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中村地平の日向への旅と国策旅行ブーム

※『みやざき民俗』に掲載した草稿をアップします。

はじめに 

 宮崎県の観光を語る際には必ず新婚旅行ブームから始められる。その理由は、新婚旅行ブームのきっかけを作った三つの出来事による。第一は、島津貴子ご夫妻の新婚旅行。第二は、昭和三十七年五月の皇太子明仁殿下と美智子妃殿下の旅行、第三が、昭和四十年四月からはじまった、川端康成原作のNHK朝の連続テレビドラマ「たまゆら」の放映であった。これら三つの出来事が重なり、「新婚旅行は宮崎」というイメージが定着し、昭和四十九年には、新婚一〇五万組のうち三七万組が宮崎を訪れたという。しかし、そのような新婚旅行ブームが起こる前段階として、県内の観光地開発と全国的な知名度アップがはかられたからこそ、後の新婚旅行ブームが生まれたのではないか。

国策旅行ブーム

 県内では、昭和初年からの岩切章太郎による積極的な観光開発があげられよう。後の宮崎交通となるバス会社をつくり、「子供の国」「サボテン公園」などの南国宮崎のイメージ作りに様々なアイディアを実現した(岩切章太郎の観光開発については先行研究があるので、ここでは触れない)。しかし、これらの動きは、宮崎県内及び九州圏内での宣伝であって、全国規模での観光開発には踏み出していなかった。

 一方、昭和十二年の国民精神総動員運動の影響もあって、時代風潮としては、今までの享楽的な旅行ではなく、祖国を敬う「国策旅行」として、史跡や遺跡巡りが奨励されるようになった。奇しくも昭和十五年は、「皇紀二千六百年」にあたり、全国で祝賀式典が開催され、東京では五万人の参列者があった。これに合わせて各地の神社・神宮へ全国から多くの参拝客が詰めかけるようになった。

 この時期の観光については、白幡洋三郎が次のようにまとめている。

「第二次大戦前、観光客の熱い目が宮崎に向けられた時期がある。戦争の匂いが、遠い大陸だけではなく身近にもただよう雰囲気が生まれた昭和十年代、旅行はそれまでのように自由奔放に行なうことが難しくなりつつあった。「不要不急の旅行はやめよう」というスローガンもあらわれ、「国策旅行」などという言葉も生まれる。戦時、非常時には享楽の旅行は自粛し、お国のために役立つ仕事のうえでの旅行に限ろうという発言が力を得てくる。 そうしたとき、観光旅行客、旅行業者たちがあみだした旅行を救う言葉が、「皇祖ゆかり」や「敬神崇拝」だった。その中で宮崎がクローズアップされる。宮崎には、鹿児島県と地域を分けあう、霧島や高千穂がある。天孫降臨の物語や「神国」日本の原点となる日本神話のふるさとである。観光に出かけるといえば冷たい視線をあびせかけられるかもしれない旅行も、皇祖ゆかりの地を訪れる、敬神崇拝のために霧島神宮、宮崎神宮にお参りに行くといえば、あまり後ろ指をさされることもないだろう。というわけで、昭和十四年あたりから宮崎には他の地域をはばかる旅行客が増えはじめた。」(白幡洋三郎著『旅行ノススメ』中公新書、平成八年)

 県内においての天孫降臨の地というイメージ作りは早くから行われてきたが、全国的には、娯楽的旅行の制限に対してすすめられた「国策旅行ブーム」と機を一にして行われた紀元二千六百年の様々な記念行事が宮崎県の観光地としての知名度をアップする契機となった。天孫降臨の地として宮崎県の知名度は上がるが、具体的にその地を旅するイメージを全国的に提示したのが、中村地平という宮崎出身の小説家であり、その人脈であった。

作家と観光誘致

 昭和十四年七月、中村地平は、日向観光協会の招きによって、日向一円を巡遊し、その土地にふかい愛着を覚えるようになった。その時の一行は、中村に加え、井伏鱒二・中川一政・尾崎士郎・上泉秀信・岡田三郎の六名であった。その時の旅行のきっかけについては、中村は次のように回想している。

