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BORN TO RUN " HERO "


 「今夜の俺はヒーローになります!」
 試合直前のインタビューに、倉科賢太郎は、やや緊張気味の表情で答えた。
 大会初日の最終試合。
 生中継の映像を観ながら、俺は苦笑いを浮かべる。
 そして、目の前のインタビュアーが俺にマイクを向けた。さすがはヒーローだ。俺の立場もよく分かってる。
 「今夜の俺は、ヒーローを倒す悪役ヒールになるよ」
 インタビュアーにそう告げて、カメラマンを押しのけるようにして選手控え室を出る。
 会場までの廊下がこんなに長く感じたのは初めてだ。
 倉科賢太郎。おそらく本大会で最も有名な人物だ。おそらく、他のどの格闘家よりも知られている。理由は説明するまでもない。倉科がヒーローだからだ。
 16歳で俳優としてメジャーデビュー。マイナーな特撮ヒーロー番組のサイドキック役だったが、その愛らしい顔で一気に注目を浴びる。
 翌年、アクション映画で主演。その翌年、倉科をスターダムにのし上げた特撮番組が劇場映画化される。それも、主役を差し置いて、その主役の跡を継ぐサイドキックの物語だ。つまり、実質は主演である。
 その翌年、人気等身大ヒーロー物の主役に抜擢。その作品も映画化され、主役を続投した。
 同年、人気少年バトル漫画の実写映画化で再び主役を射止める。1作で綺麗に纏まった作品だったが、人気を博したため、急遽3部作として続編が2本作られた。
 更には、長寿番組である巨大ヒーロー物の主演に大抜擢。
 特撮ヒーローを代表する2作品に、主演でキャスティングされた唯一の俳優、という事になる。
 そのヒーローを、今から俺がぶちのめす。
 いや、わからない。倉科が本当に強い可能性はゼロじゃない。
 5歳の頃からカンフー映画に憧れて、中国拳法を学んでいると言う。
 他にも、空手2段。柔道初段。更にはキックボクシングのジムにも通い、なんと次の主演が決まっているドラマの題材として、ボクシングのプロライセンスを取得する寸前だと言うではないか。
 今回の大会に出場するに当たって、唯一、特集番組を組んでもらった選手でもある。
 その番組を観た限り、レスリングにも、総合格闘技にも手を伸ばしているようだ。映像を分析してみたが、間違いなく身体能力は高い。
 格闘技の他にダンスや器械体操などもこなしている。立ち技、特に打撃に関しては俺以下なのが明白だったが、寝技に関してはこっちが素人同然だ。倉科の方が上である可能性は低くない。
 随分と長く感じた廊下だったが、爆音と共に光が俺を照らし出す。
 「立ち技界の撃墜王! 氷室ッ! 丈二! 選手の入場です!」
 割れんばかりの歓声が俺を包む。間違いなく、生涯最大の喝采。悪くない気分だ。だが、こんなのは余興に過ぎない。わかってる。
 リングに滑り込み、対角コーナーの選手を待つ。アナウンスが始まるより先に、会場にどよめきが走り出す。
 「青コーナーより! 特撮界のヒーロー! 俳優にして現役の格闘家! 果たしてヒーローの力は本物なのか! それともただの客寄せパンダか! ミスター・視聴率! 中国拳法! 倉科ッ! 賢ッ太郎! 選手の入場です!」
 俺の何倍、いや、何十倍とも思える声援が会場を揺さぶる。
 この大会における最大の集客は、間違いなく倉科だ。俳優としての倉科のファン、特撮ヒーローとしての倉科のファン、そして、格闘家としての倉科のファン。
 それだけじゃない。そのアンチって奴の存在だ。格闘技ファンの多くは、倉科の実力を疑っている。残念だが、どの世界であれ、トップを獲れる奴なんて極少数だ。その中でも、二足の草鞋を履いてトップを獲れる奴はおそらく何億分の1の確率だと言える。
