから自分の大切なものに気づいていくのかなと思う。今は、まだ道半ば。わかってないことが多いけど、人生の最後に幸せな人生だったなと思って生を全うできるとき、きっと本当のwell-beingに出会えるのかもしれない。その時まで、急がず焦らず、自分らしく、well-beingとゆるく繋がりながら、well-beingなるものを探求し続けていこうと思う。その行動が、誰かのwell-beingに繋がることを願って。


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