「戦争が大きくなりかけているころであった。皇紀二千六百年祭が行われる前の年、宮崎県庁からの招待で尾崎君といっしょに日向に行った。他にも中川一政、岡田三郎、鈴木彦次郎、中村地平、上泉秀信などがいた。あとでわかったが先方の方針では、高千穂の峰というものは、鹿児島県内でなくて宮崎県内にあることにするつもりの運動の一つとして呼んだらしい。私たちに県内を歩かせて、高千穂は宮崎県内にあるのだと新聞雑誌に書かせようとしていたようだ。事実、県の議員の一人は私たちの前で演説して、『みなさんのご麗筆で、高千穂の宮は宮崎県内にある、云々』と云った」(「亡友の諧謔」)

 戦前から天孫降臨の地の論争は起こっていたが、この時期、特に観光開発に関連して、再度議論が生まれていたようである(佐藤隆一著『文学に描かれた宮崎 県北を中心に 1幕末明治から戦中まで』(みやざき文庫3)鉱脈社、平成十三年)。

「鹿児島県側も斎藤茂吉、与謝野晶子らを招いて、論争の主導権を握ろうとした。昭和十四年十月、鹿児島県を訪れた斎藤茂吉は争いには触れないまま「鹿児島県から招かれて、神代三山稜の参拝を為し、皇紀二千六百年の聖代を讃歌せんとしたのであったが、同時に霊峰高千穂の頂上を極むることを得た・・・私等は只今その天孫降臨の神聖の連続なるこの山のいただきに立っているのである・・・」と霧島の一週間を「南国紀行・高千穂峰」に書いている。

 宮崎県側から招かれた彼らの旅行については、彼らの宮崎旅行の経験は、戦時下という状況もあり、リアルタイムで、旅の報告がされることは少なかった。むしろ、戦後になってから次々と文章化され、その後の宮崎観光のイメージ作りに一役買うのである。

中村地平と観光、そして郷土の再発見

 中村地平(明治四十一年~昭和三十八年)は、昭和五年に東京帝国大学に入学し、すぐに井伏鱒二の門下生となる。昭和九年に都新聞(現東京新聞)に入社後も作品を書き続け(「熱帯柳の種子」「廃港淡水」「蛍」「南海の紀」など)、昭和十三年に「南方郵信」(『文学界』4月号)で第7回芥川賞候補となる。北の太宰治、南の中村地平と称されるほどの評価を得るが、昭和十六年十二月に陸軍報道班員としてマレーに派遣され、十八年二月に森玲子と結婚、その翌年、昭和十九年三月に宮崎市に疎開することとなる。

 その後、中村は、中央文壇に戻ることなく、宮崎県において、文化人・経済人として、生涯を宮崎で過ごすこととなる。宮崎に住み続けるきっかけとなったのが、昭和十四年の宮崎への旅であり、それをまとめた『日向』の刊行であったと考えられる。

雑誌『旅』に記された昭和十四年の旅

 中村地平についての研究書にも、この旅行について触れられている資料は少なく、この旅行をきっかけに書かれた、昭和十九年に小山書店から「新風土記叢書」として刊行された『日向』をもとに、中村の故郷観が論じられている。 本稿では、中村にとって『日向』を刊行し、地元宮崎に疎開し、そのまま棲むことになるきっかけとなったこの旅行についての資料を以下に公開し、中村地平の故郷観についての研究資料としていただきたい。 一つは、財団法人ジャパン・ツーリスト・ビューローの日本旅行倶楽部発行の旅行雑誌『旅』の昭和十四年十月号に寄稿した「日向路の秋」と、同年十一月に、前年に日向旅行に出かけた井伏鱒二・中村地平・中川一政・尾崎士郎・上泉秀信の4人による座談会を収録した「日向を語る」の二本を紹介する。 今後、これらの資料を基に、戦時中の国策旅行ブームと戦後の新婚旅行ブームをつなぐ存在として、中村地平という人物に着目していきたい。また、宮崎観光の父とも称される岩切章太郎と中村の関係などについても研究していきたいと考えている。