 間違いなく倉科の身体能力は高い。格闘家として、競技を一本に絞っていれば、あるいはトップを獲れたかも知れないだろう。だが、こちらはその一本で食ってるプロだ。そんなのに負けるなんて醜態を晒す訳ににはいかない。
 「尊敬する人はブルース・リー」と言った笑顔を泣きっ面に変えてやる。
 「中国拳法の凄さを見せつけたい」という宣言を不履行にしたい。
 この大会の対戦相手は基本的に無作為である。試合が成立するまでにルールの擦り合わせは行われるが、不成立者同士での再抽選は1試合につき2度まで。それで成立しなければ、あるいは再抽選相手がいない場合は失格となる。そう。体格差や体重差、ルールの有利不利に関わらず、だ。
 倉科の体重は俺より7kgも軽い。大会のために増量して、この差がある。
 立ち技で負ける事は有り得ない。この日のために、寝技も最低限は習得している。体格差を利用すればパワーで押し切る事も、ラウンド終了までの時間を耐え抜く事も可能だ。負ける事はない。
 それなりに名の通った格闘家はシード選手と同等の扱いで予選を通らずにエントリーしている。俺も、倉科もだ。
 倉科が予選なしで本戦に参加できるように取り計らったのは正解だろう。大会としては外せないお飾りだ。
 だが大会の運営は、試合相手を本当に抽選で選び、更には八百長も持ちかけて来なかった。
 八百長を持ちかけて来ていたら? 断るだけの事だ。だが、倉科はそんな素振りすら見せなかった。いい度胸だ。潰し甲斐がある。
 ああ。そうか。嬉しいのだな。倉科賢太郎というヒーローをぶちのめせるのが。
 リサーチした限り、映像はほとんどが練習風景で、試合らしい試合は空手の地方大会のビデオだけ。型や動きは綺麗だが、破壊力には欠ける。負ける道理はない。
 どうやって倉科をぶちのめすか。そう考えているうちに、ゴングが鳴った。
 その瞬間、グローブも合わせずに、倉科が突進して来たのだ。
 そういうのは悪役のやる事だろうが。
 俺が思った瞬間、倉科が跳んだ。
 ありえない。ありえない。ありえない。
 ひとつ目の有り得ない、はその跳躍の高さだ。いや、リングのマットがバネの役割を果たしたのかも知れない。だが、そんな高さまで跳ぶなんてのは想像を超えていた。
 もうひとつの有り得ない、は真剣勝負であるこの試合で、そんな派手なパフォーマンスとしか言えない跳躍を見せた事だ。これは特撮ヒーロー番組でも映画でも格闘ゲームでもない。通用するはずがない見せ技を披露するなんて事は「舐めている」としか思えぬ行為である。
 3つめの有り得ない、はそれがただの見せ技で、何の意味も持たない事だった。
 仕掛ける距離が遠過ぎる。いくら高く遠く飛ぼうが、当たる訳もない。そもそも届かないのだから。
 自分の脳味噌が煮立つのを感じる。
 怒りがない訳ではない。間違いなく、怒りを覚えている。そして同時に、冷めていく自分を感じていた。
 実力が足りない、格下、そういう選手が奇襲戦法に出るのは珍しい事じゃない。実際にそれで大金星を挙げた選手は過去に幾らでもいる。
 だが、俺がそれをされるとは思っていなかったのだろう。倉科がそれをやるとは考えていなかったのだろう。
 実力的に負ける要素はない。そう思っていた。倉科を、選手として格下に見ていた事は認めるが、そんな真似をしてくる相手だとは思っていなかった。
 実力で勝てぬとしても、打撃戦に付き合うだけの根性はあんと思っていたのだ。
 あるいは、打撃戦に付き合わず、食らいついて寝技に持ち込んででも、泥臭い勝利を掴みに来ると思っていた。
 それが、初手から馬鹿馬鹿しい見せ技で「一矢は報いました」みたいな茶番を演じて終わるつもりか?
