【休日に読みたい】オススメ書籍29選!※2024年2月分

X(Twitter)で、毎日オススメの本を紹介しているので、その紹介文を以下に列挙します。目次が紹介対象の本の一覧となっているので、ぜひ気になった本があれば読んでみてください!

今回紹介するいくつかの書籍はKindleやAmazonオーディブルに対応しています。個人的にAmazonオーディブルは激烈にオススメのサービスなので(通勤中や皿洗い中でも読書できるため)、ぜひそちらもチェックしてみてください↓


①小川(西秋) 葉子・太田邦史編『生命デザイン学入門』岩波ジュニア新書、2016年 

人々がよい心をもっていれば社会はうまくいくとか、よい法律をつくれば社会はうまくいくというような考えをしているかぎり、社会はよくなることはないと思います。
①社会は意図してできるものではない
②意図しない結果が複雑に絡みあって、一つのマクロな現象が生まれる。
この2つの社会科学の基本をベースに考えていくことが大切だと、私は思っています。
少し細かく言うと、
①社会は一人一人がある信念、価値をもってとる行動の単純な集積ではない
②一定の行動パターンができると、それを前提としないで行動することができなくなる。となります。

小川・太田、208頁 

 

②安藤泰至『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』岩波ブックレット、2019年

「「安楽死」や「尊厳死」について、世界共通の定義や学問的に公認された定義などは存在しない。「安楽死」や「尊厳死」といった言葉が出てきたときに、それが何を指しているのか、ということは、極端に言えば論者ごとに違うし、同じ論者が同じ言葉を違った意味で使っている場合すらある。こうした用語の問題をきちんと考えるためには、なぜ人が「安楽死」や「尊厳死」といった言葉を使うのか、あるいは使わないのか、についての歴史的な経緯やイメージ戦略、すなわち言葉のポリティクス(政治)に敏感になる必要がある。」(25頁)

「ただ、本書で強調したいのは、次のことである、私たちが安楽死や尊厳死を肯定する前にまず問わなければならないのは、「私たちは、「死にたい」と言っている人が「死にたくなくなる(生きてみたくなる)ような手立てを十分に尽くしているのか?」ということ、そして「私たちは、それぞれの個人が自分の生き方(このように生きたい)を追求することを尊重できる社会を作ってきたのか?」ということだ。(60-61頁)」

安藤(2019)

③瀧本哲史『僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 』講談社文庫、2013年

全産業の「コモディティ化」が進む世の中で、唯一の富を生み出す時代のキーワードは、「差異」である。「差異」とは、デザインやブランドや会社や商品が持つ「ストーリー」と言いかえてもいい。わずかな「差異」がとてつもない違いを生む時代となったのだ。マーケターとは、「差異」=「ストーリー」を生み出し、あるいは発見して、もっとも適切な市場を選んで商品を売る戦略を考えられる人間だといえる。

瀧本、121-122頁

④オリバー・バークマン『限りある時間の使い方 人生は「4000週間」あなたはどう使うか?』高橋璃子訳、かんき出版、2022年

日々のあらゆる時間を努力で満たしていれば、いつか幸せな未来がやってくる。そう信じる気持ちは宗教とたいして変わらない。すべてが完璧にうまくいき、悩みも苦痛もなく、何も努力しなくても安心していられる状態──それと天国のあいだに、どれほどの違いがあるだろう。現代人が休みの日に仕事をするだけでなく、筋トレで自分を痛めつけるのも何ら不思議ではない。禁欲と自制でみずからの高潔さを証明しなければ、敗者の烙印を押されそうで不安なのだ。
 休息を休息として楽しむために、まずは事実を正しく受け入れよう。
 あなたの日々は、完全無欠の未来のための準備期間ではない。そんな仮定で生きていたら、人生の4000週間を充分に生きることはできない。

バークマン、176頁

⑤ハイデガー「なぜわれらは田舎に留まるか?」フッサール・ハイデガー・ホルクハイマー『30年代の危機と哲学』清水多吉・手川誠士郎訳、平凡社ライブラリー 

冬の深夜、ヒュッテのまわりを突き上げるように凶暴な吹雪が荒れ狂い、いっさいが蔽い隠される時、そうした時こそが哲学の至高のときなのだ。その時こそ哲学の問いは、端的かつ本質的になるに違いない。思索の一つ一つの徹底的遂行は、実に困難で厳しく、それ以外ではありえない。言葉を鋳造する辛苦は、嵐に抗し聳え立つ樅(モミ)の木の抵抗のごときものである。

