落語に興味を持ち始めた話
当初、立川でのハーフマラソンを走った話をしようと思っていたのですが、カラダも結果もボロボロでしたので、この話は美味しくなるまで寝かせておくことにするとして、今日は自分のお仕事でもある『朗読活動』について。
朗読もアップデートが必要だな…と感じながらお勉強してます。
お勉強と言えるかどうかは疑問ですが、いろいろと興味を持ち始めている…
何に関して興味を持ち始めているのか?そんなことをしゃべっている月曜日のポッドキャスト📻
『あかね噺』というマンガが書店に並んでいて、1巻と2巻を手に入れました。
人気の作品なので知っている方も多いかと思いますが、落語家になりたい女子高生のおはなし。と言ってしまえばそれまでですが、落語の奥の深さ、面白さ、そしてそこにチャレンジする女子高生あかねの姿が楽しく描かれています。
声の仕事をしようと専門学校へ通っていた時、
「しゃべりがうまくなりたければ落語を学べ」
と言われたことがあります。
声に関するテキストに目を通しても、声のエッセンスは落語に込められている、というようなことが書かれてあったりもします。
以前は、志ん生落語のカセットテープを聞いていたりもしていました。
演劇とも違い、落語は江戸の町人や商人、お坊さんや小僧といった、いわゆるフツーの人が登場し、何でもない会話の中におもわずクスッてしまうもの、ホロリとしてしまうもの、ゾクッとするものなど、面白おかしい要素が込められています。
フツーの人の声、飾ることのない所作など、近しいところにも熊さんがいて、ご隠居様がいて、そんな人物がユーモラスに動き回る。
この動きが『見える!』と、冒頭、女子高生あかねが父の練習する姿を見て心を揺らしています。
朗読でもこの『見える!』という世界を描いてみたいものだ。
と常々思っていますが、これが難しくそしてまた楽しい。
う~ん…奥が深いです。
そんなわけで、声の仕事をし、朗読活動を生業としている私にとっても、この『見える!』という感覚を表現してみたい。
声という音だけを駆使して、どうしたらそこにないものを見えるようにするか。これがずっと課題ですね。
とりわけ最近、AIの技術の進歩がすごくって、プロのナレーターの声や特徴をAIがディープラーニングしてしまえば、ナレーションはそれだけで完成してしまう。
読み間違うこともないし、仕事に拘束されることもない。作業ももっと楽になるし…と、実はこのAIの脅威に怯えていたりもしています。
でも、昔から続く落語の世界には人情があったり粋があったり。
そう言うものは、まだまだAIでは表現しきれていない、というかそこにはまだ人のあたたかみみたいなものがあるんじゃないかな?と。
怯えながらもまだ人の声の可能性を信じているのです。
と、今日はちょっと真面目に語ってみました。
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