【休日に読みたい】オススメ書籍31選!※2024年3月分

X(Twitter)で毎日オススメの本を紹介しているので、その紹介文を以下に列挙します。目次が紹介対象の本の一覧となっているので、ぜひ気になった本があれば読んでみてください!

今回紹介するいくつかの書籍はKindleやAmazonオーディブルに対応しています。個人的にAmazonオーディブルは激烈にオススメのサービスなので(通勤中や皿洗い中でも読書できるため)、ぜひそちらもチェックしてみてください↓


①伊藤計劃『虐殺器官〔新版〕』ハヤカワ文庫、2014年 

人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に覆われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う。文明は……良心は、もろく、壊れやすいものだ。文明は概してより他者の幸せを願う方向に進んでいるが、まだじゅうぶんじゃない。本気で、世界中の悲惨をなくそうと決意するほどには 

伊藤、271頁

②ハック大学 ぺそ『モヤモヤ頭から最速で仕事の正解を導く! ハック大学式 戦略的アウトプット術【ワークブックつき】』宝島社、2023年

私は、実際に活用できるレベルまでスキルアップするための「インプット」と「アウトプット」の寄与度は、インプットが1~2割、アウトプットが8~9割と考えています。
 基本的に、スキルというものはインプットのあとに実践(アウトプット)し、その結果、成功や失敗といった体験からくる試行錯誤から得られるものです。つまり、この「実践」を抜きにしてスキルアップすることは非常に難しいということです。
 ところが、「ノウハウコレクター」の場合は、この「寄与度」を勘違いしていて、インプットが8~9割、アウトプットが1~2割くらいに考えている場合が多いのです。(...)インプットとは、いわば麻薬のようなものです。インプットしていると達成感や満足感が得られますし、基本的には自分一人で完結するのでストレスもあまり感じません。
 無思考で中長期的にインプットを続けていると、「自分は成長している」と錯覚して、安心できます。しかし、実際には「インプットだけ」というのは一時的に「気持ちいい」だけで、本質的に得られるものはないという場合がほとんどです。いわば、究極の「自己満足」といえるでしょう。(...)プライベートの場面で「インプットだけ」を行うことは趣味の範疇なので、全く問題はありません。(...)一方、仕事に活かすためにインプットを行う場合には、必ずアウトプットをともなう目的、つまり「何かしらの成果を出す」という目的が裏にあるはずなので、インプットでとどまることは「目的を果たしていない(あるいは的確な目標設定ができていない)」ということになります。(...)実践的な知識というものは、「逆引き」的な発想から生まれるものです。つまり、知識というものは、「困った状況(渇き)」が先にあって、その状況を解決してくれるものとして身につけるものなのです。言い換えれば、「今抱えている課題を解決するための”答え”を探すために、情報を取りに行く」ということです。

ハック大学 ぺそ、88-91頁

③細見和之『フランクフルト学派──ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ 』中公新書、2014年

等価交換という合理性によって全面的に浸透されているはずの市民社会は、発展すればするほど見通しがたい経済の自然法則性によって支配されています。景気の変動はいまもまるで制御不可能な気象のように不意に訪れ、「バブルの崩壊」という物理的な比喩を、私たちは何の違和感もなく現に使用しています。一方、合理的・道徳的な生活規範によってすみずみまで規律づけられているはずの市民は、自らの抑圧された欲望(内的自然)との葛藤のなかで、ときに病的な退行現象を爆発させながら、日々疲弊した姿をさらしています。
 著者たち(アドルノ/ホルクハイマー)が追想しようとする「自然」とは、歴史以前のそれではなく、歴史のただなかで、しかも自然支配の最前線・最先端でつねに現れてこざるをえない、そのような「自然的なもの」である、と言うことができます。つまり、いまや保護森に指定されているような「原生林」や探検隊が繰り返し訪れる「秘境」ではなく、歴史の最前線における自然的なもののうちにこそ、太古的な自然の痕跡が刻まれているのです。そのような自然をふたたび制御・支配しようとするのではなく、それと向き合うこと、そして、そこから、たんなる自然支配とは別の自然との関係を模索すること。著者たちはその点に、神話と啓蒙の暴力的な絡まり合いを超え出る可能性を、かろうじて垣間見ようといていると言えます。