 ふざけるな。俺の脳味噌がぐらぐらと煮立つ。
 どうあれ、全力でぶつかりに来ると思っていた俺を侮辱している行為だ。脳味噌が煮立つと同時に、感情が冷める。そんなつまらない事をする奴だったのか。
 そして、俺にそんなフザケた茶番の相手をしろ、と。
 宙空で、やけに長い滞空時間の倉科が、体躯を美しくくねらせる。
 胴回し回転蹴り。
 観客が沸き立つ。
 何とも派手な技だ。
 実戦での胴回し回転蹴りは、近距離での乱打戦の合間に混ぜるべき技である。
 中にはこの技を必殺技に持ってくる選手もいるが、必殺技とするには難度が高い。ハッキリ言ってしまえば、大技に過ぎるのだ。
 空中で一回転して蹴るのだから、技の出が遅い。軌道が遠い。軌道が読まれる。
 だからこそ、近距離で激しい打ち合いの際に織り交ぜる事で、ようやく使える技となり得るのだ。
 素人相手なら技も軌道も予想外だろう。しかし、プロ相手に織り込むには見え透いている。
 それを異様なまでの高い跳躍から出したところで、見え見えなのだ。
 確かに見惚れるほど高く早く美しい胴回し回転蹴りだろう。だが、そんなものが当たるはずもない。そして、いくら跳躍したとは言え、届く距離ではないのだ。
 当たらない。当たる訳がない。
 俺は冷静に、一歩だけバックステップし、万一を警戒する。大丈夫だ。冷静さはなくしていない。
 倉科の胴回し回転蹴りが空を切った。当たる訳がない。そう思った瞬間、思わぬ光景が眼前にあった。
 ほとんど音も立てず、倉科が、そのまま華麗に着地したのだ。
 胴回し回転蹴りの欠点はもうひとつある。その身を投げ出し、空中で回転して蹴るのだから、技がどうあれ、地面に倒れる事になる。掴みや倒れている相手への攻撃、寝技を禁じられている空手などの競技なら問題ないが、倒れている相手だろうと殴れる総合格闘技ルールで、自ら寝転がる羽目になる技は危険度が高過ぎる。
 逆に言えば、空手の試合なら、当たろうと躱されようと、カウンターや追撃のリスクを大きくカット出来ると言う利点はある訳だ。
 いや、違う。倉科の狙いはそうじゃない。
 俺が胴回し回転蹴りを潰しに行っていたら、分が悪い寝技に持ち込まれていた可能性が高かっただろう。胴回し回転蹴りが不発の所を追撃に行けば、倉科は綺麗に着地して反撃の機会となっていた。
 倉科は見せ技を披露したんじゃない。見せ技だと見せかけたのだ。
 後ろに躱したのは正解だった。
 倉科は華麗な着地を見せると同時に、間髪を容れず、倉科の右脚が地面を這うように弧を描き、迫ってきた。
 前掃腿。カンフー映画でよく見る、いわゆる足払いである。
 素早く美しい動作だったが、これもまた軌道が遠く読めていた。もう一歩バックステップで躱す。
 それと同時に、今度は倉科の左脚が、同様に地面を這って追いかけて来る。後掃腿。よく、前掃腿と併せて用いられる技だ。
 パンチで言うワンツーのように、前掃腿が躱されても後掃腿で追撃する。しかし、大事をとって躱しはしたものの、俺の中で、こんな足払い程度が効くとも思っていないのだ。
 ハッキリ言えば、見た目こそ美しいが、地面を這わせる事で蹴りの威力は殺される。地面に手をつく姿勢も無駄だ。軌道にも無駄がある。
 空手にも足払いはあるが、攻撃の上下を散らしつつ、足払いを掛けるような工夫はあるのだ。これほどあからさまに下段を出すなんて姿勢を取りはしない。
 そもそも、足払いも基本は相手の蹴りに合わせて軸足を刈りに行く。カウンターでもなければ、格闘技経験者の姿勢を足先ひとつで崩す事は難しいのだ。
 わからない。倉科の思惑も、その実力も。ふざけているのか。舐められているのか。それとも言え全力なのか。実力を隠しているのか。
 俺が警戒しすぎているのか。いや、俺自身もわからない。倉科を見くびっているのか。それとも恐れているのか。
 プロの格闘家が、俳優に負ける。ありえない事だが、それが現実となったら? そこに恐怖を感じているのかも知れない。自分では平常心なつもりだったが、そうではないのかも知れない。
 そう思った矢先、倉科がさらにもう一撃の前掃腿を仕掛けて来ていた。
 ふざけやがって。そう思いつつ、もう一歩後退した瞬間、その背中に存在感を感じ取る。
 コーナーだ。追い詰められた感はない。だが、ゴングと同時に仕掛け、倉科は俺を退かせる事に成功し、形だけかも知れないが、あまつさえオーナーに追い込んでいるのだ。
 観客の歓声が高まる。観客を沸かせる事が倉科の目的だとしたら、俺はいいダシにされたって事か?
