「正攻法じゃ濡れない。」
僕は意図の視える詩篇が嫌いだ。
反戦、差別、貧困、孤独、失恋、弔意。エトセトラエトセトラ。
そう言うモノを主張したり慰めたりする事に、もう詩篇は遣うべきじゃないとさえ思っている。
しかしだからと言って何でも抽象の絞り汁みたいなモノにしろと言ってる訳じゃない。
究極で言うと、意図が有る事を理解されないのが一番なのだ。
よく「詩篇には読者によって百万通りの視え方が有る」みたいな事を言う人も居るけど、其れは違うと感じている。
正確には「詩篇には一通りも確かな視え方は無い」の方が正しい。
だからこそ、詩篇は何よりも束縛されて、何よりも自在なのである。
僕は言葉自体に美しさが宿っている訳では無いと思っている。
美しさは、言葉の組み合わせの中で偶に光る決定ボタンだ。
確かに言葉の中には、粋だったり、情緒に富んだり、意味がヘヴィーなモノが有るのは判る。
でも、其れで幾ら詩篇を書いても、其の言葉の御蔭で美しい詩篇に観えるだけで有って、詩を書く上で大切な、自分の意識のドアを叩いている事は出来ないと感じている。寧ろそう言う事に依存するから理解出来ない儘、只の言葉の警備員に成り果てるのだ。
海は何時まで海のつもりか。
山は何時まで山のつもりか。
空は何時まで空のつもりか。
僕は何時までも個の詩人ぞ。
所謂、小説や随筆や歌詞や論文などの文章依存のコンテンツの中で最も落ちブレているのは間違い無く詩篇だと言わざるを得ない。
最早この世に活かされている詩篇は、冷蔵庫に貼ってあるメモ帳と、漫画の最初に記述されている散文、そしてパソコンのエラーメッセージだけだ。
今後の詩人は、世の中の役に立たない詩篇に狙いを定めつつ書くしかないと思い知らねば成らない。
寧ろ其処に活路を見い出すべきなのだ。
詩篇で御飯が食べられないなら、倖いだ。
空腹を題材にした詩が書ける。
詩篇で非難を轟々と受けるなら、倖いだ。
虐殺を題材にした詩が書ける。
詩篇で羞恥だと嗤われたのなら、倖いだ。
熱情を題材にした詩が書ける。
詩篇で苦渋まで生じ始めたなら、倖いだ。
残骸を題材にした詩が書ける。
綾波レイさんは長髪の方が好きだし、バンクシー氏の作品はプリントしたポスターで溜飲が下がる。
書籍は決してゴミなんかじゃない。人間は不完全なゴミとして産まれて、死ぬ事で完全なゴミに成れる事に、書籍を加えないで欲しい。人間が只々の燃えるゴミで在れば佳いだけだ。
もう、聴き心地の佳い感じに組み合わせて人々の脳内を御花畑にした詩篇の相手をしてはいけない。
他人の芸術家気取りに巻き込まれるのが一番の不義だ。
器用と言うのも、自分を殺し抜いた上で、巧く生き抜いてしまうだろうから詩人に成るには努力しなければ成らぬ。
呉々も早まる事無く、恩師は教祖だと知り給え。
忠告も含めて、教えておく。
僕は、詩人に全く評価されてない詩人だ。
そして正攻法を棄て、詩篇しか手元に無い大馬鹿者だ。