細見、119-120頁 

④荒谷大輔『資本主義に出口はあるか』講談社現代新書、2019年

ロックの思想に基づく自由主義の推進は、十九世紀のイギリスに莫大な経済的利益をもたらしました。この時期のイギリスの経済発展は突出しており、それはロック的な意味での「自由」と「平等」を目指す自由主義の成果と見なされました。実際、奴隷は解放され、労働者は自らの「自由」において職を選択できるようになります。かつて人は生まれた土地に縛られ、地縁共同体の柵(しがらみ)に個人の欲求を押さえつけられてきました。しかし、いまや人は「自由」を獲得し、自らの能力に応じて「平等」の機会を与えられるに至ります。(...)しかし現実には、産業化の伸展に伴って、労働者はむしろ一部の奴隷よりも苛酷な貧困状態に陥りました。(...)不可避的に貧困が発生した原因の少なくとも一部は、分業制そのものに含まれていました。分業とは、先に見たように作業を分担してみなで生産するということを意味します。しかし、それは同時に労働者一人では何もできない状況を生み出しました。(...)実際、「お金を得られなければ生きていけない」という条件は、労働者の賃金が決定される際の決定的な非対称を生み出します。経済学の理論では、労働者は「労働力」という商品を売ることで賃金を獲得していると見なされます。自由経済においては基本的には交渉に制限はないと考えられるので、「労働力」という商品の交換は「自由」です。つまり、「嫌なら働かなければいい」というわけです。しかし、その取引にあたって、労働者の側には「働かなければ死ぬ」という条件がついています。労働者は、希望の値段で売れなければ交渉を中断することができない状況で交渉しなければならないのです。だとすれば、権利的に対等であるべき取引の実際は、根本的に非対称なものにならざるをえません。「捨て値でも売らなければ生きていけない」という条件が一方についていれば、交渉相手はその足元を見て賃金を切り下げ、有利な条件で取引を進めることができるのです。
 そして現に十九世紀イギリスの労働者の賃金は「最低限死なないだけのギリギリのライン」にまで引き下げられました。いまでは労働者の権利などの別の道具立てを獲得できているので、現在のわれわれにこの状況が直接当てはまるわけではありません。しかし重要なのは、そうした道具立てはロック的な社会の構想からは決して出てこなかったということです。(...)こうした労働者たちの行動(補足:賃金交渉のような労働者たちの抵抗)は、しかし、自由主義者たちの目には「自由競争」を阻害するものに映りました。本来、市場に委ねられているべき賃金価格が「不当な団結」によって歪められると考えられたのです。そこはまさに自由主義者たちが考えるロック的な「社会」の理想があります。 

荒谷、100-105頁

⑤新庄耕『狭小邸宅』集英社文庫、2015年 

「おい、お前、今人生考えてたろ。何でこんなことしてんだろって思ってたろ、なぁ。何人生考えてんだよ。てめぇ、人生考えてる暇あったら客見つけてこいよ」(20頁)
「ごく稀にお前みたいな訳のわからん奴が間違えて入ってくる。遊ぶ金にしろ、借金にしろ、金が動機ならまだ救いようがある、金のために必死になって働く。人参ぶら下げられて汗をかくのは自然だし、悪いことじゃない。人参に興味がなくても売る力のある奴はいる、口がうまいとか、信用されやすいとか、度胸があるとか、星がいいとか、いずれにしろ売れるんだから誰も文句は言わない。問題は、強い動機もなく、売れもしないお前みたいな奴だ。強い動機もないくせに全く使えない。大概、そんな奴はこっちが何も言わなくても勝手に消えてくれる。当然だ、売れない限り居心地は悪い。だが、何が面白いのか、お前はしがみつく」

新庄、96-97頁

⑥岡義達『政治』岩波新書、1971年

何が価値規準であるかは人によって異なっている。けれども、集団によって、そこにはある種の共通性がみいだされる。人が自己の生存の目的──いわば自己の存在理由について反省する機会は、それほど多いことではない。われわれの行動にあたって、主体の行動の原因が主体の決定にあるケースは、相当に多い。たとえ、行動結果はその期待に反したものであるにしても、決定が原因として働いていることは否定できない。まさにそのことが、主体を主体たらしめている。しかし行動のもとになる存在自体についていうならば、事情はまったく異なっている。主体の発生については、もとより主体の決定にかかわるものではない。<生まれた>という受動形の言葉は、何よりも雄弁にこの事実を物語っている。(...)存在という事実が、承認の前にすでにできあがっているわけである。存在理由がつねに追認される形になっていることは、この存在の不安定性を物語っている。(...)人の存在理由といっても、人間は社会的な存在である。人間は生物として、その出生以来、孤立しては存在しえない。哺乳類のなかでも出生以後もっとも長い養護期間を必要とするのが人間なのである。したがって、自己の存在理由といっても、実際は社会的な存在理由であり、社会的に通用し、あるいは通用すべきもの、ということになる。それは証明不能に属し、客観性の要求といっても、要求は通用の問題にかかっている。かつて通用したものもあり、これから通用するかもしれぬものもあろう。したがって、信条体系は、つねに多数存在している。しかし、まさに証明が可能でない故にこそ、この領域で知はときとして無力に、そして無知は力ともなる。王様は裸であるかもしれない。けれどもそれに気づくのは、いまだ社会化されない無知な小児であるわけである。それだけに政治の世界においてまず小児病にかかるのは大人であって──ここから伝染するにしても──子どもではない。知が無力となる所以である。

岡、46-48頁

絶版かもです。古本屋で売ってたら即買いしてください。
岩波新書の復刊フェアで復刊してほしいです。

⑦カント「啓蒙とは何か」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年 

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気を持て(sapere aude!、英:Dare to know)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
 ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。(...)後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚かな者にする。そして家畜たちを歩行器のうちにどじこめておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外にでようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ。
 ところがこの<危険>とやらいうものは、実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかもしれないが、そのあとはひとりで歩けるようになるものだ。

カント、10-11頁 

⑧長谷川修一『謎解き 聖書物語』ちくまプリマー新書、2018年

『旧約聖書』は、史実ではないこともあたかも史実であるかのように書いています。この事実は、いったい何を意味するでしょうか。それは、『旧約聖書』という書物が、人間の手によって書かれた書物であること、人間の必要によって生みだされたこと、を意味します。史実ではないできごとが、さも史実であるかのように書かれているのにも、それなりの理由があります。なぜそういった物語が書かれ、そしてそれがなぜ『旧約聖書』のなかにとりいれられたのか、ということを考えるとき、その物語を書き、つたえた人びとの生きていた世界や、彼らの思想についてより深く知ることができるのです。これが考古学をはじめとしたさまざまな学問研究の成果によってあきらかとなる『旧約聖書』の新たな魅力です。