ハイデガー、129頁 

⑥石川文康『カント入門』ちくま新書、1995年

本書の冒頭で、カント哲学を「理性批判」、「批判哲学」という言葉で一括して総称した。つぎに(...)そもそも批判哲学に固有の一貫的性格はなにかが問わなければならない。この問いに対しては、ひとことで「仮象批判」と答えることができる。仮象(Schein)とは、わかりやすくいえば「単に~に見えるもの」、すなわち「見かけ」や「先入観」などのことであり、ベーコンのあげるイードラはすべて仮象の別名にほかならない。
 では、これがなぜ哲学の中心テーマになるのだろうか。それは、仮象が「~に見えて、そのじつ~ではない」、とりわけ「健全な常識感覚ではどう見ても~に見えるが、そのじつ~とは似ても似つかない」という性質をもっており、つねに真理の認識を阻害するからである。真理の認識のためには、まず仮象が見抜かれなければならない。(...)ところで、一般に学問は真理探究の営みであり、とりわけ哲学は辞書的な語義からして「物事の真理を追求する学問」、あるいは「根本真理を探究する学問」などとされている。このような場合に意味される真理とは、日常感覚にじかに露わになっていない真理、その意味では日常感覚にとっていわば隠された真理である。(...)発見されるほどの真理は「どう見えても~であるように見えて、じつは~ではない」、という仕方で隠されていることになる。したがって、「真理の探究」を旨とする哲学はどうしても仮象批判の形をとらざるをえない。

カント、19-21頁

⑦オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』佐々木孝訳、岩波文庫、2020年 

つまり私たちは、信じられないほどの能力を有していると感じていても、何を実現すべきかを知らない時代に生きているのだ。あらゆるものを支配しているが、おのれ自身を支配していない時代である。おのれ自身の豊かさの中で途方に暮れている。かつてなかったほどの手段、知識、技術を有していながら、現代世界は、かつてあったどの時代よりも不幸な時代として、あてどもなく漂流している。
現代人の魂に巣くう優越感と不安感の、この奇妙な二重性はここに由来する。

オルテガ、111頁

⑧猪木武徳『経済学に何ができるか──文明社会の制度的枠組み』中公新書、2012年

意識するしないにかかわらず、われわれの日常生活は、十分に予測できない将来に向かって営まれている。日々の生活のための買い物(消費行動)も、一生に一度あるかないかの不動産の売買も、その将来の価格の動き、取引の対象となる商品の質などに関する情報を完全に知りえないまま、行動に移す場合がほとんどである。いや、将来を完全に知りえないからこそ、「決断し行動する」という方が正しいのかもしれない。自分の知識がいかに不完全なものであるかを、それほど実感せずにわれわれは行動しているのだ。社会制度には、こうした人間の知識の不完全性への「対抗措置」として作り上げられた(生まれた)ものが多い。したがって、一見不合理に見える制度や慣行も、人間がその知識の不完全性を補いつつ、できうる限り合理的に対処できるように編み出されているのだ。
 「合理的」だと思い込んでいる人間は、可能な限りの情報を集めて将来の市場の動きを予想して判断を下そうとする。しかしその結果は必ずしも予測と一致するわけではない。われわれはこの知識の不完全性が生み出すリスクと不確実性(uncertainty)に囲まれて行動しているのだ。

猪木、71-72頁

⑨堀江貴文『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』光文社新書、2017年 

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育ってほしい」などと言うものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。
 一般的に日本の工業製品は歩留まり(全生産量に対する、不良品でない製品の割合)が高いとされている。
 徹底したマニュアル化、オートメーション化、何重にも及ぶ検品体制の整備などによって歩留まりの高さを実現し、顧客ニーズに応えてきた。
 学校も同じだ。教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、どうにか「規格内」になるよう尻を叩く。そして、「会社」に納品する。
 もし子どもたちが生きた人間ではなく学習機能を備えたロボットだったら、この”規律訓練”を経た後は全員がテストで100点を取り、逆上がりを完璧にこなし、美しい言葉遣いをする「製品」に仕上がっていっただろう。
 人間を工業製品にたとえることに不快感を覚える人もいるかもしれない。ただ、学校と工場が似ているのは、実は当然のことなのだ。そもそも学校は、工場の誕生と連動して作り出された機関なのである。

