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現世界グルメ『焼肉』

 焼肉。それは夢の食事である。
 人間は雑食であり、古来より肉を食べて生きてきた。それは変えられない事実なのだ。
 とある「自然派レストラン」の店主がいた。夫婦で営む小さな店だ。
 食材にこだわり、調理法にこだわり、次第にそのこだわりが強い思想へと凝り固まり、彼は菜食主義者の「ヴィーガン」になり、自分の店もヴィーガン料理専門店になったと言う。
 だが、シェフのこだわりが通じなかったのか、次第に客足は遠退き、経営が困難になったそうな。
 店が立ち行かなくなるに連れ、次第に増える夫婦喧嘩。苛つきが止まらなければ、体調も芳しくない。
 しかし、それでも信念があったし、その信念について来てくれる客もいた。だから、自分が今更引き返す訳にはいかない、と思ったと言う。
 完璧な食事をしている筈なのに、体調は悪くなる。肉も食べていないのに、体臭は自分でも感じるほどに異臭を放ったそうな。
 ある時、体調に限界を感じ、短期間だけ肉食をしようと思い立った。
 信念が崩壊するほどに、その肉は美味かったと言う。
 そしてその日を機に、体調が好転したのだ。
 冗談のように活力が湧き、何よりも心に平穏が戻ったと言うのだ。
 当時は夫婦揃って菜食主義になっていたが、肉食を復活させた途端に、目に見えて喧嘩が減った。原因は、店の経営不振ばかりではなかったのだ。  そして、夫婦で決断し、自分達の店をたたみ、再び肉も魚も野菜も提供するレストランとして、再スタートを切った。
 店主はそこから再び、食事のこと、料理のこと、歴史のこと、健康のこと、人体のことを頭の中をフラットにして学び直したと言う。
 元より、料理や菜食主義にのめり込むほどには勉強家だった。一度壊され、ほぐされた脳味噌には、数々の情報が再インストールされる。
 その時に彼は、学んだのだ。人はそもそも類人猿であった500万年前から雑食であった。
 そこから、猿人、原人、旧人、新人と進化を遂げたが、我々新人類でさえ4万年という蓄積がある。
 それを食料がある程度豊かになって、肉に頼らなくても済むようになった、せいぜい100年程度で、万年単位で刻まれた遺伝子は変化などしないのだ。
 植物を育てる技術が上がり、より栄養価の高い野菜や果実は作られるようになるだろうし、人の肉体もいずれは肉食から離れるかも知れない。そういう風に進化するかどうかはわからないが。
 ひょっとすると、それはわずか数百年で成し遂げられるかも知れない。しかし、明確なのはそれは「今現在ではない」し、明日にも実現される事ではないのだ。
 シェフは、自分が客に菜食主義を強く薦めた贖罪も兼ねて、今日も調理場に立ち続ける。
 そんなブログをネットで見つけて、貪るように読んだ。
 店のブログではなく、シェフ個人の匿名ブログで、日記形式で書かれたその内容は、実に2年半にも及ぶ超大作だった。
 シェフに文才があったのと、内容が面白かったために、2年半の物語を数日かけて読破した。利用されていたブログサービスの停止により、既にその内容は失われてしまったが、実に興味深い内容だったと言える。
 この手記で学んだ事は、人間は植物だけを食べて生きていける肉体を持ち合わせていない、というごく単純で重要な事だ。
 菜食主義者を否定はしない。食べたくないものを無理に食べろと言うつもりもない。だが、人間の身体に刻まれた遺伝子が「雑食動物である」という「事実」だけは否定してはならないのだ。
 実際、肉からしか摂取できない栄養素は多くある。野菜だけでは不足しがちという意味では更に多くある。タンパク質、亜鉛、鉄、カルシウムなどなど。
 だからこそ、肉を貪り食える「焼肉」は夢の食事なのである。
 しかし、焼肉という料理は、同時に厄介な料理でもあるのだ。
 まず、家で焼くのは煙や油煙やニオイの問題がある。掃除も大変だ。
 次に価格の問題がある。安い肉であれ、たらふく食おうとすれば、相当な金額になってしまう。
 それに、複数人が満腹になるだけの肉を準備するとなると、これまた大変な作業である。
 だからこそ「焼肉」は「焼肉屋」で食うに限るのだ。
 上記の問題がほぼ全て解決し、更には一般家庭では入手困難な肉の部位も食べられる。
 もはや語るまでもない。焼肉店は夢の空間なのだ。
 だが、その夢の空間を台無しにする存在がいる。
 焼肉奉行。鍋奉行の亜種である。
 他人の焼肉の食い方に、ああだこうだと不粋な口を挟んでくる存在。