長谷川、15頁 

⑨岩井克人『貨幣論』ちくま学芸文庫、1998年 

無限に循環する貨幣形態Zのなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣なのである。それは、すべての商品にじぶんとの直接的な交換可能性をあたえることによって、すべての商品から直接的な交換可能性をあたえられ、すねての商品から直接的な交換可能性をあたられていることによって、すべての商品にじぶんとの直接的な交換可能性をあたえていることになる。
 貨幣とは、それゆえ、貨幣形態Zのなかにおいて貨幣の位置を占めているから貨幣なのであり、その存立のためには、モノとして使用されるための人間の欲望もモノとして生産されるための人間の労働も、さらにはそれを支払手段として流通させるための共同体的な規制や中央集権的な強制も必要としないことがしめされたことになった。すなわち、なんの役にもたたない金属のかけらや紙のきれはしや電磁気的なパルスでも、たんに貨幣として使われていることによって、実体的な価値をはるかにこえる価値をもってしまうことになる。無が有となるという「神秘」がここにある。(...)この貨幣創世記とはなんぴとも一貫した筋立てのもとには語りえない物語である。なぜならば、貨幣を貨幣とする貨幣形態Zの無限の循環論法は、まさに循環論法であることによって、いかなる意味での因果論的な説明も無効にしてしまうものだからである。(...)貨幣が貨幣であるためには、それは人間による日々の売り買いによって、たえず貨幣として確認され、たえず貨幣として確認され、たえず貨幣として更新されていかなければならない。貨幣は日々貨幣にならなければならないのである。「奇跡」は日々くりかえされなければならないのである。(...)商品を売るとは、一般的な価値形態Cの立場から全体的な価値形態Bの立場へと現実に跳躍することであり、商品を買うとは、全体的な価値形態Bの立場から一般的な価値形態Cの立場へと現実に跳躍することである。このような売りから買い、買いから売りという循環運動が円滑にくりかえされているかぎり、ひとびとは、じぶんたちがそのなかで日々売り買いにはげんでいる商品世界の存在を自明なものとして疑うことはない。だが、この無限の循環運動のどこかに狂いが生じたとき、はじめてその存在の歴史性が意識されることになるのである。

岩井、150-155頁

⑩片岡一竹 『ゼロから始めるジャック・ラカン──疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版』ちくま文庫、2023年 

結局のところ精神分析が目指すのは、患者の<生き方>を根本的に変えることです。極めて大雑把に言えば、精神分析の場に来る患者は何らかの生きづらさや不幸を抱えているはずです。それはつまるところ、「自分は本当に満足できる<生き方>をしていない」ということに起因しています。そこには一種の「後ろめたさ」はあり、それが何に由来しているかというと、「自分が本当に望むものが何かわからない」という、無意識の欲望にまつわる問題です。(...)精神分析の果てに行きつく場所は、特異的なものの場所です。したがってそれは各々の分析主体によって異なっているはずであり、一概に語ることはできません。分析の終着駅はそれぞれの主体が自分自身で見つけなければならないものであり、分析家や分析理論がそれを教えることはできません。(...)そもそも、人が人生に苦しむのはなぜでしょうか。──この答えも、すでにいろいろと記してきました。ある時は、抑圧されたシニフィアンが自らを認めさせようとするからだ(169頁)と語りましたし、ある時は欲望の<謎>に圧倒されるからだ(242頁、299頁)とか、苦しいファンタスムに縛りつけられているからだ(290頁)とも語りました。しかしここではそれに通底する究極的な要因、つまり精神分析が最後に対決すべきものを明らかにしなければなりません。
 一言で述べましょう。もろもろの苦しみは結局、人がみな《他者》の世界の中で生きなければならないということに起因します。
 無意識の<法>は《他者》がいるからこそ生まれます。したがってシニフィアンの抑圧などが生じるのは、人が《他者》の世界で生きているからです。また《他者》の世界に参入することでエディプス・コンプレクスが始まりますが、《他者》が去勢されていることを、人はなかなか受け入れられません。さらに《他者》の世界では、究極的な享楽を与える《もの》が排除されなければなりません。……結局、主体の苦しみは《他者》の世界の構造に起因しているのです。(..)行き詰まりから抜け出すために、道は一つしかありません。それは《他者》の中の<至福>に依拠しないような自分固有の「幸せ」を見つけ出すことです。そう、それこそ「特異性」という言葉が表すものです。
 ただし「幸せ」と言っても、ここでいう「幸せ」はかなり特殊なもので、一般的な意味での幸福と捉えることはできません。つまり「《他者》の中で認められる幸せ」ではなく、むしろ幸せがないことをそのまま肯定するような<生き方>を指します。