堀江、22-23頁

⑩矢野久美子『ハンナ・アーレント──「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年 

この書(『人間の条件』)で彼女は人間の活動力を、労働 labor、仕事 work、活動 action に区別して考察した。
 労働は、生命を維持するための活動力であり、新陳代謝や消費と密接に結びつく肉体の労働であり、産物としてあとに何も残さない。それは、「努力の結果が努力を費やしたのと同じくらい早く消費される」営みであり、生物学的生命の循環つまり自然の過程に吸収される。(...)仕事は、(...)相対的に耐久性のある物を成果として残す活動力である。仕事の制作物、すなわち作品は、死すべき人間の生のあとに残り、総体として人の手になる人工的な世界を打ち立てる。(...)活動は、人と人のあいだでおこなわれる言論や共同の行為であり、絶対に他者を必要とする活動力であり、人間が複数であるという事実への応答である。活動は、唯一無二の存在である人びとが複数で生きるという人間の条件に対応する。言葉と行為によって人は人間世界の網の目のなかに挿入し、自分が「誰であるか」を示し、ときには「奇蹟」とも映る予測不可能な「始まり」をそのつど世界にもたらす。アーレントはこれを「第二の誕生」とも呼ぶ。この「誰であるか」の特徴は、自分自身には見えず、他者に見られ聞かれるということのなかで現れるということである。

⑪西垣通『集合知とは何か──ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、2013年 

生命的な知とは、本来、本能的、身体的なものである。敵から逃げたり、エサを探したりするための知がもっとも基本的なものだ。つまり、知とは生物が生きるための実践的な価値とかかわっており、「真理」といった普遍的かつ超越的な価値を反映した天下りの知は、むしろ歴史的、文化的、宗教的な所産である。権威づけられた「所与の知識」も、その基盤は、いわば、人間が社会的にこしらえあげたものに他ならない。
 このことは、古代、中世、近代をつうじて変わらない。現代の科学技術に支えられたいわゆる「客観世界」も、実は、われわれ人間が相互にコミュニケートしあいながら生きていくための便利な約束事、くらいに考えたほうがよいのだ。(...)にもかかわらず、われわれはとかく、唯一客観的な世界が存在しており、科学的なしかるべき手続きによって、そのありさまを認識できると考えがちだ。アカデミックな訓練をうけた学者でさえ、客観世界を正しく認識し操作するためには論理的、実証的手続きが大切であり、それを可能にするのが分析的な言語であると固く信じこんでいる場合が多いのだ。

西垣、74-75頁

⑫岡田温司『アダムとイヴ - 語り継がれる「中心の神話」』中公新書、2012年

いったいアダムとイヴの二人はなぜ掟を破ってしまったのだろうか。掟の掟たるゆえんは破られることにある、という言い方もできるだろうが、それでは何も理解できたことにはならない。そもそも、その掟とはいかなるもので、神はなぜ二人にそれを守ることを強いたのだろうか。破ったことで二人に一体何が降りかかり、それは人間の運命にとっていかなる結果をもたらしたのだろうか。
 聖書をひもとくたびに、わたしたちの誰もが抱くであろうこうした疑問にたいして、すでに古くからさまざまな答えが用意されてきた。それは、大きく二つの種類に分けることができるように思われる。ひとつは、この出来事をどちらかというと肯定的に捉える立場であり、もうひとつは反対に否定的にとらえる立場である。つまるところ、神の掟を破ることで、人間は得をしたのかそれとも損をしたのか、というわけである。 

岡田、106-107頁

⑬大竹文雄『競争社会の歩き方──自分の「強み」を見つけるには』中公新書、2017年

反競争主義的で協力する心をもたらそうと考えた教育が、能力が同じという思想となって子どもたちに伝わると、所得が低い人は怠けているからだという発想を植えつけることにつながった可能性がある。つまり、能力が同じなら、助け合う必要もない、所得再分配も必要がない、ということになってしまったのではないだろうか。やり方を少し間違えると、教育は意図したものとは異なる価値観を子どもたちに与えてしまう。競争と助け合いの両方が大切だという価値観をうまく伝えていく必要がある。

