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寿命、売ります!

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 西暦2342年。人は科学の進歩により、ある程度まで寿命をコントロールできる技術を手に入れた。
 なんでも、テロメアとか呼ばれるDNAだか何だかが寿命を司っており、こいつを伸ばせば寿命が引き延ばせるらしい。20世紀末ごろから言われていた噂話は、22世紀になって初の成功例を出したらしい。
 多くの人がそこに希望を見出したのか、多くのスポンサーがついたと言われている。それから、瞬く間に技術は進み、24世紀に入って程なく、臨床実験が開始された。
 技術面、法律面、倫理面とあらゆる角度から検証された「それ」は、「テロメア法」と呼ばれた。
 本当は長ったらしい名前があるのだが、専門家でもない限り、誰も正式名称なんざ覚えてはいない。
 実用化に至ったのが、2342年という訳だ。
 この「テロメア法」だが、こいつには大きな罠があった。
 寿命を延ばすには、誰かの寿命を移植するしかなかったのだ。つまり、テロメアを切って、くっつける。そう難しい事じゃない。生体肝移植みたいなモンだ。要は、自分の寿命を誰かに移植する。実に献身的でいい。お茶の間が好きそうな美談だからこそ、こんな馬鹿げた法が通っちまった訳だ。
 最初は、1/3だった。それも年単位だ。
 そう。愛する妻の寿命を1年延ばすのに、旦那の寿命が3年必要って訳だ。もちろん、30年切断して、10年延ばすことも可能だ。
 まずは、金持ちが貧乏人から寿命を買った。無論、法律では禁じられているが、本人たちの合意があれば言い訳なんてどうにでもなる。しかも、金持ちが寿命を買ったのも事実ではあろうが、実際は貧乏人が寿命を売った。
 恵まれなかった人生をダラダラと続けるよりは、大金を手にして楽になって、早く死にたいと刹那的に考えたのだろう。
 借金で首が回らない人間も、寿命を売って、また享楽に溺れ、また寿命を売った。当然だろう。
 やくざな連中も、下手な労働をさせるより、寿命を買い取るシノギに手を出した。
 それだけではない。老後を気にしなくていい、と寿命を売る人間も現れた。手術費用は瞬く間に安くなっていく。
 そして金を持った老害が世に蔓延った。
 与えられた寿命まで生きられるかの結果は、まだ出ていなかったが、与えた方の結果が出てしまったのだ。
 保険制度が大きく見直され、贈与税は跳ね上がった。
 まだ、引き伸ばした寿命が正常に生きられるかもわかっていないのに。
 その結果が出るまでもなく、与える寿命と貰う寿命の差が、1/2、そして1/1となくなっていった。おそらく、その間の研究を「他人から貰わないで延ばす」方にシフトしていれば、こんな馬鹿げた命の遣り取りが行われずに済んだだろう。
 技術が上がったのは、比率だけではない。遣り取りされる寿命の3年単位は、2年、1年、そして数ヶ月単位にまで細分化された。
 「命を懸けて誓います」なんて使い古された言い回しが現実のものとなったのだ。
 こうなってくると、もうカジュアル感覚に、寿命をプレゼントする。されるのが当然になってしまう。
 確実な吉報は自殺者の激減だった。広義では、緩やかな自殺を選択しているだけかも知れないが、それでも自殺者の激減は世に希望を与えたという。
 吉報といえば、寿命の募金活動さえも行われた。
 難病の子供に、偉大な学者に。
 念の為に説明すると、延ばせるのは寿命だけだ。病気がそれで治る訳じゃない。影響はゼロではないかも知れないが。無論、大怪我には無力だ。テロメアは細胞の再生に関係するらしいので、怪我からの回復には関係するのかも知れない。わずかながらかも知れないが。いや、目に見えるほどの違いはないだろう。
 しかし、それでも難病の子供には何百年分の寿命が付与された。
 ノーベル賞学者の寿命は千年紀にも及んだ。いや、多くのノーベル賞学者は長寿を望まなかった。だからこそ、望んだ学者に集中したのだ。
 彼らはミレニアムドクターと呼ばれて持て囃された。
 その頃にようやく、テロメア手術の効果が表面化しだした。
 無論、手術の効果が見込めなかった人間もいた。とは言え、死因が老衰でない限り、テロメア手術の効果はなかったとは言えない。
 そして、老衰で死ぬ人間は減った。
 結局、老衰で死ななくても他の死因は避けられない。だから、さほど平均寿命は伸びない。いや、むしろ縮んだ。寿命を売る人間の方が、圧倒的に多く、寿命を買える金を持つ人間の方が少なかったからだ。
 その一方で、最高年齢はじわじわと伸びた。
 じわじわの理由は簡単だ。1年に1歳しか伸びないのだから。
 そして、最高年齢はとうとう200歳に到達した。
 しかし、その頃にはもう、それは歓迎されざる風潮となっていた。
 この時代になると、医学が更に進歩し、健康的生活が推奨され、多くの病気が克服されてしまったのだ。
 だがそれでも肉体は老いる。どれだけ繕っても、それは継ぎ接ぎだらけなのだ。寝たきりになっても、痴呆症になっても生き続ける。
 無論、義手義足や人工心肺の技術も向上した。金さえ積めば、それなりに寿命が来るまでを満喫できるだろう。
 だが、もはやこの時に人は、死にたがっていたと言える。
 貧乏人は生きることに疲れ、金持ちは生きることに飽きていた。
 だが、それでも培われた倫理のために、人は自殺を選べなくなっていたのだ。
 寿命は売れても、自殺は許されない。妙な話だ。
 そして、テロメア法が最初に定めていた、与える以外にテロメアを縮めることは許されない、という絶対倫理。
 生きる事に、もはや怯えている金持ち連中がいる。
 かといって自殺を選ぶほど悲観しちゃいない。
 だから、俺は広告を出したのさ。
 「寿命、買います!」とね。
 わからないものだ。なんの取り柄もない貧乏が、あっという間に金持ちになり、寿命も今じゃ3400年分ある。まぁ、計算上の話だがね。
 もともと命以外に捨てる物もない身だ。生きるのに飽きたら、死ぬ事なんて怖くない。
 もう少し生きたらの話だ。いや、もう少し生きたいって考えが、まだ実感として恐怖を覚えていないだけかも知れないが、愚かな人間の行く末を眺める生活も悪くない。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。