片岡、308-313頁

⑪田村次朗・隅田浩司『戦略的交渉入門』日経文庫、2014年 

交渉をゼロサムゲームだと思い込んでいる人は、「自分の利益の最大化」イコール「相手の利益を奪い取ること」であると考えてしまいます。
 しかし交渉では、まず自分の利益は主張しつつも、相手に対しても何らかのメリットを提示することが可能です。交渉の基本原則はギブ&テイク、すなわち、応酬(reciprocity)の原則が支配します。贈り物にはお返しする、というのは人間の文化の本質でもあるのです。
 したがって、交渉において賢明な合意を目指すのであれば、相手の利益に資する提案を我々が与えない限り(ギブ)、相手から利益を引き出す(テイク)ことができないと考えるべきなのです。自分の利益を最大化したい、しかし相手にもメリットがなければ合意はできない、と考えるのです。
 交渉を勝った、負けたと評価するのは、ほとんど意味がないのです。それよりも、自分の利益を最大化できたか否か、そしてこの交渉で相手の利益はどこまで反映されているか、それによって、合意は持続可能なものになっているのか、に焦点を合わせることが、交渉の成功確率を引き上げるのです。

田村・隅田、20頁

⑫丸山圭三郎『ソシュールを読む』講談社学術文庫

真の記号学的文化批判とは、特定時期(特に近代以降)の文明を告発し、文化の記号性・物神性を暴くのみでなく、視点をひとたびインセスト・タブー以前の時代にまでひき戻し、ホモ・ロクエンスとしてのヒトのもつ文化の本質を見極めることから出発せねばならない。しかるのちはじめて、人間の歴史におけるさまざまな折れ線グラフの急激な下降点、特に近代以後の文化の畸形化を用意した他の多くの歴史的諸契機、特殊社会的・経済的・政治的諸要因の解明に正しい方法論的装置をもってとりかかることができるであろう。
 ヒトがヒトとなった時から、<蒙っている条件づけ>conditionnement subiを<意識された条件づけ>conditionnement conscient に変えること、すなわち人間のおかれた根源的な条件を照射することは、今、ここでの実践と矛盾するどころか、むしろその実践に確固たる方向性を与える足場となるに違いない。

丸山、328頁

⑬見田宗介『現代社会はどこに向かうか──高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

幾千年の民衆が希求してきた幸福の究極の根拠の像としての「天国」や「極楽」は、未来のための現在ではなく、永続する現在の享受であった。天国に経済成長はない。「天国」や「極楽」という幻想が実現することはない。天国や極楽という幻想に仮託して人びとの無意識が希求してきた、永続する現在の生の輝きを享受するという高原が、実現する。
 けれどもそれは、生産と分配と流通と消費の新しい安定平衡的なシステムの確立と、個人と個人、集団と集団、社会と社会、人間と自然の間の、自由に交響し互酬する関係の重層する世界の展開と、そして何よりも、存在するものの輝きと存在することの至福を甘受する力の解放という、幾層もの現実的な課題の克服をわれわれに要求している。
 この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に充ちた困難な過渡期の展開を共に生きる経験が「現代」である。

見田、17-18頁

⑭丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年

本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値規準に照らして複雑怪奇な現実を方法的に整序することにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽり包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の
をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理感覚を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。

丸山、60頁

⑮伊藤公一朗『データ分析の力──因果関係に迫る思考法』光文社新書、2017年

さて、ビジネスの現場や政策決定の過程で、なぜ相関関係だけではなく、因果関係を見極めることが大切なのでしょうか?
 この節では、因果関係を見誤るとなぜ問題なのか、そして、因果関係を正確に見極めることがビジネスや政策決定の現場でなぜ大切なのかを見ていきましょう。(...)例えば、留学経験と就職率の相関関係をもとに「留学は就職率を上げるので、留学支援政策として補助金を投入しよう」という政策が政府によって打ち出されたとします。しかし、観測された相関関係が、「留学を経験したから」という理由ではなく、他の要因による影響だとしたらどうなるでしょうか(海外の大学で教鞭を執る身としては、留学は素晴らしい経験になることだと思うので、これはあくまで仮定の話ですが)。その場合、国民の税金を投じて行われる補助金政策の根拠に誤りがあることになります。
 ビジネスの現場にしろ政策決定の過程にしろ、物事を決定する際に鍵となるのは多くの場合「因果関係」であり、相関関係ではないのです。

伊藤、43-44頁

⑯生方正也『ビジネススクールで身につける仮説思考と分析力』日経ビジネス人文庫、2010年

「分析悪玉論」をよく耳にする。「分析ばかりしていて行動を起こそうとしない」「素早い行動が重要なのに、分析に時間を使いすぎる」などだ。こうした背景にあるのは、「分析などする暇があったら、さっさと行動しろ」という考えだ。
 仮説や分析は行動をよりよくするためのものである。仮に最終的にどちらかを選ぶとなったら、行動を取らなければならない。
 しかし、一方で仮説や分析による支えのない行動はやり直しが多く、うまくいかない確率が飛躍的に増大するのも事実だ。つまり、よりよい行動をガイドするために仮説や分析は不可欠なのだ。その点から言えば、よい行動に結びつかない分析や仮説は単に制度が低いというだけで、分析や仮説立案自体が不要なわけではない。
 では、なぜ行動に移ろうとしないのか。行動に移せない理由に、よく分析マヒという言葉が使われる。分析に熱中するあまり、行動に移れないことだ。しかし、実行できないのは、決して分析に時間を取られたり分析に夢中になるためばかりではない。仮説や分析の精度が低く、行動を起こす「ふんぎり」がつかないことも、その大きな要因となっている。こうした状況を打開するには、分析や仮説立案を無視したり敵視するのではなく、より早くより精度の高い分析力や仮説立案力を身につけることがもっとも有効だろう。(...)私たちに求められているのは、悲惨な結果を招かないような、解像度の高い分析を行うこと、そして分析は終わったと判断したら速やかに分析結果に基づいたアクションを起こすことなのである。
 分析と実行は二者択一ではない。片方に重点を置きたいがために、他方を貶めるような不毛な議論には何の意味もない。ぜひ解像度の高い分析結果や精度の高い仮説をスピーディーに生み出すことができるよう、自信を持って最大限の努力をしていただきたい。