 焼き方を指図してくる輩は厄介ではあるが、当人が上手に焼いて提供してくれるなら、まあ、その点は目を瞑ることにしよう。
 しかし、白御飯を食うなとか、ソーセージを注文するなとか、ハラミを注文する奴は素人だとか、塩で食うのが通だとか、注文する順番がおかしいだとか、おかしいのはお前の頭だ、と教えてやりたい所である。
 まず、他人が勝手に、自分の白御飯まで注文したのなら怒る権利もあろうが、そうでないなら他人の胃袋だ。何で膨らませようが知った事ではない。よほどに、それこそ食欲をなくすほど食べ方が汚かったのならともかくとして、焼肉奉行の差配こそが食欲を減退させる。
 そもそも、白米で腹を膨らませるのは「焼肉を安く済ませよう」と言う卑しさの表れであると言う見解もあるが、それこそ「焼肉なのに肉を食わないのは損だ」と言うのも、結局は卑しさの表れではあるまいか。  次にソーセージやハラミ肉だが、店のメニューにあるものをどう注文しようが、それは個人の自由である。
 それこそ焼肉は一人前単位での注文が容易であり、また、鍋と違って出汁の味を濁すような影響が少ない。各々が個人プレーを楽しめば良いだけのこと。
 それでも我慢ならんほどに相手の食い方が気に入らぬのであれば、二度と同席しないだけの話に過ぎない。
 無論、気の知れた仲間と「その食い方はない」「この食い方の方が美味い」と笑い合えるのであれば、そこに口出しするつもりはないのである。
 しかし、塩で食うのが通だなどと言われても、安い、食べ放題のイマイチ、イマニ、イマサンな焼肉屋では、タレ焼きにしなければ肉質の悪さが顕著に出てしまうのだ。
 特に客数も少ない、安い食べ放題の焼肉屋の豚ロース(冷凍)などは、焼いてもカサつくだけで、水分も脂も旨味も出ない。肉に味・水分・脂分を付け足し、そのコーティングで漏洩を防ぐタレ焼きにすべきであろう。何なら、タレ焼きをタレにつけて白御飯を掻き込むぐらいが最高だ。なお、この手の肉はしゃぶしゃぶ用に向く。
 前述のソーセージやハラミ肉も同様で、安いハズレの店ほど、救済のメニューとなる。そもそも高級焼肉店ではソーセージもハラミも美味いので問題はない。
 ついでに言ってしまえば、高級焼肉店はタレも一味違うので塩が良いとも言い切れないのである。
 さて。話の流れで告白してしまうが、「個人それぞれの食べ方にケチを付けるな」なんてのは詭弁に過ぎない。
 美食とは、自分が考える最大の美味の追求である。
 したがって、タレ焼きがダメだとか、ソーセージを注文するなとか、白御飯を食うな、なんてのは言ってしまえば「的外れな指摘」だから否定しただけのこと。
 個人的見解を示すなら、焼肉屋で海産物を注文する事の方が、よほど焼肉に不要な行動であると言える。
 無論のこと、大海老だの、帆立のバター焼きが美味い焼肉屋がないとは言わない。
 しかし、大半の焼肉屋で注文する海産物はハズレだ。肉が本職なのだから当然なのだが、品質も目利きも価格も期待外れだ。
 所詮は肉を食べ飽きないように、肉が苦手な客用に、と用意されたメニューである。正直に言って、焼肉店で大満足な海産物に巡り会った事はない。
 第二の理由として挙げられるのは、ニオイである。海産物は当然の事ながら出汁が出る訳だが、この出汁が以降の肉の味や香りを大きく損ねてしまう。
 そういう意味では焼く順番が意味を持ってくるが、焼肉の最後の仕上げに海産物を食べたい人間はそう多くはないだろう。
 その点でも注文すべきメニューではないし、美食観点からすると、特にメニューに加えている必要もないシロモノである。
 さて。ここで焼肉にダメ出しをする訳だが、これは何も客に限った事ではない。海産物をメニューから消して欲しい事と同様に、焼肉店に改善を求める次第だ。
 それは、網焼きであるという事。
 まだ世がギリギリ昭和の頃までは焼肉にも多様性があった。しかし、近年の焼肉はその大半が網焼きに染められてしまった。
 確かに、網焼きにはアウトドアのような非日常感があり、その点は大きく評価できる。しかし、美食の観点から見て、網焼きを評価する事は難しい。
 確かに、直火ならではの味は魅力的だ。
 しかし、直火ならばもっと強く大きい安定した火で、肉との距離を大きく離して焼くべきなのである。焼肉屋の焜炉ではその条件が満たせない。
 テーブルに備え付けられた焜炉では、まず、火加減が難しいこと。これは肉を焼くと言う単純な料理であるが故に、致命的な欠陥と言える。そしてこれは次に繋がるが、落ちた脂が味を損ねる点は度し難い。
 多くの人間は気にしていない、と言うより網焼きが一般化して当たり前になっているのだろうが、落ちた肉の脂が焼け焦げ、煙を出し、焼肉の味までも落としてしまっているのである。
