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僕らが見ている世界

少し科学的な宇宙的な、量子力学的な話になるのだが

知っている人も多いだろう
有名な実験である『二重スリット実験』を

光の粒を飛ばしてその波の流れを観測するもの(だいぶザックリ)で、2枚の板を通った後の光の動き方をみたもの。だったはず。

実験をしてできた光の粒の波がなんとも不思議であったことから、実験者たちは、もっと細かく詳しくその光の粒たちを知るために、板を通るとき何が起きているのかを調べようと観測した。するとさっきとはまた異なる結果になる。

詳しくはここでは述べないが、

要するに、実験者が観測したときと、観測しないときで、二つの全く違う結果が得られたということだ。

これはおもしろい!と思って色々見ていると
それが所謂、僕たちの世界にも当てはまるのだろうなと勝手に思った。

僕たちは、毎日何の変哲もない、毎日同じ日々を過ごしているように思うかもしれないが、実際のところ本当にそうだろうか。

毎日の同じ通勤時間や、毎日のように会う人や、もっと小さいところで言うと毎日同じ家、はたまた飛躍するとするなら、毎日同じ「僕」を生きているように思って疑わない。そんな人は意外にも多いと思う。

例え話でよく言われるもので、そこにコインが落ちていると思って道を歩くか、何も考えずにただその道を歩くかでは、引きおこる結果は異なる。というものもある。

すべては選択の連続で、それが当たり前すぎて選択をしていることに意識を向けていないだけだろう。人生という大きな枠組みに見えるようなものを紐解いていけば、結局のところ僕たちは皆

見たい世界だけを見ている

だけであると感じる。まあ、言われてみれば当たり前だが、そこをもう少し深く考えてみたいのが僕の癖だ。

今目の前に、僕とあなたがテーブル越しに椅子に座って話をしているとする。僕の後ろにはきれいな田園風景が広がり、あなたの後ろにはカフェのスタッフたちがせかせかと忙しいランチ帯に働く景色がある。

僕から観測できるのは、(僕が後ろを振り向かないに限った話)せかせかと忙しいスタッフの風景とあなただけだ。僕からしたら自分の後ろに広がる田園風景は今その瞬間には

存在しない

ことと変わりない。
つまり、観測しなければ存在しない。認識して初めて、そこに田園風景が存在する。あくまでも、存在の定義は観測者である誰かがいて初めて成り立つ。

この論はとても好きである。

成し遂げたい目標や、会いたい人、欲しいものや、人生の夢、本当にそれらが欲しくてほしくてたまらないのなら、そこにフォーカスすることが大切だと。観測して初めて存在するから。

似たようななもので、僕たちはよく
「なんとなくそんな気がするんだよね」という言葉を使う。
この「気がする」も恐らくそれに近いのかもしれない。
そんな気がすると口に出すときは、そこにあるものとして認識しつつあるのと同じようなものだ。

これまでの人生をなんとなく生きてきた僕も、この理論を知ってから少しだが意識するようになった。

あると信じてその道を進む

僕たちが見ている世界は僕たちの観測で初めて成り立つのだから。




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