生方、250-251頁

⑰シェイクスピア『十二夜』安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫、2007年  

「ナニ? ボクのこと、ほんとのバカだと言うつもりか?」
「とんでもない。判断力と理性にかけて、合理的かつ合法的に立証してさしあげましょう。」
「そうそう。判断力と理性の二者こそ、ノアの箱舟以前からして、法廷で陪審員を務めてきたお歴々だもんな。」

シェイクスピア、116頁

⑱木田元『現象学』岩波新書、1970年

フッサールの哲学が一般にわれわれ日本人にとって馴染みにくい一つの要因は、かれの哲学の核心にひそむこうした学 Wissenschaft の理念にあるのではないであろうか。言葉の根源的な意味での自然主義的といってよい生活感情をもつわれわれにとっては、学問的認識といっても、それは精密度なり有効性なりの比較的高い知識といった程度のものであろう。ところが近代ヨーロッパの哲学者たちにとっては、「学」とは神のロゴスないしその顕現ともいうべき世界の理性的秩序の相関者なのであって、究極的な根拠をもつ知識の体系である。Wissenshaftという言葉は、もともと知識Wissenに集合名詞を示す綴り-schaftが付いたものであるが、本性上真であることを主張するすべての知識はその根拠となる他の知識をもとめるといったかたちで相互に根拠づけの連関をなし、最終的には究極的な根拠に支えられた厳密な体系をなすべきものなのである。そして、「理性」を意味するラテン語のratioという言葉には「根拠」という意味もあり、したがってまさしく理性こそこうした究極の根拠をもとめる能力にほかならない。(...)こういった学の理念を根本に置いて発想されているフッサールの思想がわれわれに馴染みにくいのでもあろうが、是非はともかく、すでに西欧文明のはらむ問題をみずからの問題として採り上げねばならなくなっているわれわれとしては、どれほど異質に思えるにせよ一度はこうした学の理念に寄せるかれらの信念を理解しておく必要があるのではなかろうか。『厳密学としての哲学』におけるフッサールの主張はその恰好の材料である。

木田、38-39頁

⑲シェイクスピア『マクベス』安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫、2008年 

どうせ死ぬなら、今でなくともよかったものを。明日また明日、そしてまた明日と、一日一日、小刻みな足取りで這いずってゆき、”時”そのものが消滅する、世界の終末のその瞬間まで延びていく。そしてわれらのすべての昨日は、愚か者らが死んで塵に還る道を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、短いロウソク。人生はただ、うろつき回る影法師、あわれな役者。出番のあいだは舞台の上で大見得を切り、がなり立てても、芝居が終われば、もうなんの音も聞こえぬ。能なしの語る物語。響きと怒りばかりはものすさまじいが、意味するところは無だ。

シェイクスピア、173頁 

⑳堀公俊『ファシリテーション入門〈第2版〉〉』日経文庫、2018年 

ファシリテーション(facilitation)を一言でいえば、「集団による知的相互作用を促進する働き」のことです。
 facilitationの接頭辞であるfacilはラテン語でeasyを意味します。「容易にする」「円滑にする」「スムーズに運ばせる」というのが英語の原意です。人々の活動が容易にできるよう支援し、うまくことが運ぶようにするのがファシリテーションなのです。(...)集団による問題解決、アイデア創造、合意形成、教育・学習、変革、自己表現・成長など、あらゆる知的創造活動を支援し促進していく働きがファシリテーションです。(...)ファシリテーションのポイントはふたつあります。ひとつは、活動の内容(コンテンツ)そのものはチームに任せて、そこに至る過程(プロセス)のみを舵どりすることです。そうすることで、活動のイニシアティブをとりながらも、成果に対する主体性をチームに与えることができます。
 もうひとつは、中立的な立場で活動を支援することです。それによって客観的で納得度の高い成果を引き出していきます。このふたつがそろって初めて、ファシリテーターへの信頼が生まれ、チームの自律的な力を引き出すことができるのです。(21-22頁)

意見や意識のギャップから生まれる対立、葛藤、衝突、紛争などを「コンフリクト」と呼びます。(...)コンフリクトは、表面的には意見そのもの(コンテンツ)が対立しているように見えます。ところが、実際にはその裏にある考え方の枠組み(コンテクスト)が対立しているのです。だから、人間関係にギャップやコンフリクトはつきものであり、それを避けるのは不自然な話なのです。
 こう考えていくと、コンフリクトを解消するためには、コンテクストをぶつけあっているだけでは埒があかないことに気がつきます。互いのコンテクストの違いを理解し、それを尊重しあわなければならないのです。
※今回参照しているのは初版ですが、購入は第2版をおすすめします(169,171頁)