資料紹介                                                                                                      


日向路の秋
中村地平

 南方に生まれ、南方に育ってきたせいかもしれないが、僕は南方の秋が好きである。台湾には高等学校時代四年間いたが、亜熱帯というものの、やはり秋涼の気節(ママ)はあるのである。内地のその季節ほどはっきりした時候のニュアンスは見せないけれど、太陽の光りがやはり幾らか弱くなる、常緑の樹木がほんの僅かばかり黄ばんできて哀れを見せる、本島人の夜市のアセチレン瓦斯の陰に豊かなポンカンの実がならぶ。幾らかは意識的に自然の中に探らねばつかめないような「秋」であるだけに、うまく「秋」が触手に掴めたときの喜びはまた格別である。
 僕の故里である日向の国は、同じ南方ではあるが内地であるだけに、それほど異色がある、というわけではない。しかし、空の色が深いし、空気が澄んでいるし、国の片側に聳え連なっている九州山脈の姿が美しいし、やはり他の土地では見られない季節の見事な色合いを示す。前夜の嵐にたふれたホホヅキや、トウモロコシの葉ずれの音や、澄んだ河鹿の声や、尾っぽを静かに動かして草を喰んでいる馬の姿やーそういう気節の景物をともなった日向の秋の牧歌調が、今頃になると強い郷愁で僕の心には湧きたってくるのである・・・・。
 休暇の関係があるし、また、健康な感じにあふれるし、旅は夏の日もわるくはないが、どちらかと言えば僕は秋の旅が好きである。夏の旅ほど疲れがひどくないし、それに季節の肌合いから、心がしっとり濡れるように落ちついて、汽車の窓からふと眺めた柿の樹のたたずまいや、土蔵の白壁を染めている茜色の夕焼けや、そういうありきたりの風物まで胸に焼きつくように印象的である。どこそこの山や海やで眺めたひとひらの雲の形まで、忘じがたい時さへあるのである。
 この秋は僕は尾崎士郎さんと、日向の国の椎葉という山奥の村へ旅する約束である。椎葉というのはなんでも三十方里(ママ)もある大きな村で、入口まで自動車の便があるが、中の奥地へはいると未開の状態にある。平家落武者の子孫が住んでいて、今でも、大家族主義の大きな古式の家が残っている。以前は宮崎の町などから県庁の役人などが出むくと、村の女たちはその子供を産ませて貰いたがったそうである。血族結婚で村びとの血が汚れているので、優生学的に新しい血をほしがっているわけである。
 昔、平家の落武者を追討にきた源氏の、那須の大八と村の娘との情話なども伝説として残っていて、今尚稗搗節という民謠に唄われている。その一節をあげると

 (一)庭のさんしゅの木
    鳴る鈴かけて
    鈴の鳴るときゃ出ておぢゃれ
 (二)鈴の鳴るときゃ
    何と言うて出ましょ
   駒に水くりょと言うて出ましょ