大竹、144-145頁

⑭一ノ瀬正樹『英米哲学入門』ちくま新書、2018年

たとえば、毎日旧友に殴られている少年がいたとしよう。このとき、「あの少年は毎日殴られているの「である」」というのは事実だ。けれども、だからといって、「あの少年は毎日殴られる「べき」だ」という規則や規範は成立すると言えるだろうか。言いにくいだろう。このような見方を専門的に言い換えると、それは事実命題(「……である」)から規範命題(「……べき」)を導き出すことはできない、というように表現される考え方である。哲学や倫理学の入門書を読んだ人は、目にしたことがあるかもしれない。
 でも、この考え方は本当に正しいだろうか。たとえば、国家の領土を例にとるとどうだろう。「この地域をA国がずっと所有してきたの「である」」という事実から、「この地域はA国が所有す「べき」だ」、よって「他国が侵犯す「べき」でない」、という規則や規範が導けるだろうか。これも導けないかと言えるかというと、そこは微妙なのではないだろうか。というよりも、そのように導けてしまうように思えるのではないだろうか。
 私たちは、こうした「である」の領域と、「べき」の領域とが、つかず離れず交差する世界に毎日すまっている。よって、その公差のありさまを解明してみよう。これが、本書を貫くモチーフなのである。 

一ノ瀬、12-13頁

⑮水島治郎『ポピュリズムとは何か──民主主義の敵か、改革の希望か』中公新書、2016年

ポピュリズムについては、大まかに分けて、これまで二種類の定義が使われてきた。
 第一の定義は、固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイルをポピュリズムととらえる定義である。
 第二の定義は、「人民」の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動をポピュリズムととらえる定義である。
 以上のように二通りの定義があるが、大まかに言えば、前者はリーダーの政治戦略・政治手法としてのポピュリズムに注目するのに対し、後者は政治運動としてのポピュリズムに重点を置く。そのためこの二つの定義については、どちらが正しい定義というものはなく、また、相互に排他的とも限らない。(...)
 以上を踏まえたうえで本書では、後者の定義、すなわち、「エリートと人民」の対比を軸とする、政治運動としてのポピュリズムの定義を採ることとしたい。
 なぜなら、現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする、「下」からの運動に支えられたものだからである。

水島、6-8頁

⑯児玉聡『功利主義入門──はじめての倫理学』ちくま新書、2012年

功利主義の特徴を説明しておこう。より形式的にその特徴を列挙すると次のようになる。
(1)帰結主義。行為の正しさを評価するには、行為の帰結を評価することが重要である。(…)帰結主義は通常、「こう行為すると、こういうことが結果として起きるだろう」という事前の予測に基づいて、行為の正しさを評価するものである。(…)(2)幸福主義。行為の帰結といってもいろいろありうるが、行為が人々の幸福に与える影響こそが倫理的に重要な帰結であると考える立場が、幸福主義だ。(…)幸福主義も一見当たり前のことを言っているようだが、必ずしもそうとは言えない。たとえばわれわれは自由や真理に価値があるのは、それらが人々の幸福を増進するから他ならないと考える。何かの役に立つという理由からではなく、それ自体に価値があることを「内在的価値」と呼ぶが、幸福主義によれば、この世界で内在的価値を持つのは幸福だけであり、それ以外のものは幸福になるための手段として道具的価値を持つに過ぎない。この立場を取らず、自由や真理は人々の幸福は独立に価値を持つと主張するならば、それは非幸福主義である。
(3)総和最大化。功利主義では、一個人の幸福を最大化することを考えるのではなく、人々の幸福を総和、つまり足し算して、それが最大になるよう努める必要がある。

児玉、55-57頁

⑰内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書、2005年 

デュルケームが示したのは、社会のありようは一定の規則性をもって諸個人の行為の様式を拘束しており、しかもそれは実証的な客観性をもっていることである。このような拘束力の結果生じる行為の様式は「社会的事実(fait social)」と呼ばれる。社会的事実は、①諸個人の意識からみれば外在的なものであるが、②結果として諸個人のありようを強く拘束している。しかも、③社会的事実のもつ拘束力は逃れがたく、所与の社会の全域で「普遍的な力」としてはたらいている。社会的事実は所与の社会で必然性をもって生起するのである。
 だが、デュルケームがよく批判(ないし誤解)されるように、この力を実体化してはならない。ここでいう社会は形而上学的な実体ではなく、自殺のように具体的で経験的な出来事との相関のうえで何事かを語ることにある。自殺のような、あるいは犯罪、祝祭、婚姻、流行……といった、さまざまな社会的事実の「作用原因」としての社会とは、何か実体化できるような第一原因ではなく、むしろその具体的な効果自身のうちに存在するのである。