 倉科の前掃腿が、俺の爪先に触れるか触れないかの場所でピタリと止まり、それと同時に、更にもう一撃の後掃腿が放たれた。それも、その軌道は、鋭く上空を狙っていたのだ。
 跳ね上がる倉科の爪先。
 胴回し回転蹴りから始まる五連撃。倉科の目的は最初からこの五撃目にあったのか。
 確かに、予想を上回っていた。作戦も素晴らしい。俺の反応が遅れた事も間違いない。だがそれでも、倉科は素人で、俺はプロだ。
 俺がスウェーバックして身を反らせるだけで、倉科の爪先は、俺の眼前を掠めただけに留まった。
 会場内がどっと沸き立つ。観客からすれば、この攻防を生で見られたってだけで金を払った価値があるだろう。
 驚いた事に、倉科は攻撃を外しても姿勢を崩さず持ち直し、再び、低く広めのスタンスでファイティングポーズを取っていた。体操選手の着地じゃあるまいが、10点満点をあげたい芸術的な流れだ。
 だが、倉科は何がしたい? 京劇か雑技団みたいな真似をして、試合でも技が使えると見せたいだけか? いいや、違う。派手な事をやっても1発も当たりませんでした、を見せてどうする?
 そもそも倉科だって空手を学んでいる。中国拳法と言うよりは、カンフー映画みたいな戦い方をしなくても、もっと実戦的な動きは出来るはずだ。
 空手だってそうだ。練習時には正しいスタンス、美しいフォーム、流れるような動作で正拳を突く。だが、そんな教科書みたいな打撃を本番で行う事は不可能なのである。
 自分も動く。相手も動く。動き続ける。止まっている瞬間などない。
 武術家が全身全霊の一撃を、1ミリも動かない相手に決められるのだとしたら、まず相手は動けなくなるだろう。だが、そんな事は有り得ない。踏み込んだ脚を狙われる。そして、たった1ミリでも動けば、威力は半減されてしまうのだ。まして、こちらも動き続けねばならない。止まれば相手からの全力を食らう羽目になるのだから。
 そんな遣り取りの中で、これほどの大技を連発してみせた倉科の体術は間違いなく本物だ。だが、そんなものが当たる訳がない。当たらなければ倒せる訳がない。一体何がしたい? 倉科は何をしにこのリングに上がってきた?
 低めに構えた倉科が、妙な歩法でステップインしてくる。恐らくは中国拳法の足運びだろう。あまり他に類を見ない足捌き。蹴りが来るのか、拳が来るのかも見当がつかない。いや、これらも全て伏線で、タックル狙いかも知れない。
 目的は知れぬが、ひとつだけ明確なのは、俺が今、コーナーを背にしていると言う事。
 倉科の技に対する恐れはないが、ロープ際ってのは良い話じゃない。
 単なる偶然ではあるまい。誘い込まれたのは俺か。
 倉科が身体ごと距離を詰めて拳をぶつけて来た。だが、挙動が大きい。速度も遅い。俺はパリング(相手のパンチに合わせて手を当て、パンチの軌道をずらす防御テクニック)でいなす。すぐさま次弾が飛んで来るが、遅い。
 拳、拳、蹴り。拳、蹴り。続けざまに来る倉科の攻撃は、どれも速くはなかった。コンビネーションの組み立てはいい。だが正直に言って、威力、速度ともに使えるレベルじゃない。余裕でディフェンスが間に合う。
 ガードを割って入るようなパワーも、ガードの合間を縫うようなテクニックもスピードもない。
 パリングが、ブロックが、スウェーが、ヘッドスリップが間に合う。
 倉科が少しギアを上げたのか、速度こそわずかに上がるも、感触としては威力が落ちた。
 矢継ぎ早に繰り出される打撃は、先ほどよりも「手打ち」になっている。
 わからない。倉科の目的も、実力も。ただ明確なのは、次第にギアを上げて、速度は上がっているが、それは今だけだ。速度を上げようともモーションが大きすぎる。テレホンパンチもいいところだ。その全弾を回避か防御されている。無駄玉を撃ち続ければ、速度は落ちるだろう。
 いや、待つまでもない。この倉科が程度なら、怖くはない。いや、何を恐れていた? 何を期待していた? 何に落胆した?
