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とうとう『レンマ学』にソシュールとレヴィ=ストロースが登場。

「言語がアーラヤ識にセットされた理事無碍法界に生ずる知的能力であること」(中沢新一『レンマ学』p.282)

 かくいう中沢新一先生の『レンマ学』、280ページを過ぎて、ついにフェルディナン・ド・ソシュールとレヴィ=ストロースが並んで登場するのである。

 ソシュールの「通時態」と「共時態」

 通時態というのは、時間軸に沿って形態素が並んでいく姿である。
 その一連の連鎖は「シンタグムの軸」と呼ばれる。

 共時態というのは、シンタグム軸上に顕在化している「とあるひとつ」の形態素、その下、その背後、その裏に、隠れている、その形態素と「同一のマトリクスに属する」他の無数の形態素たちである。この潜在する無数の項の候補たちの配列はパラディグム"軸"と呼ばれる。

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 人が発話する瞬間、パラディグム軸に並ぶ無数の項のなかから、これぞというひとつが躍り出て、シンタグム軸を構成するよう並んでいく。

 ここで、中沢先生が驚きを持って言及するのは、ソシュールが「シンタグム軸とパラディグム軸は直交補構造をなす」と考えたことである。

直交補構造非可換性、非局所性を特徴とする量子の世界の「論理」を表現する「量子論理」でしばしば用いられている構造である。それと同じ構造が言語にも潜在していることを、ソシュールは突き止めていたと考えてよい」(中沢新一『レンマ学』p.283)

 シンタグマ軸に、直交補の関係にあるパラディグム軸が交わるからこそ、言語は真偽を0/1で判断することもできるし、同時に「多義的な詩的言語を生み出す」こともできる。

 そしてソシュールが「言語能力の根幹」を、通時態=シンタグマ軸の方ではなく、共時態=パラディグマ軸の蠢きの方に見ていたのではないかと、中沢先生は書く。

 そしてレヴィ=ストロースの神話論理もまた、「神話」の語りを、このシンタグマ軸を几帳面に構成する項たちが、両義的な姿で現れたり消えたりする現象と捉える。それは他でもない、シンタグマ軸の上に浮かび上がった、パラディグム軸の蠢きの影である。

 あれも、これも、同じ。異なるが同じ。それがレンマ的知性である

 そこで思い出すのは、中沢先生初期(?)の著作である『切片曲線論』に、鶴見俊輔先生が寄せた解説の、最後の一文である。

彼(中沢先生のこと)の表現はたとえを使いすぎるが、たとえは、一つの思考領域から、かけはなれたもうひとつの思考領域に考え方を移し育てる方法であり、もとの思考領域においたまま再生産する方法とはちがう。それがよいたとえであるなら、そのたとえをおとおして、読者(筆者自身をふくめて)に新しい善いものが見えてくるだろう。私にとって、この本は善い本だ。(中沢新一『切片曲線論』1988年中公文庫版,P362)

 こんなふうに、本を「読んで」みたいものである。その読みの創造性たるや。

つづく

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