内田、45-46頁

⑱マックス・ウェーバー『仕事としての学問 仕事としての政治』野口雅弘訳、講談社学術文庫、2018年

知性主義や合理主義が進展するといっても、ぼくたちがそのもとで暮らしている生活の条件についての知識が増大しているわけではありません。それはまったく別のことを意味しています。知りたいとさえ思えばいつでも確かめられることができるだろうということ、したがって[電車の運行に]入り込んでいる、秘密に満ちた、計算不可能な力など原理的に存在しないということ、むしろすべてのものを原理的に計算によって支配できるということ、こうしたことを知っており、また信じている、ということです。これが意味するのは、世界の魔法が解けるということ(Entzauberung)です。未開人には[秘密に満ちた、計算不可能な]こうした力が存在しました。しかし、未開人のように精霊を支配し、願いをかなえてもらうために魔術的な手段に手を出すことは、もはや必要ではありません。技術的な手段と計算がやってくれる。なによりもこのことこそが、まさに知性主義化なのです。

ウェーバー、30-31頁

⑲千葉雅也・山内朋樹・読書猿・瀬下翔太『ライティングの哲学──書けない悩みのための執筆論 』星海社新書、2021年 

実のところ、自分に対する要求水準の上昇は、執筆に対する高い意識がもたらすのではなく、ただ<完成させることを引き延ばす>という病の一つの症状に過ぎないのだ。
「これだけ時間をかけてしまったのだから、並大抵のレベルでは満足すまい」といった心持ちが湧いてくれば、延期と要求水準の上昇の間で悪循環が形成され、完成はますます遠のいてしまうだろう。(...)書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところから始まる。
 これは自分の可能性についての断念ではない。有限の時間と能力しか持たない我々が、誰かに押し付けられたわけではない自分に対する義務を果たそうという決断である。

千葉他、136-137頁

⑳事業家bot『金儲けのレシピ』実業之日本社、2020年 

水や空気(例:入場料)と同様に儲かる商材が、形のないもの、いわゆる「無形商材」である。
 無形商材の代表的な例は、保険や投信などの金融商品、またコンサルティング業などがそれに当たる。
 無形商材を売れば、当然にして儲かることが多く、また保険などの成果報酬型営業代理店は、保険のLTVが高いことから、独立してもそれなりに成功することが可能であるビジネスの一つである。
 無形商材を売るときのポイント、それは「有形商材っぽくする」「購入後のストーリーを想像させる」「課題解決として提案する」の3点である。
 「有形商材っぽくする」は、例えばコンサルティング業であれば、「人月いくら」という形で費用を請求するということである。
 「購入後のストーリーを想像させる」は、例えば学資保険を例に取ると、「お子さんが私立小に入学した場合~」などと人生のストーリーを語り、それを想像させることで購買に結びつけるという手法である。
 「課題解決として提案する」は、非常にシンプルだが、「老後2000万円問題が叫ばれているが、投信を買っておけば~」などという形で、課題を想起させ、その解決策として商材を売り込むということである。

事業家bot、84-85頁

なお、本書は(薄いわりに)1650円とやや高額であるため、中古で買うか、Amazonオーディブルでの視聴をおすすめします。

㉑田中克彦『ことばと国家』岩波新書、1981年

現実の言語は変化する。いや、変化は言語の本質に属するとさえ言えるのだ。そのために正書法、活用型式などと日常言語とのあいだにかならず裂け目が生ずる。
 普通の話し手は、文法のなかに生きた話ことばの用法をついうっかりもち込んでしまって、大いにその規範をゆるがすと、言語エリートはその乱れを嘆いて、話しことばを文法に従わせようとする。文法の真骨頂が発揮されるのはこのときである。文法の安定と不変を願う気持が、それを正しいときめ、そこからの逸脱を誤りとするから、言語の変化はいつでも誤りであって、正しい変化というものは論理的にあり得なくなるであろう。そのことはつまり、言語に関するかぎり進歩という概念はあり得ないということになる。
 歴史的にみれば、話しことばは必ず書きことばに先行している。文字の起源はことばそのものの起源にはるかに遅れてあらわれたことは、いまさらくり返して言うまでもない。しかし、「口語文とはあくまで文語文のくづれ」という考え方がくり返しあらわれるのは、文法の超言語性信仰にもとづいた発言である。そして、このような信仰には深い根があって、近代日本の学校教育がはじまるとともに、ただちにひろめられた考え方なのである。

