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ChatGPTが知的生産に与える影響とは?ChatGPTと人間がそれぞれ考えてみた

近年人工知能(AI)技術が急速に進歩しており、知的生産にも影響を与えています。特にOpenAIによってトレーニングされた大規模な言語モデルである「ChatGPT」は、知識創造や活用において非常に重要な役割を果たすことが期待されています。

本noteではChatGPTが知的生産にもたらすメリットやデメリット、人間の知識とのバランス、今後の展望について解説します。

ChatGPTとは?

ChatGPTは、Transformerという深層学習モデルを採用した言語モデルです。大量のテキストデータを学習し、その知識を活用して文章生成や回答生成などのタスクを行うことができます。ChatGPTは「GPT-3」というアルゴリズムに基づいていますが、そのトレーニングデータは数千億のトークン(単語や文字など)からなる大量のテキストデータです。

ChatGPTが知的生産にもたらすメリット

ChatGPTは、知識創造や活用において多くのメリットをもたらします。例として、以下のような点が挙げられます。

  • 大量の知識の生成:ChatGPTはトレーニングデータに基づいて大量の知識を生成することができます。これにより様々な分野の知識を活用することができます。

  • 効果的なサポート:ChatGPTは、様々なタスク(例えば、文章生成や回答生成など)に対して高速かつ正確なサポートを提供することができます。これにより人間が行うタスクを効率的・効果的にサポートすることができます。

ChatGPTが知的生産にもたらすデメリット

ChatGPTには、知的生産という観点でデメリットもあります。例えば、以下のような点です。

  • 知識のバイアス:ChatGPTの回答にはトレーニングデータに基づいて生成された知識にバイアス(偏り)が含まれている可能性があります。トレーニングデータが偏っている場合、例えば人種、性別、年齢などによる差異がデータに含まれている場合などには回答にバイアスがかかることがあります。

  • 正確性の低下:ChatGPTは、人間と同等の正確性を持っていないことがあります。これはトレーニングデータに誤りが含まれている場合や、トレーニングデータに含まれていない情報に対する正確な回答を生成することができない場合などに発生する可能性があります。

これからの知的生産に求められるものとは?

ChatGPTと人間の知識のバランス

これからの知的生産に求められるものとは、ChatGPTと人間の知識のバランスです。

ChatGPTと人間の知識は、相互に補完するような関係にあります。ChatGPTが生成する知識は人間の知識に基づいていますが、人間の知識もChatGPTによって拡張されることがあるためです。

人間が最終的な判断を下すこと

知的生産という点においてChatGPTを活用するのであれば、人間が最終的な判断を行うという視点が重要です。ChatGPTが生成する知識にはバイアスが含まれている場合があり、正確性に問題がある場合があるからです。
このため人間は最終的な判断を行うこと──すなわち、ChatGPTが生成する知識を検証し、正確な知識を獲得していくというプロセスが(現段階では)必要なのです。

結論:ChatGPTが考えた、これからの知的生産

ChatGPTは知的生産に大きな影響を与えますが、人間はChatGPTをうまく用いていくことが大切です。人間はChatGPTが生成する知識を補助的なものとして活用することで、より正確な知識を得ることができます。

ChatGPTは大量の情報を効率的に検索することができるという能力を有する一方、人間は情報を評価する力や判断力を持っています。したがって人間は、ChatGPTが示した情報が妥当であるかを評価・判断し正確な情報を選び活用することで、ますます優れた知的生産ができるようになるでしょう。

問い:ChatGPTは知的生産に何をもたらすのか?

私たちは「人間の特異性とは何か」ということについて、考え直さなければならないだろう。

というのも、人間だけが「思考できる」、哲学史的に言うと人間は「ロゴス(理性)を持つ」と考えられてきた、そのような人間観を再考しなければならなくなったからである。

本note冒頭から前章までの(「ChatGPTとは?」から「結論」までの)文章は、9割ChatGPTに書かせた文章だ。正直ChatGPTの文章作成能力には衝撃を受けずにはいられない。(もし衝撃を受けないとのことであれば、それはあなたが普段どれだけ感情的な文章に慣れ親しんでいるか、もしくはSEOというマーケティング施策を知らないオジサン読書家だからか、であろう。)

ChatGPTがもたらしたのは、「言葉によるアウトプット(出力)というものが人間以外が容易にできるようになった世界で、人間にはどのような知的生産が可能性として残されているか?」という問いを問わずにはいられないという状況なのだ。

私たちの思考とは結局のところ、複雑であるがしかし計算可能な情報処理なのか?