 と、言うのであるが、歌詞が文学的であるばかりでなく、節も哀切で旅びとの心をゆすぶることが大きいのである。
 尾崎さんとこの秋その土地に旅する計画を樹てた原因は、先頃七月日向観光協会の招きによって、日向一円を巡遊し、その土地にふかい愛著(ママ)を覚えるようになったからである。その時の一行は、尾崎さん以外、中川一政、岡田三郎、上泉秀信、井伏鱒二の諸氏、それに僕を加えて一行六名であった。
 一行は卓れた土地の風物と、ふかい人情とに凡て感動した、上泉さんもこの秋はその土地の飫肥という小さな城下町に旅する計画を樹てているようである。
 飫肥というのは宮崎の町のもっと南方に在る古い町で、伊東氏の旧城が残って居り、町の中央には酒谷川がながれている。また、伊東子爵の邸宅があるが、庭は辺りの山や川やの眺めをとり入れて、閑雅、珍しく卓れた風致である。九州で古い、静かないい町と言えば誰でも竹田を想起するのが普通であるが、飫肥の町はそれに勝るとも劣らない、というのが一行の定評であった。
 この飫肥の町をふくむ宮崎からの南方コースは、熱帯樹林で有名な青島を除いて、まだ一般には知られていないが、それだけに汲めども尽きない風土の興趣に溢れているようである。
 宮崎から青島まで四里、その南に巨岩屹立する海浜の洞穴中に官幣大社鵜戸神宮の勝があり、更に南下して飫肥町、油津港を経、行程極まったところに都井岬がある。
 岬は天然記念物に指定されている蘇鉄の処女林や、付近の山林中に棲まっているおびただしい野猿の群やで有名であるが、もっと僕たちの興味をひいたのは野馬であった。岬の入口にはほんの僅かばかりの柵が設けてあるが、その中の天然の丘や、谷あいや、暖国植物の林の間やには数百の野馬が自在に駈り、草を喰み、たわむれている。野馬というからには勿論子供を産むのにも人手を借りる、ということはない。ひとりでに子供を産み、ひとりでに育ち、勝手に死んでゆくのである。水を飲みに谷あいに降りた馬が、脚踏み外して、岩上に倒れ、そのまま死んで、骨のみ風雨にさらしているような例も少なくないそうである。
 丁度、僕たち一行がそこを訪れた時は、俄か雨が頻頻として襲い、群馬を眺める興には恵まれることができなかったけれど、林間にまるで玩具のような仔馬をひきつれた母馬の姿や、丘の嶺に数匹の馬が夏雲にいなないている絵のような風景や、などを眺めることができた。この岬を背景にして、僕は小説を書きたい気もちが切りと湧いたけれど、しかし、風景はどちらかと言えば井伏調であろう。井伏鱒二さんが小説に書くなら、僕は引きさがってもいいのである。こういう卓れた土地を紹介するためには、僕は身を殺して仁を為す覚悟を決める、ことができるのである。内輪の話は別として、本誌の誰者などにはこの余り知られていない観光コースを、是非旅のプランの中に加えられることをすすめたい。耳をすますと、明るい南方の秋空のなかに、野馬のいななきが聞こえてくるような気がする。
(『旅』昭和十四年十月号)