田中、72-73頁

㉒エーリッヒ・フロム『悪について』ちくま学芸文庫、2018年 

スピノザ、マルクス、フロイトが決定論者であるというこの解釈は、この三人の思想家の哲学的な他の面を完全に忘れている。”決定論者”スピノザの主要な業績が、なぜリンチ(エチカ)についての本なのか。マルクスの目的が主に社会主義革命であり、フロイトが主にめざしたのは精神的な病気に悩む患者の神経症の治療法であったのはなぜなのか。
 これらの問題への答えは、ごく単純だ。三人の思想家たちはみな、人間や社会がある程度まで、特定の行動をとる傾向を持つこと、そしてその傾向の程度が決定的なものになりうることを理解していた。しかし同時に、彼らは説明や解釈をしたがる哲学者というだけでなく、変化と変革を目指す人々でもあった。スピノザにとっての人間の務め、つまりその倫理的目的は、決定を減らして自由の最適条件を得ることだった。人間は自らを意識すること、つまり目をくらませ鎖につなぐ情念(受動的感情)を、人間としての真の興味に基づいて動けるようにする行為(能動的情動)へと変えることにより、それを成し遂げる。

フロム、202頁

㉓大竹文雄『行動経済学の使い方』岩波新書、2019年 

従来の経済学では、計算能力が高く、情報を最大限に利用して、自分の利益を最大にするように合理的な行動計画を立てて、それを実行できるような人間像を考えてきた。行動経済学は、従来の経済学で考えられていた人間像をいくつかの点で現実的なものに変えている。
 第一に、不確実性のもとでの意思決定の仕方に違いがある。従来の経済学では、人間は将来起こりうる事態が発生した際の満足度をその発生確率で加重平均した値をもとに意志決定していると考えてきた。行動経済学では、プロスペクト理論と呼ばれる考え方で、人々は意思決定すると考えられている。その際、利得と損失を非対称に感じたり、ある事象が発生する確率をそのまま使わないという特徴がある。
 第二に、現在と将来で、いつ行動するか、という意思決定において伝統的経済学と行動経済学で異なっている。従来の経済学では、将来のことを今決めると、時間が経ってもそれ以外の状況に変化がなければ、決めたことをそのまま実行できると想定されている。しかし、私たちは、嫌なことを先延ばししてしまい、後悔することも多い。行動経済学は、現在バイアスという特性を用いて、このような先延ばし行動を説明する。
 第三に、従来の伝統的経済学では、利己的な人間を前提にしても競争的市場があれば、社会が豊かになることを考えてきた。行動経済学では、利他性や互恵性を人間が持っていることを前提にして人間社会を考える。
 第四に、従来の経済学では、計算能力が高い人間を前提にしていたが、行動経済学では計算能力が不十分なことを前提に直感的な意思決定をすることを考えている。そうした一定のパターンをもった直感的意思決定をヒューリスティックスと呼んでいる。

㉔木田元『偶然性と運命』岩波新書、2001年  

九鬼さんは、様相性の論理が時間性と深い関係をもっていることを指摘し、時間的地平において考えてみたばあい、偶然性は他の様相(可能性や必然性)とどういう関係にあるか、他の様相に比べてどういう特殊な時間性格をもっているかという問いを立てる。(...)様相とは、ものごとが<何であるか>という意味での<ある>ではなく、そのものごとが<いかにあるか>という意味での<ある>、つまりそのあり方についての規定を言うが、それは当然われわれがそのものごとをどんなふうに捉えているか、どんなふうに認識しているかという認識の様相とも密接に結びついている。九鬼さんはここでは様相のカテゴリーとして<可能性><偶然性><必然性>の三つを考えているが、これらは、われわれがあるものごとを単に<可能的なもの>として捉えるが、<偶然的なもの>として捉えるか、<偶然的なもの>として捉えるか、その捉え方の違いだと言ってもよい。したがって、いまその捉え方の時間性格が問題にされるのである。

