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恩師 ①

新たな春を迎える。
今年からは、小学生と共に学びの現場に立つ。
決意表明として
昔、大変お世話になった担任の先生について
ここに記しておきたい。

お転婆で変にずる賢い子どもだった私は
大人にとって大変扱いにくい
いわるゆ「面倒なクソガキ」であったに違いない。
なんでも自分の思うままにしたがる我侭な私を
毅然と叱ってくださった過去の先生方には
感謝の意でいっぱいである。


小学校ピカピカの1年生の担任、川崎先生。
真っ直ぐな誠実さと、情熱あふれる人であった。
ユーモアたっぷりで、わけがわからない私たちの行動を
ただ叱責するのではなく「宇宙人」「未知の生命体」と愛情をもってからかいながら可愛いがってくれた。
今の時代ばならば、きっと暴言だの人権だのと
騒ぎ出すつまらない者もいそうなものだが
あの頃私たちは、目の前にいるその人が愛情をもって接してくれていることを、ちゃんとわかっていた。

それこそ、言葉や行動の表面から揚げ足をとるのではなく、その根底にある想いや奥にある心(ハート)をしっかりキャッチするアンテナ(心ある感性)を持っていたんだなぁ、と思う。

あれこそがまさに
ひとつの生きる力ではなかろうか。

かわいい悪ガキだった私は、お友だちと一生懸命川崎先生へのイタズラをしかけた。
教室のスライド式ドアに黒板消しを挟んで落っことし、いかに川崎先生をハメてやろうか!と頭を使った。

一枚上手の川崎先生には毎回、上手にかわされ
「まだまだ甘いな」と言われたものだ。
今思うと、私たちにトコトン付き合ってくれたのだ。全身全霊でとてもかわいがってくれていることを、皆知っていた。

向き合ってくれる、遊んでくれる。
相談できる、叱ってくれる。
間違えた時は、誠意を持って謝ってくれる。
まさに、心から安心できる理想のオトナだった。

しかし
改めてその愛情を実感したのは、
昨年の夏のことである。

川崎先生は若くして突如、病に伏せた。
コロナ禍真っただ中のことであった。
病状が進行していく中でも、体力の続く限り
現場に出向いて子どもたちと過ごし続けたそうだ。

闘病の末
最後まで子どもたちに愛情を注ぎ尽くし
命の炎を燃やし切った。

突然の訃報を耳にした時はもう会えぬ人となった。
コロナもあけた昨夏、やっと川崎先生のご自宅に
お線香をあげに伺うことができた。
奥様は、何十年も前にサロマで関わった私たちのことを、きちんと覚えてくれていた。

そして
「あなたが先生をしていると聞いて、夫はすごく喜んでいた」
「これ、良ければもらってちょうだい」
と、川崎先生が遺した指導書や愛読書、ノートを丸ごと託してくださった。

そこには、あの頃では知り得ることのない、教育者としての揺るがぬ視点が、深い愛情と共に綴られていた。

教師としていかに子どもと向き合っていくか。
教育者とはどう在るべきか。

真剣に悩み、考え、試行錯誤を綴った筆跡を目にし、感動した。

幼きあの頃は何もわからないまま
ただただ与えられ続けていた愛情が
何十年もの時を経て
再度私の人生に巡ってきた瞬間だった。

尊敬する川崎先生。
いただいた指導書は職員室の机の中に、
お守りのようにしのばせている。

教員は大変なことも多い。
理不尽なことはもっと多い。
しかし、
それを越えた尊い場面に出逢うことができる
奇跡の職業である。(と私は思う)

だから、やめられない。

過去に出会った多くの恩師の
言葉ひとつ、行動ひとつが、
今の私を創っている大きな礎となっている。

今は学校現場が保守的過ぎて
教育者としては正直モノ足りない。

オブラートに包まず
まっすぐにぶつかりたい!
という衝動に駆られることもある。

もはや、教育現場はここが勝負!という時
つまりは、その子をダメにするかどうかの分かれ道
という場面で
「いかに傷つけずに伝えるか」
「嫌な思いをさせてはいけない」という
不安定で脆い柱が立ちはだかっている。

本音でぶつかり合えない“もどかしさ”と共存しなければ
成り立たないものになりつつある。

情けない。
悔しい。
不甲斐ない。
しかし、これが現状である。

私はこの課題をどう打破していこうか。

越えられない恩師の存在に敬意を払い
川崎先生が見ていた光景を目に刻みたくて
小学校の現場に立ってみようと思った。

あの頃
どんな思いで私たちを見つめてくださっていたのか
恩師にいただいた形のない学びは財産である。
と同時に、ハッキリとした答えはない。
その答えは、これから生涯かけて見つけてみようと思う。

誰かの心にいつか花開くかもしれない
拾われるかもわからない種の一粒を
目の前の子どもたちに蒔くことができるよう。

川崎先生の情熱の炎を
今後も誰かの心に灯し継いでいきたい。

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