 まだ試合開始から30秒と経過していないだろう。
 倉科の実力はリングに上がって来られるほどじゃなかった。それだけだ。奇襲で一方的に派手な技を見せはしたが、その程度だ。まだ1発も喰らっちゃいない。側から見れば、それこそカンフー映画のような猛攻だろう。だが、1発も喰らっちゃいないのだ。
 見慣れない技で戸惑ったのか? 観客の声に遠慮したのか? それとも、ヒーローを倒す悪役になる覚悟が足りなかったか?
 繰り出される倉科の右正拳に、右をクロスさせる。相手の攻撃よりも速く繰り出されるカウンター。
 倉科が後ろにもんどり打った。
 タイミング的には完璧に入ったかと思ったカウンターだったが、浅い。倉科の打撃が弱かったお陰か、それとも、勘が働いたか。ダウンを取れるほどではなかったが、倉科がフットワークを取って、距離を開けつつ、体勢を立て直す。
 観客にどよめきが走る。15発は放ったであろう倉科の連撃が、たった一発の俺のパンチで止められたのだから。
 距離を取ったのは正解だ。だが、こちらも距離を取らせるほど甘くはない。すかさず距離を詰め、手打ちであろうフックをダッキングで躱して、左右のボディブローを入れる。いや、浅い。
 倉科が更にバックステップで距離を取る。だが、明確にボディが効いている様子だ。足取りに軽やかさがない。
 俺は倉科の仕留め方を考える。このままラッシュで追い込んで倒すか。それとも、腕を壊し、足を砕き、翼を折り、その心を破壊するか。
 開幕の流れは倉科に奪われた。いずれにせよ、今度はこっちが流れを制する番だ。
 後退する倉科に対して、距離を詰め、上下に拳と蹴りを散らして、刈り取りに行く。
 だが、倉科の防御は思ったよりも堅固だった。ガチガチに防御を固め、亀のように身を縮める。
 ガードの上からでも効いてはいるだろうが、効果的ではない。そして、倉科も反撃できない。
 ひたすらガードを固める倉科と、ガードの上から殴り続ける俺。このままではスタンディングダウンを取られかねない。
 俺は膝を入れて、距離を密着させつつ、首相撲の姿勢に入った。
 これならばガードがあろうと関係ない。倉科の身体を揺さぶりつつ、脇に膝を入れる。
 倉科も対策はしてきたのだろう。跳んでダメージを殺すが、それ以上の手応えはある。確かに、倉科の体幹は常人以上だ。しかしそれでも、首相撲で軸を揺らされながらの膝蹴りに耐え続けられる程ではない。
 倉科が身を捩って首相撲から抜け出す。汗で滑らなければ、もう一撃は入れられただろう。だが、膝蹴りが脇に4発。充分なダメージは与えた。
 刹那。ふらつく足の倉科が、ぴたりと動きを止めたのだ。一瞬、時間が止まったのではないかと思うぐらいに、不自然な停止。俺は追撃を掛けようと前のめりになっていた。
 倉科の止まった動き。絶好のチャンスだ。打撃が効いて動けなくなったのか。そう思うほどに不自然な。
 違う。ふらついたように見えたが、違う。首相撲からの離れ際に、ふらついたのではない。
 ダメージは与えていた。それも事実だ。だが、難を逃れて取った姿勢ではない。
 両足を少し広めに、しっかりとしたスタンス。そして、よろけたように見せて、俺との間に隙間を作ったのだ。
 低く、腰を落として、ゆらりと。
 止めた時間がゆっくりと動き出すように、ゆらりと。
 倉科の拳が、俺の腹部に張り付いていた。
 寸前に、危機を感じる。
 待っていたのだ。倉科は。この瞬間を。
 まずい一撃が来る。そう思ったのは、倉科の拳が俺に触れてからだった。