㉕高橋仁『運命のバーカウンター』幻冬舎、2013年 

「じゃあ、好きなことをビジネスにするのはダメってことですか?」
 僕は自分が好きで始めたリラクゼーションサロンの経営を否定されたように感じて言った。
「ダメとは言ってない。ただ、ビジネスとしてやるなら”好きの壁”を越えろってことだ。好きで始めたことは自分の満足したところで終わってしまう。好きなことに裏切られるのは怖いから冒険もできない。常に波も来ない自己満足の湾の中をグルグル回ってるだけの遊覧船だ」(...)
「特に好きなことであればあるほど自分でやりたくなってしまう。そうなると限界は早い。自分で手をかけられる範囲なんて、たかが知れてる。しかも、好きなことをやれてることに満足しているから経営の筋力も鍛えられていない。そんなところに、何かのアクシデントがあれば一発でアウトだ」

高橋、122頁 

㉖見城徹・藤田晋『憂鬱でなければ、仕事じゃない』講談社+α文庫、2013年

物欲しげな姿勢は、仕事のみならず、生きることのエネルギーを弱めてしまう。金銭でも名誉でも褒美を目的にしていては、人が不可能と思うようなことを、実現できるはずがない。
僕にとって大事なものは、物事が成功したときに、一人かみしめる勝利の味ではない。もちろん金銭や名誉でもない。
「俺はまだ闘える」と思えること、それだけが大切である。

見城・藤田、200-201頁

㉗マイスター・エックハルト『エックハルト教説集』田島照久訳、岩波文庫、1990年

ところで、大いなる事物について語るのを好む偉大な師プラトンは、この世にはない純粋性について語っている。それはこの世の内にも外にも存在せず、それは時間の内にも、永遠の内にもなく、外も内もないあるものである。このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深淵とを現し出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである。そして父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。「われ(ego)」という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。「汝ら(vos)」という言葉は、「一性の内で汝らは一である」という意味である。「われ」と「汝ら」、この言葉は一性を指し示している。
 わたしたちがまさにこの一性でありますよう、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン。

エックハルト、136-137頁

㉘秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』集英社新書、2022年

カントにとって、「強制」(Nötigung)、ならびに「自由(Freiheit)」という用語は、独特の意味を持ち、またそれらには重要な役割が備わっています。まず、カントが用いる「自由」とは、自分の好き勝手に振る舞うことではありません。それどころか、そういった行為は自分の感情に流されてしまっているという意味で、むしろ、不自由と言えます。本来の自由とは、そのような感性的欲求に屈することなく、理性的に自分自身をコントロールすることなのです。それをカントは「感性」と表現するのです。この「強制」というのは、道徳的善のための必須条件となるのです。
 そのような自分自身を律する営みをカントは「自律」(Autonomie)と呼びます。道徳的善は自律であり、自律が道徳的善なのです。教育の究極的な使命とは、自律した行動をとれる人間を育てることです。反対に、自分の感性的欲求に流されているような状態、または実際に他人の意見などに流されているような状態は「他律」(Heteronoie)と呼ばれます。他律である限り、道徳的善をなすことはできないのです。
 ここに、教育という営みに内在する、ひとつのジレンマを見てとることができます。教育の目的は自立した人間を育てることなのですが、そのためには親や教師による外からの強制が不可欠なのです。つまり、強制を通じて自由に至るというプロセスを踏まざるをえないのです。

秋元、74-75頁  

㉙千葉雅也『現代思想入門 』講談社現代新書、2022年 

僕の仮説ですが、フランス現代思想をどうつくるかというとき、三つあるいは四つの原則を立てられると思います。それは、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、です。四番目はやや付け足し的かもしれません。
 順に説明しましょう。
 ①他者性の原則 基本的に、現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされている、ということを発見するのです。これまでの前提から排除されている何かXがある。(....)
 ②超越論性の原則 広い意味で「超越論的」と言えるような議論のレベルを想定する。それは「根本的な前提のレベル」くらいに思ってください。
(...)現代思想では、先行する理論に対してさらに根本的に掘り下げられた超越論的なものを提示する、というかたちで新しい議論を立てるのですが、その掘り下げは、第一の「他者性の原則」によってなされます。先行する理論では、ある他者性Xが排除されている、ゆえに、他者性Xを排除しないようなより根本的な超越論的なレベル=前提を提示する、というふうに新たな理論をつくるのです。
 ③極端化の原則 これはとくにフランス的特徴と言えますが、現代思想ではしばしば、新たな主張をとにかく極端にまで推し進めます。主張の核は、排除されていた他者性に向き合うことですが、それはひじょうに極端なかたちで提示する。(...)
 ④反常識の原則 そのようにある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というかむしろ常識の世界はその反常識によって支えられているのだ、反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、という転倒に至ります。

千葉、177-179頁 

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