「思考とは何か?」ということについては、1990年代以降の認知科学の進展や昨今の脳科学ブームのおかげで、だいたいの人は「脳で起こってる活動だよね」と認識しているはずだ。

言い換えると、「思考は物理的な現象に還元される」とナチュラルに(自然に)考えられている。

そのため、考える能力はもしかしたら高度な計算機器によればシミュレート可能なのかもしれない。

しかし重要なのは、私たちは「身体を持ちいまも生命活動を続けている」という事実である。つまり私たちは純粋な知的存在なのではなく、物理的に傷ついてしまう存在、より過激な表現で言い換えれば、「死ぬことができる存在(死という可能性を有している存在)」だということだ。

※「人間は死ぬことができるという能力を持つ」という発想は以下の本から 

 

身体的存在者である私たちは「行為者(エージェント)」というか「単なる一匹の動物」であって、生存と生殖ののパーツの一つに過ぎない。ので、「健全な身体が正義」みたいなバカみたいな結論に至る。

私が言いたいのは見出しの文章の通りのことなのだが、以下ではもう少し順序立てて見ていこう。

①私たちはホモ・サピエンス(ヒト)である
②生まれてから、身体を基盤にして活動し続ける
③いつか””絶対に””活動できなくなる(生命活動が停止する)

私たちは、”三大欲求”と言われるような大脳辺縁系由来の欲求をもとに資源獲得に明け暮れる(食料、配偶者、住居、地位、権力などの獲得のためにがんばる)。

↑それって(よくも悪くも)動物と同じということではないだろうか?

そうすると結論、「身体が強くて知力があって頼れる」家父長的なパパが、「健康で健全な子どもを産み育てられる」専業主婦的なママが正義ってことになってしまわないだろうか?…

令和的な効率追求は虚無に陥るのではないか?という仮説

いまや「資源」とはまず第一に「カネ」とみなされている。

そのカネのために学生時代ではイスに座ってお勉強、ホワイトカラーとして働けばどんなに天気が良い日でも室内でPC作業だ。

どうして私たちは、自分を自分で縛り付けなくてはならないのだろうか?

室内で一日座って作業するということを疑うことすらなくなっているのではないだろうか?

いったい何のために?

カネがあったとしても「将来のため」に休むことはできない。

いつまでこの「不安」を抱えて生きていなくてはならないのか?

「〇〇のため」と言い訳して人生の時間を手段化してしまうのはとても悲しいことだとは思わないだろうか?

しかしだからと言って私たちは、すぐに仕事を辞めても、地方に移住しても、オンラインサロンに入っても、自らの有限性という根本的な問題が解消するわけでない。身体的存在者である限り私たちは資源を獲得し続けなければならないのだ。

人間は、動物的思考とロゴス的思考を媒介する存在者だ

「ChatGPTが知的生産にもたらすものとは?」という問いからずいぶん遠くまで来てしまった気もするが、本noteを貫いているのは「人間の思考とはいったい何なのか?何のためにあるのか?」という問いだ。

私たちはテキスト上で「正解」を示されても実行に移せないし、移したくもないこともある。

こういう動物的曖昧さというアホっぽさと、カッチリとしたパターンA、パターンB、パターンCのようにシミュレート可能な理性(ロゴス)が共存(?)しているのが人間の思考だ。

とすれば、私たちは動物的偏りと論理(ロゴス)の普遍性という相容れなさを抱えた存在だと言えるのではないだろうか。

参考書籍

知的生産とは何か?ということを解説した本

解説noteも書いてます↓

動物の思考について。まだ読んでないですが気になってます

ニーチェによると、人間は「病める動物」らしいっす

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