綿飴とニューカレドニアで暗殺された首相
早く夏を抜け出したい。
祈りのように。きれぎれの言葉で。信じること、という。根源を持たないまま信じることを考えても、全ての瞬間でその思考が崩れ去っていくような気がする。
傷をひらく。思い出したくないことと、思い出せないことと。思い出したくないことのなかにも、ひとがそうするように(侮辱や蔑視の匂いで)しむけるものと、自らが執拗におのれへ課す立ち入り禁止の標識がある。
前者によって縛られた記憶はある瞬間に私を苛むが、後者の記憶はどれだけ経っても慣れることはない。けれど、ひとがそうするように? そのひと、は、どこにいるのか?
ゆっくり思い出してみる。あの軽蔑の視線のもう少し先へ。顔があるより前に印象がある。その印象に触れるほんの少し、後と直前のあいだ。そこには何もないような気がする。ひととわたしのあいだで、感情が生み出されているようなのに、ゆっくり探すと、なにもない。
そのひとは私に言う。普通だよと。
「きみはとても普通だね。ぼくはあなたの審級であり、あなた自身であり、あなたでは限りなく、無い。どう思う? この間隙とびっしり詰まった叫びと悲しみを? 泣きたいなら泣けばいい、けれどだれのために? その痛みはぼくによって、ですらなく、あなた(わたし)によって、ですらない。突かれる前にある痛みなんだよ。どう捉えよう、限りなく、あいだから苛まれるその苦痛を?」
「どうしたらよいのだろう?」
「疑問符だとね。よく考えなよ、きみは疑問を抱く余地すらないんだ、その間隙……薄く引き伸ばされたみっちりの苦痛の大釜……、そのなかと外とあいだで、きみが引き受けるのはきみ自身しかいないというのに。そこで疑問符やら感嘆符を使ったそのたびごとに全部は離散して、ほらやり直しだ。時間はそう多くない」
「とはいえ…」
「今度は接続詞か。よくやるね。続く言葉などなにもないことはよくご存知のはずだ。言葉なきままに悔恨と憐憫と喜びを織り合わせなければならないのに」
「ならないのに? その瞬間にきみは僕になるんだよ、反転ではなく、墜落という方法で」
「誘導尋問というわけか」
「それがいつだってきみのやり口だ。今は僕なのだけどね」
「墜落のためには飛翔が必要だろう。どこまで飛んだっけか?」
「飛んだ記憶は僕らにあるかい? イカロスの翼で? あるいはイエスがマグダラのマリアを斥けて父のもとへと飛び立つその方法で? むしろ常に墜落とはいえないか? 少なくとも墜落のそのとき漂う空は、落下した瞬間から見れば飛翔に違いあるまい」
「視点の転換、ということだね。けれどそれはだれにとっての視点なのか? きみか? ぼくか? あるいはもっと?」
「もっと最悪な方かもしれないし、もっと最良で、最善で、唯一の?」
「そのあいだは?」
「最悪と最良のあいだに答えがあるなら、それは最良ということになるね」
「そのもっとあいだ……それ以上でもそれ以下でもないもっと無辺の向こうでは?」
「最良とそのあいだ? 星が墜落するときに僕らも飛び、その墜落する平面からも僕らが飛ぶこと? おかしな話だ、僕らはそのとき少なくとも4人……場合によっては、つまり運命論だとかを信じるなら……1であり5であるような5人が必要になる」
「そうおかしな話だろうか? 僕らは最初から、きみとぼく、と言っていたし、いつもそうじゃないか?」
「それはだれにとって?」
「すくなくとも僕にとって」
「ならばフラクタル図形として主体性を理解せねばなるまい」
「それゆえブラックホールというか? その発生源についての机上の空論をまたやり直さなければならない? もううんざりだ」
「少し戻ろう、複雑系ではないのだから。すくなくとも4人、ないし1か5であるような5人、という。後者によって4人は包摂されるね。その場合」
「あるいは4人それぞれが、それぞれの祈りに従って、その1ないし5を内包することを選ぶことさえできる」
「どの視点でも、免れないような純然たる落下をこそ?」
「それこそが死であり同時に詩だったのではないか? つまり言葉の死とその復活……ラザロとしていつも蘇りの道をひらき、あらゆる死としてのエクリチュールをその瞬間ごとに生き直させるような形容詞が」
「きみの手の骨格は海辺に落ちていたヤドカリの記憶のようだ、とか」
「あるいは愛についての不等式だ」
「すくなくとも、とか、あの時点では、とか」
「時制を排して」
「素直にきみのそばにいたということだけを」
「たったひとつのある形容詞で」
「つねに消滅しかかっている吃音で」
「愛していたを知り」
「愛しているを伝え」
「愛していくを刻むその瞬間に」
「全てを消し崩していくような死を」
「ある言葉で」
「山と海で生きるヤドカリとして」