堀、2018年

㉑西郷甲矢人・田口茂『〈現実〉とは何か ──数学・哲学から始まる世界像の転換』筑摩選書、2018年 

「問う」ということは無時間的にはできないことである。「問い一般」を問うことはできない。「問い」はつねに具体的な問いでしかありえない。具体的に問うということは、時間のなかで問うことである。問いを具体化するものは、時間のなかに一度きり現れるものであり、それを「問う者」の問う活動も、時間のなかで行われる。時間を超えた法則は、「問い」に対する答えとして現れてくるのであり、この「問い」は時間のなかで遂行される。とすれば、「法則」という仕方で「時間を超えること」それ自体が、時間のなかで起こっていることにある。時間を超えた法則がまずあって、それが時間のなかに個別化・具体化されるのではない。法則はやはり時間を超えている。その時間を超えているということそれ自体が、時間のなかで成立するのである。
 これは一見パラドクシカルに見えるが、そうとしか言えないことが実際に起こっている。それを端的に表すのが、われわれの考える「数学」のあり方である。「時間のなかで時間を超える」という活動に、端的に、最も単純な名前を与えるとすれば、それが「数学」なのではないか。 

西郷・田口、2018年

㉒プラトン『メノン──徳について』渡辺邦夫訳、光文社古典新訳文庫、2012年

ソクラテス、あなたはどんなふうに、それが何であるか自分でもまったく知らないような「当のもの」を探究するでしょうか? というのもあなたは、自分が知らないもののなかで、どんなところに目標をおいて、探究するつもりでしょうか? あるいはまた、たとえその当のものに、望みどおり、ずばり行き当たったとして、どのようにしてあなたは、これこそ自分がこれまで知らなかった「あの当のもの」であると、知ることができるでしょうか?(...)つまり、
「人間には、知っていることも知らないことも、探究することはできない。
 知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探究など必要ないから。
 また、知らないことも人は探究できない。何をこれから探究するかさえ、その人は知らないからである。」

プラトン、66-67頁 

㉓平木典子『アサーション入門──自分も相手も大切にする自己表現法』講談社現代新書、2012年

アサーションとは、どんな意味でしょうか?
 ひと言には訳しにくいのですが、「自他尊重の自己表現」、言い換えれば「自分も相手(他者)も大切にする自己表現」という意味です。
 「アサーションとは実用的な主張法」というイメージを持たれることもあります。アサーションをマスターすれば、話し方がうまくなるとか、セールストークが向上して営業成績が上がる、あるいは部下の指導がスムースにいく、といったイメージです。
 けれども、それは少し違います。
 確かに、アサーションの意味には、表現法という面もありますが、アサーションによる自己表現とは、単なる自分の「自己主張」や「言い方」ではなく、相手とどのようにコミュニケーションするかについて掘り下げて考えることが含まれているからです。(16頁)

アサーションの考え方と方法は、1950年代半ばに北米において生まれたものです。もともとは、人間関係が苦手な人、引っ込み思案でコミュニケーションが下手な人を対象としたカウンセリングの方法・訓練法として開発されました。
 ところがやがて、そのような人たちだけを対象に支援していても、効果はあがらないことが分かってきました。
 なぜなら、よく観察すると、問題はコミュニケーションが苦手な人だけでなく、彼らを取り巻く他の人々の問題でもあること、つまり、ぎくしゃくする人間関係の裏には、悩んでいる当事者だけでなく、自己表現を踏みにじったり押しつぶしたりする人々の問題が関わっていることが分かってきたからです。
 「踏みにじったり押しつぶしたりする人々」とは、たとえば、言いたいことを表現するのが苦手な子どもに一方的に自分の言い分を押しつける親や教師、部下の手元の仕事量や個人的状況を無視して過重な仕事を振り向ける上司などです。
 力の差がある人間関係においては、力と権威を持つ側が、その立場を利用することで、弱い立場にいる側を思いのままに動かすことができます。それは、意識的にやっている場合と、無意識にやってしまっている場合と両方あります。弱い側は、さらなる強要や非難や排除を怖れて相手に従うことになり、悪循環に陥ってしまいます。
 そこで、このようなケースにおいては「(弱い側だけでなく)力や権威を行使する側にもアサーションという考え方を意識してもらう必要がある」と考えられるようになっていったのです。(24-25頁)
 私たちは、人の言動の意図や理由を聞きたいとき、あるいは、どのようないきさつがあったかを知りたいとき、「なぜ~?」「どうして~?」と尋ねます。
 しかし、「どうしてそんなところに行ったの?」「なぜ、そんあことをしたの?」という言い方は、「そんなところに行くべきではなかった」「そんあことをしてはいけなかった」と非難する意味でも使います。
 つまり、「なぜ~?」「どうして~?」という表現には、理由など聞くつもりはなく問答無用で責める意図が含まれやすいのです。
 そのため誤解される可能性が高い言葉ですから、理由やいきさつを聞きたいとき、「なぜ~?」「どうして~?」は使わないでどのような言い回しができるか、考えてみましょう。たとえば、「意図や理由、いきさつについて知りたい」とか「聞かせてほしい」と伝えることでしょうか。(160-161頁)