 ずどん、という衝撃が、腹部に走る。いや、それはまるで飛んでもない音圧のスピーカーの前に立ったかのような衝撃だ。打撃とは全く違うインパクト。
 腹に銅鑼でも抱えて、それをスラッガーが金属バットで殴ったかのような波が、腹部を中心に広がっていく。
 まずい一撃を喰らった。一瞬、俺の身体が1ミリ程度かも知れないが、宙に浮いたような気さえする。
 痛いとか、苦しいとは違う。ただ、肺にあった空気が全部口から漏れ出たように思う。
 俺は、気が付いた時には尻餅をついていた。
 何が起きたのかはわからない。近しいのは、顎先にパンチを喰らって脳味噌が揺られ、脳震盪を起こしダウンした時の感覚。明確に違うのは、脳が揺らされた訳でもないのに、尻餅をついていた事だ。
 尻餅? ダウン? スリップ? どう判断された? 審判の方を見る。だが、審判もダウンかスリップかを判断しかねている様子で、一瞬遅れてから俺と倉科の間に割って入り、カウントを取り始めた。
 だが、俺の脳味噌は正常だった。ダウンを取られた事は幸いだったと言える。
 事態を把握する時間を貰えたのだ。
 俺はすぐさまに立ち上がる。これも正常な判断だ。脳震盪を起こしていたら、立ち上がらずに休んだ方がいい。だが、意識はハッキリしているし、脳からの命令に手足もちゃんと動く。
 大きく違うのは、手足の感覚が薄く、僅かに麻痺しているように感じる。酸素不足で手足が痺れている時のような。いや、脳味噌の芯も少し痺れている気がする。
 俺のダウンに会場が騒いでいるはずだが、耳さえも遠く感じられた。
 何をされたのかはわからない。だが、おそらくこれが、噂に聞く「発勁」という奴なのだろう。
 今までに喰らったどんな打撃とも違う、訳の分からない衝撃。近しいのは、音圧だ。とんでもないボリュームの音が、自分の肉体を駆け巡るような。
 だが、それだけだ。
 手足は動く。頭も冴えている。俺は、ファイティングポーズを取り、審判に試合続行を促す。
 再開の合図とともに、俺は倉科に襲い掛かった。
 左、右。ロー。ミドル。左フック。右フック。ロー。
 倉科もガードを固めていたが、構わずに叩き込む。左。左。ロー。右。
 そのうちにガードが割れた。それでもたたみ込むように打ち続ける。捕まえて、膝。膝。膝。
 そこからどう攻めたのかは記憶にない。
 気がつけば、倉科はリングに蹲っていた。
 レフェリーが、俺の腕を上げる。その時にゴングの音が耳に入って、ようやく我を取り戻したのだ。
 1ラウンド2分20秒KO。俺の勝ちだ。
 だが、倉科相手にダウンを喫したこと、いや、正確には倉科のあの一撃を喰らったこと。
 この点では、完全に俺の敗北だと言わざるを得ない。
 あの技がもし、顎に入るアッパーだったら? 倒れていたのは俺だ。
 渾身の一撃ってのを打たせた事が、俺にとってはもう敗北なのだ。
 リングを降り、花道を抜け、控え室に戻る。
 インタビュアーが何を聞いてくるかは想像がつく。
 格闘技を舐めんな。だが、俺も倉科を舐めてた。だが、油断はしてなかったし、アレはスリップじゃない。ダウンだ。
 後はせいぜい、大会を勝ち進んで、倉科を倒した男は強かったんだと証明してやるしかない。


 ※ この小説シリーズは無料で読めますが、お気に召した方は投げ銭(¥100)をお願いします。
 なお、この先にはあとがき的な物しか書かれてません。

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103字

¥ 100

(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。