「あるいはもっとむなしく満ち満ちて」
「そうその全て」
「あるいはもっと?」
「つねにすでにそのすべての欠落と受肉の」
春楡とレモンが弾ける瞬間の記憶で、カニバリズムと殉教のあいだで、そう例えば次のようなことがありうる……ひとは悲しい、と口にすること。
いつだってその「ひと」はあなたで、そしてあなたではない誰かに捧げられた祈りそのものの人称なのだと、いつも、あなたは知っている。
・・・
「正直にいって、あたしは特異点、というのは何も特別な状況や出来事に依存しない、と思うの。みんな花火を見にいくのに着飾って、浴衣を着て、楽しげなお面をつけて、下駄を鳴らすけど、あたしは花火を家のなかでやりたい。どかん、と火花がキッチンの、ほとんど料理のスペースなんてないような、トイプードルのために作ったおもちゃみたいに笑えるほど狭いキッチンで、火花が散って、そこらじゅう煤だらけで清潔で、きらきらひかって、あたしはそれをこれ以上なく楽しむの。調子に乗って買った、二度と着ないマゼンタの水着を着て。脱毛の終わっていない足でね」
目の周りが異様なほど鮮烈に赤黒く光っている女子高生がバイクにガソリンを入れながらそう話す。きっとブリーチを複数回重ねただろうブロンドの髪の毛を高い位置で結んで、ドクターマーチンのブーツを履いた足をぶらぶらさせながら、ガムを噛んでいる彼女の腕は白い。僕は彼女の言葉に体をむけて(顔はややそむけながら・それはひとつの服従の姿勢である)、やや低い地声で続くその主張を受け入れる。
「そんなふうにして、あたしは狭いアパートですべてに出会いたいの。出会えると思ってるわ、真剣に。綿飴とかね。ここにいれば私は綿飴と、たとえば政治について話せる。ニューカレドニアで暗殺された首相とか、もっとすごいことだって話せるわ。その首相が暗殺された日に持っていたハンカチの柄とか。私しか知らないの、それは。綿飴とだったら、そういう話ができる」
彼女はガソリンの注入ノズルをかん、かん、と二回振って、それから機械の方へ戻した。レシートが印字される音が聞こえる。タンクのキャップを締めながら、彼女はヤドカリに向けて(はっきりと)こういった。
「けれどあの花火って……というより烏滸がましいお祭り騒ぎね、あれはもうほんとうに使い物にならない。あのなかにいたら私はもう枝豆より存在意義のないものに成り下がってしまう。どぎまぎして、綿飴がおいしいね、なんて言いながら私の友達を食べてしまう。綿飴が叫んでいるのを必死で聞かないふりをして、綺麗に剃られた脚に歩調を合わせてどかんどかんと不愉快な爆発に身を委ねる。もうそのとき私は戦争機械ね。キャタピラをごうごう言わせながらそこらじゅうの枝豆を踏み潰して主砲照準をこの戦車の真上に合わせてるの、きっと」
ヤドカリは幾分か戸惑いながら、その目を輝かせ、「綿飴に会いたい」といった。あたしに言わないでよ、と彼女は息の多い笑い声混じりにヤドカリに返す。ため息をつくように。綿飴なんて、その状況に依存した啓蒙機械だわ、と。綿飴はそのとき、その状況に応じてしかおのれの役目を知らないのだし、そしてその綿飴を諾うことは、自分自身が状況に対して開かれることを意味するのだという。そのとき人は綿飴に従順な祭りのための隷属機械なのだと。僕は幾分か訝しく思いながら——純粋に綿飴が好きで、綿飴のために人生を捧げた人はどうなるのだろうと——僕は彼女にどこか行く当てはあるのか、と尋ねる。
「つまり目的地のことを言ってるの? そんなものを決めたら捕まるわ。もう彼氏の両親ときたら異常なほど几帳面なの。この前送った出産祝いのプレゼントの寸法について小一時間近く尋問されたもの。三辺の合計値が百二十センチ以下だとかなんとか。それについてどう思うかって言われたって、あたしはただあなたたちを祝っただけなのよ」
「誰の出産だって?」
「彼氏の両親がまた産んだの。山羊とヒトのハーフらしいわ」
「そんなことが罷り通るようになったんだね」
「川を一つか二つ越えたらそうもなるわ。こっちに来てから気候なんかもう信じられないのね。暑いのも寒いのもなくてただ涼しいだけなのね」
不意にヤドカリが口を挟んで、寒いことと涼しいことの違いがわかるなんて、と言った。彼女は非難がましくヤドカリを見下ろして、さっさとその殻変えたら? と返した。
「ヤドカリにはヤドカリの事情があるんだよ」
「だとしてもよ。事情を推しはかる暇があったら私はもう彼氏の両親に捕まって今ごろ行きもしない旅行の計画を立てさせられているに違いない。財布が盗まれたときにどうとか、アレルギーがあるからどうとか。その時々に応じてどうにかするべきだと私は思うのに。何より可笑しいのは、そんな人たちが山羊とのハーフを産むことよ。これが計画出産なんだって。そうすることで色々と言葉がただしく使えたり聞こえたりするみたい。英語だけじゃなくて、今後の移民政策とか宇宙からの帰属者の言葉もうまく聞き取れるように、とか。山羊の耳がそれに向いているって政府の人が言っていたの」