 更には落ちた脂が燃えることで火加減を狂わせてしまう。あまつさえ、落ちた脂が火口を塞ぎ、炭化することで更に火加減の調整が難しくなるのだ。  これは焼肉の味を劣化させる大きな欠陥だと言えるだろう。
 キャンプファイヤーで焼く肉が妙に美味いのは、何も心理的なものばかりではない。小さな焜炉と違って、火が大きく強く安定し、肉との距離が遠いからである。脂が火の方へ落ちないし、落ちたとしても、脂を物ともしない炎があるからなのだ。
 そして、それでも網焼きが採用されているのは、手軽さとコストという焼肉側の都合が一番の理由である。
 やはり、美食を追求するならば、焼肉は鉄板であるべきだろう。
 それも、フラットな鉄板では駄目だ。焼肉用に、山が鋭く谷が深い波型の鉄板が望ましい。肉に意図的に焦げ目を付けやすく、また、余計な脂を溝に落とすことで非常に肉が美味い焼き上がりになる。
 しかし、このタイプの鉄板は掃除に手間がかかり過ぎ、また、大きめの肉や分厚い肉を焼くのには適しているが、小さい肉やホルモンを焼くのに向いているとは言い難い。
 汎用性が高く、コストやメンテナンスを重視すると、フラットな鉄板が妥協点となってしまうのだろう。
 なお、穴あき鉄板は網焼きの良さと鉄板の良さを併せ持つ優れものだが、同時に脂が落ちて臭くなる、費用も手間もかかる、という欠点も併せ持ったままである。
 また、焼肉店と注文する客の問題はもうひとつある。
 野菜だ。正確に言うならば焼き野菜である。
 肉を食うと野菜が欲しくなるのは必然だ。いや、野菜も食ったと言う免罪符も欲しかろう。それに、焼き野菜は美味い。だが、現実を見て欲しい。
 焼肉屋で食う焼き野菜が美味かった試しがあるだろうか。
 タマネギは生。モヤシ、長ネギは焦げて燃えるだけ。ジャガイモもトウモロコシもニンジンも火が通らない。肉を焼くペースを狂わせる程に火の通りが悪い。この際だ。ハッキリ言うが、邪魔なのである。
 まず、野菜のチョイスが悪い。
 キノコ類は悪くないが、だいたい野菜盛り合わせに含まれていて単品で注文できなかったりする。
 チシャ菜(サンチュ、レタス)系は生食なので除く。キャベツは焼いても美味いが、生でも美味いし、肉を焼き上げるまでの箸休めとしても役立つし、キャベツの酵素は焼肉での胸焼けを防ぐので除外する。
 また、ピーマンも生食に耐え、焦がしても美味いし、特に豚肉との相性が良いから例外とするが、タマネギやネギ、ジャガイモ、トウモロコシ、ニンジンと主要な野菜はすべて焼肉に向かないのである。
 野菜を食いたければ、チシャ菜やキャベツを注文するか、ナムルかキムチ等で代用した方がいいだろう。
 まず、切り方が悪い。網焼きでは焦げるだけで、まるで火が通らないカット方法とサイズだ。かと言って、サイズダウンさせると網から落ちて燃えるだけ。モヤシなんて問題外だ。
 これらの問題は結局のところ、野菜の下処理が出来ていないのである。
 タマネギの輪切りに串を通し、軽く蒸す、なんてそこまでやれとは言わんが、トウモロコシやニンジンをサッと茹でるぐらいはやって欲しい。
 ジャガイモは串切りではなく拍子木切りにするとか、せめて輪切りにして隠し包丁ぐらいは入れるべきだろう。
 こう言った配慮がまるで出来ていないのである。それが焼肉における焼き野菜の問題だ。
 にも関わらず、何となく野菜を注文してしまう客の方も問題ではないか。  これらを問題にせず、ソーセージだのハラミだの塩で食うだのと、通気取りにも程がある。
 だが、野菜の下処理に手間を掛けるぐらいなら、やはり網ではなくフラットな鉄板焼肉に戻すべきではないだろうか。
 鉄板なら問題なく野菜も焼ける。そして何より、肉から出た脂を野菜が吸う事により、野菜の旨さが引き立てられるのだ。
 しかも、それだけじゃない。
 ネギ塩タンからこぼれ落ちる刻みネギという悲しい存在もいなくなる。モヤシなどの全く網焼きに向かない野菜が活きて来るばかりか、肉汁を吸わせたガーリックライスなんて真似も出来てしまう。
 もはや我々が生きているこの世界線では網焼肉が覇権を握ってしまったが、我々は今からでも、鉄板焼肉主体の異世界を目指すべきではなかろうか。
 ん? なになに? それを現世界では「鉄板焼き屋」と言う、だって?



 ※ この記事はすべて無料で読めますが、ワタクシが焼肉を食えるよう、投げ銭(¥100)をお願いします。
 なお、この先には、安い焼肉店の問題についてしか書かれてません。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。