平木、2012年

㉔稲垣良典『神とは何か──哲学としてのキリスト教』講談社現代新書、2019年 

われわれの日常生活における関心事は「いま何時か」(What time is it<now>?)「わたしはこのこと、あのことを知りたい」であって、「時間とは何か」(What is the time?)「知ることはどのようなことか」では決してない。言いかえると、われわれが日常生活を、さまざまな必要を満たし、もろもろの願望を充足させる、つまり効用と快適さという価値を実現してゆくという側面で理解する限り、「時間とは何か」「知るとはどのようなことか」と問う必要、つまり「形而上学的探求」の必要はまったくなさそうである。
 われわれが現実に日常生活において経験しているのはこのような状況であるのに、なぜ形而上学的探求の必要不可欠さを主張するのか、という問いに対しては、さきにわれわれが人間として善く生きるためには「人間とは何か」を知ることが不可欠であり、そのためにどうしても欠くことのできない「自己認識」は形而上学的探求を通じてのみ可能となるからだ、と答えた。つまり、自己認識あるいは自己知は人間が人間として善く生きることに努める限り必要不可欠である、ということを共通の了解事項とした上で、自己認識は科学、ないし科学に依存している哲学によっては取得できず、形而上学的探求による他ない、と論を進めることによって形而上学の必要不可欠性を説得的に示そうとしたのであった。(...)形而上学的探求は人間にとって必要不可欠である、という議論を説得的なものにすることは容易ではない。(...)確かに「形而上学(メタフィジカ)」という名称は「自然学(フィジカ)の後(メタ)」を意味し、単に自然学の後(メタ)で学ぶものという学習の順序を指示するのみでなく、人間の認識がそこから始まる感覚的、「形而下」的事物を超え出て「形而上」の事柄を対象とすることを意味する。したがって形而上学が一種の難解さをふくむことは否定できない。
 しかし、われわれが現に日常生活のなかで思考・認識・理解など一連の知的活動を行っている「場」は「形而上」的なのであるから、形而上学は決して日常生活から遊離した世界に関わっているのではない。むしろその正反対で、思考・認識・理解などの知的活動を行っている私自身・自己へと完全に立ち帰り、自己の本質を認識することから始めて、自己すなわち知的存在・精神である私が認識する固有の対象である「在るもの」(エンス)の考察を根源的・徹底的に行うのが形而上学にほかならない。

稲垣、42-44頁

㉕安達裕哉『仕事ができる人が見えないところで必ずしていること』日本実業出版社、2023年  

なぜ努力をするのか? 答えは簡単だ。
実は、努力をする人は「努力しないと耐えられないから、そうしている」のだ。
もちろん、努力はつらい。しかし、直感に反するかもしれないが、明らかに「努力をしているほうが楽」である。
それは人間が「無為」「ヒマ」に耐えられないからだ。
人生は常に不安である。何もすることがない、何もしていない、というのはその不安と正面から戦わないといけない。
お金を持っていて、生活に何ひとつ不自由がないように見える人も、最終的には病の恐怖、死の恐怖と戦わなくてはいけない。
何かに没頭することが、精神の安定にとって重要であることは、間違いない。行動することで、余計なことを考えなくても済むからだ。

安達、77頁

㉖メン獄『コンサルティング会社 完全サバイバルマニュアル』 文藝春秋、2023年 

従来のコンサルタントのイメージも急速に変化している時代、それでもなお、コンサルタントのコンサルタントたる所以は、一体なんなのであろうか。
 その筆頭に挙げられる核心的要素は、「速度」にある、と私は考えている。
 コンサルタントはそれぞれ強みとなる専門性を持ち、クライアントに価値提供を行っているが、多くの場合、クライアントが期待していることは専門的知識や提案だけではない。プロジェクトという単位に切り出された特定の検討テーマについて、圧倒的なスピードで議論をリードしてくれることが期待値に含まれているのだ。
 コンサルティング企業に高額なフィー(報酬)を払って依頼することはすなわち、課題検討の特急チケットを買っているようなものだ。そのため、コンサルタントは自身とチームの仕事に対して常にスピードを求める。(30-31頁)

マネージャーにはいったい何が必要であったのだろうか? 
 あえて断言したい。
 プロジェクトを勝利に導ける──これが唯一にして絶対的な条件だ。
 プロジェクトにおける勝利の条件はプロジェクトや顧客の特性にもよるが、概ね以下の点に帰結する。

・スケジュールの遅延、品質面の瑕疵なく、予算内でプロジェクトを完遂させること
・継続の案件が獲得できる、または将来性のある関係性を築けたこと
・チームメンバーのロイヤリティを維持し成長させ、社内で昇進させること

 クライアントは満足、会社は儲かる、部下を昇進させる。この3点が満たせていれば、勝ちだ。個別の条件についてはプロジェクト開始の際に案件の責任者となるディレクターとよく議論するとよいだろう。(245-246頁)

メン獄、2023年

㉗栗田治『思考の方法学』講談社現代新書、2023年

ここで非常に重要なことを申し上げましょう。それは、大切な部分だけを取り出すというのは、それ以外の大切でないと思われる(ほとんどの)部分を捨て去ることを意味している、という事実です。つまり、モデル思考というのは「捨てる技術」なのです。
 物事の本質をずばりと指摘する人や、このまま推移するとどうなるかを端的かつ的確に述べることができる人のことを、「見切りの良い人」とか、「向こう先を見られる人」と表現しますね。この種の人は、複雑な現実をそのまま受け止めて頭を抱えてしまうのではなく、いくつかの要件をセンス良く抽出し、因果関係に基づく推論を要領良く行っているのです。そうした人は捨てるのが上手なモデル分析の達人といってよいかもしれません。
 このように、モデルをつくるに際しては要素を可能な限り捨て去り、少ない部品に絞ることを目指すべきです。そうすればモデルに基づく思考の操作が単純になり、手間のかからないものになるからです。