「静まり返った地球もそろそろおしまい、ということか」
「そうね」
「かなり気に入ってたんだけどな、ねえヤドカリ」
ヤドカリはこくこくと頷いて、爪で地面を軽く叩いた。こんこん、と音がして、この星の静謐さを僕らは思い知る。もうすでにこの星から大多数の人が離れて、十八ヶ月ほどが経つのだった。それでも一部はこの星に戻ることを望んだ人や、別の生命体を身籠もって、故郷を見せてあげたいとか、やはりここで生きるべきだ、と言いながらここへ戻ってくるのだった。この帰星した人たちの中でもかつての騒々しさを望んで、たとえば体育館を中心とした共同体を形成し、花火を上げたりすることがある。
「そのヤドカリは一体なんなの」
「自分で自分の説明できる?」
ヤドカリはふるふる、と首を振る。それもやましいことは一切ないです、という顔をして。寂しさと傲慢さとが入り混じった、いたいけな表情をして、ヤドカリは彼女を見上げる。
「世話のかかる子ね」
「僕にもよくわからないんだ。ただ出会ってしまったというよりほかなくて」
「嘘ね」
「何が?」
「郷愁とか。懐かしさとか。記憶とか。そういうのでしょ」
「一体何が?」
僕はその一体、のところを語気が強くならないように、しかし丁寧に発音した。押し付けることなく、それでも相手から答えを求めるように。
「つまりは理由よ。原因でもいいのだけど。あなたは思い出す、とか、かつての、とか、そういう水準で優しさを感じて、そして与えるでしょう。ヤドカリにあなたは詰まるところ、亡霊を見ているのよ」
たしかに、ここに生まれて、人は幾つにだってなれるのだった。望みさえすれば。そして、言葉を忘れさえしなければ。宇宙から帰化した人たちは皆々若い。生き生きとして、この星に春楡の若芽の匂いを求めて帰ってくる。僕たちはすでにその苦く青い匂いに満ち足りて、一つひとつの出来事や天候の変化や、あるいは遠くで響く花火や、不意に誰かに足を踏まれたり、期待と裏切りの貼り合わされたお菓子を食べたときに、もう知り尽くしてしまうのだった。きっとハーレークインのような見た目の彼女も、綿飴とニューカレドニアで暗殺された首相の話をして、それで政治家になったのだろう。政治家と屋台で綿飴を売る小売人の間を行き来して、それで全てに出会ってきたのだと思う。望んだだけの全てに。望まなかった全ては、喪失や欠如としての決別ではない。知っていることと知らないことはいつでも表裏の関係で、同じ部屋の外見と内装のようなものなのだ。だから、彼女はヤドカリにさっさとその殻を変えたら、と言い放てるのだし、ヤドカリもまた、首を振っておのれの説明を拒むことができるのだった。
思い返してみれば(人はいつも思い返してばかりで)、喪失なしに喪失を知った日々はいつでもヤドカリと近くにあって、僕はその喪失なき喪失をゆっくりと追いかけているのかもしれなかった。ヤドカリの殻をみすぼらしく思いながら、実のところ、本当に僕が憐れんでいるのは、自分自身に違いないのかもしれなかった。
「そうだね」
「いいことだと思うわ」
「喪失なき喪失を追いかけることが?」
「その言葉はよくわからないけど、そうだと思うわ。どんな形相であれ」
「僕はあのときしっかりと確実に失ったんだ。僕自身を。僕自身であるはずだった、というよりあってよかったものを。けれど見かけ上は一切何も失っていなくて、むしろ満ち足りた幸福な少年だったんだ」
深夜のガソリンスタンドにこうして佇む人影は(ヤドカリ影は)僕らを除いてほか何もなく、環状道路の奥の方で立ち込めているらしい濃霧と、湿気と、ガソリンスタンドが放つ緑がかった光と、おそらく隣の農家の水上さんが今朝刈り取った雑草の遺族の悲しみたる青々しい匂いが僕らの周りに立ち込めていた。決して寄り添うこともなく。
「隣にファミレスがあるじゃない、入る? コーラとコーヒーと混ぜたあの罰ゲームドリンクとかができるはず」
「歩いて行こうか」
ヤドカリ、大丈夫? と声をかけて、彼がいそいそと歩くところを見ればおおよそ乗り気なのだろうと思った。彼女はその罰ゲームの提示のあとに、四〇〇ccのバイクのスタンドを立てながら、望むと望まざるとに関わらず、あることはいいことだわ、といった。選択肢にならなくても、存在するだけでいいことってたくさんあるのよね、とも。
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