栗田、24-25頁 

㉘外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫、1986年

戦後しばらくのころ、アメリカで対潜水艦兵器の開発に力を入れていた。それには、まず、潜水艦の機関音をとらえる優秀な音波探知器をつくる必要があった。
 そういう探知器をつくろうとしていろいろ実験していると、潜水艦から出ているのではない音がきこえる。しかも、それが規則的な音響である。この音源はいったいなにか、ということになって、調べてみると、これが何と、イルカの交信であった。
 それまでイルカの”ことば”についてはほとんど何もわかっていなかったのに、これがきっかけになって、一挙に注目をあつめる研究課題としておどり出た。
 もともとは、兵器の開発が目標だったはずである。それが思いもかけない偶然から、まったく別の新しい発見が導かれることになった。こういう例は、研究の上では、古くから、決して珍しくない。
 科学者の間では、こういう行きがけの駄賃のようにして生まれる発見、発明のことをセレンディピティと呼んでいる。(...)ところで、このセレンディピティということばの由来が、ちょっと変わっている。
 十八世紀のイギリスに、「セイロンの三王子」という童話が流布していた。この三王子は、よくものをなくして、さがしものをするのだが、ねらうものはいっこうにさがし出さないのに、まったく予期していないものを掘り出す名人だった、というのである。
 この童話をもとにして、文人で政治家のホレス・ウォルポールという人が、セレンディピティ(serendipity)という語を新しく造った。人造語である。
 そのころ、セイロン(いまのスリランカ)はセレンディップと言われていた。セレンディピティとはセイロン性といったほどの意味になる。以後、目的としていなかった副次的に得られる研究成果がひろくこの語で呼ばれることになった。

外山、66-67頁

㉙鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか──狩猟採集生活が生んだもの』ちくま新書、2013年

いまこの地球上で私たちヒトにもっとも近縁の動物は、チンパンジーである。ヒトの祖先とチンパンジーの祖先とはおよそ600万年前に分かれて、別種の生き物になった。したがって、チンパンジーと私たちヒトとの間に違いがあるとすれば、それはこの600万年の間に生じた違いということになる。(...)ヒトは、この600万年の間に、地球上にその生息地域を驚くほど広げ、さまざまな気候や風土、さまざまな環境条件に適応していった。(...)生き物は、まわりの環境に適応した──より適した姿形や行動様式をもった──個体が生き残り子孫を残すというプロセス(「自然淘汰」のプロセス)を何百・何千・何万世代繰り返すことを通して、集団としてのその生き物の身体や性質が変化してゆく。これが「進化」である。こうした進化によって形作られるのは、実は生き物の身体的特徴だけではない。その生き物の心の特性や能力も、環境の適応によって変化をとげる。心も進化の産物なのである。
 では、ヒトの心は、この600万年の間にどのように形作られ、どのような進化をとげてきたのだろうか? ほかの動物に比べ、その心はどのような点で特殊と言えるのだろうか? これが本書のテーマである。

鈴木、14-15頁

㉚橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書、2011年 

「われわれの社会」を、大きく、最も基本的な部分でとらえれば、それは、「近代社会」ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在のわれわれの社会がどういうものかということもわからないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。
 それならば、近代の根拠となっている西洋とは何か。もちろん、西洋の文明的なアイデンティティを基礎づけるような特徴や歴史的条件はいろいろある。だが、その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい。(...)西洋とは、結局、キリスト教型の文明である。つまり、西洋は、世俗化してもなおかつどこかキリスト教に根を持っていることが大きく効いているような社会である。
 近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。大局的に事態をとらえると、このように言うことができるだろう。
橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書、2011年、3-4頁 

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㉛立花隆『サピエンスの未来 伝説の東大講義』講談社現代新書、2021年 

この本で言わんとしていることを一言で要約するなら、「すべてを進化の相の下に見よ」ということである。(...)世界を進化の相の下に見るということは、未来の方向性をさぐるということでもある。進化は絶えざる変化の蓄積の上に生まれるものであるが、変化と本質的にちがうところは、それが線形の変化ではなく、非線形の変化を生むということである。進化はevolution(旋回)であり、変化の上に変化が積み上がる形でスパイラルに蓄積されていく。それはやがて一つの方向性を持つようになる。その過程で変化はアキュムレート(累積)していき、線形の変化ではないべき乗の変化がひき起こされる。そうなると、その変化の方向性は簡単には読めなくなる。線形の変化なら、過去を未来に引き伸ばしてみるだけの外挿法(extrapolation)によって未来は容易に予想がつくが、ある日、外挿法では予測もつかない非線形の大変化が突然招来され、世界の様相が一変する。それが進化の本質である。
 世界を進化の相の下に見るということは、そのようなありうべき未来の大変化を視野にいれて、現代世界のあらゆる様相のベクトルをにらみつつ、進化の現段階がいまどこまで来ていて、どちらの方向に向かおうとしているのかを慎重に推測して、未来に備えるということである。

立花、18、20-21頁 

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