『日向を語る』

出席者(順不同):中村 地平/中川 一政/尾崎 士郎/井伏 鱒二/上泉 秀信
   鉄道省:吉田 団輔/水澤 澄夫/鈴木 仁一 
 ビューロー:佐藤 正雄

吉田  では御挨拶は抜きにして、これから始めさせて戴くことにいたします。丁度、二千六百年祭も間近に迫って参りましたので、「旅」といたしましても、読者になにか日向に就て紹介したいと思って居りましたところ、幸いに丁度皆さんがそちらへ御旅行なさった大変いい機会でございますから、色々お話をお伺いしまして、それによって日向を紹介したいと考えたわけです。水澤さんの話のいとぐちをほごしてくれませんか。
宗太郎峠
水澤 あまり日向に就ては僕もよく知りませんのでいとぐちと言って・・・・
吉田 日向にいらっしゃいました第一印象というものはどんなものでしょうか。皆さん始めてでいらっしゃいますか?
中村 井伏さんが十八年前、学生時代青島へ行かれたことがある。あとはみんな始めてです。
水澤 中村さんは向うのお産れでしょう。
中村 ええ、僕は・・・・
井伏 中村君は三十年ばかり日向を知っているわけだ。
吉田 中川さん、初めての印象は如何でしたでしょうか。
中川 一等最初に日豊線でゆくでしょう。すると、宗太郎峠というのがありますね。日向の人が郷里を出る時、この宗太郎峠にのぼって、日向をふり返って決心する。その峠を越えると、いよいよ日向平野に入る。それから間もなく北川という川が鉄道の線路に沿うて流れていますが、ずいぶん長い間汽車の窓についてくる。そうして延岡近くになって始めて海へ入ります。その川の流れかたがとてもとても悠長でよかったし、それからその川に相応して、辺りの山の姿が実にのんびりしていますね。その第一印象が旅行して帰って来るまでやはりつき纏って離れなかった。結局その第一印象が日向全体の印象だったというわけです。
    日向というところは、なんだかゆったりしています。それは自然ばかりじゃない。人間だってそうです。さつきも話したように向うの郷土舞踊の「臼太鼓踊」というのを見た時、若い人でなかなか体格のいい人がたくさんいた。だいたいあれはよほど力の要る踊りと見えて屈強な人ばかりなんです。その人たちの顔なんか、東京では見られない、なんだか戦国時代の雜兵、雜兵といっては悪いかな(笑声)、まあ、
   絵本太閤記にあるような、実に面白い顔です。ああいう風なのんびりした顔もよそには無いだろうと思いますね。とにかく自然も人間もゆったりしていて、こせこせしていないという、そういう印象が大変よかったと思います。
水澤 井伏さんは十八年ぶりでいらっしゃったそうですね。私は十六年前に土土呂という所に行ったことがあります。私はその時は南の方へは行かずに北へまわりましたが、その時土土呂やそのほかの駅でランプをつけているところが大部ありました。
中村 十六年前だと、それはずいぶん変っていますよ。
井伏 僕が行った時はあの辺には汽車は無かった。汽船で通りました。あの変は難所だったんですね。
水澤 私もその時は実にのんびりしたものを感じました。その点は十六年經っていてもやはり同んなじなんですね。
井伏 十八年前は青島にあの海彦、山彦伝説は無かった。それがこんどは実にはっきりと在った。(笑声)
鈴木 井伏さんの御郷里は瀬戸内海でしたか。
井伏 そうです。
道は三百六十里
吉田 こんどの日向旅行は幾日間でしたか。
中村 十日間です。
吉田 お廻りになりましたところは?
中村 普通の観光地や史蹟地は殆ど全部見てまわりました。興味のあるところでは椎葉だけに行っていない。
井伏 三百六十里位かな。
水澤 ずいぶんお歩きになりましたね。どんな所を・・・・
井伏 宮崎を出発して・・・・
中村 青島、それから鵜戸、飫肥、油津・・・・
井伏 その日は四十五里歩いたんだ。
中村 都井岬、都城、庄内を見ましたね。それから関の尾、白鳥・・・・
上泉 それから佐野神社(ママ)、皇子原、皇子池。高城。去川の関。
井伏 それから宮崎に帰った。その間の道路には黄櫨(はじ)の樹の並木がたくさんあって、よかった。片側は渓谷になっていて、そこで鮎を釣っている。いい眺めでしたよ。
上泉 それで南の方がすんで・・・・
中村 住吉神社。
上泉 それから郷土人形の出来るところがあるんだ。
村中 佐土原。
上泉 あ、そうだ。 
中村 それから穂北、黒貫寺、佐野原(ママ)、西都ヶ原(ママ)。
吉田 土地の人は「さいとばる」というですね。
上泉 それから杉安、高鍋、都農。美々津。富島、延岡、高千穂という順序です。われわれが歩いたのはそれだけですが、観光客と歴史関係者のゆくところは大低(ママ)行っているわけです。
吉田 それだけお廻りになれば十分ですね。
水澤 お天気はどうでしたか。
中村 いくらか降りましたがね。大したことはなかった。
吉田 どこがよかったですか。
上泉 いろいろありますがね。景色がいいのは高千穂でしたね。
吉田 霧島の方の高千穂の峰にはおのぼりになりましたか。
上泉 いや、のぼりませんでした。
吉田 延岡の方は高千穂をお選びになったのはなにか動機があったんですか。
井伏 それは向うで選んだんです。高千穂の渓谷はよかったですよ。
中村 行程がつまって居りましたし、どうも山に登るのが不得手な人ばかりだから、霧島の方はのぼるのを割愛したわけなんです。霧島もずいぶん風景がいいところなんですが、天気の加減であまり山容が見えなかった。だから自然みんな高千穂の方に馴染みが深くなっている。
上泉 高千穂の国見丘なんというところはいいですからね。
神と共にある
中村 全体的な印象に話題がかえりますがね・・・・岡田さんもそういうことを話して居られたが、だいたい日向という国は、神さまに非常に近しい感じのする土地なんです。それは史蹟が豊かですし、宮崎神宮や、鵜戸神宮を始めとして、格式の高い神社が沢山ありますしね。神楽なんか見ていると、特にそういう感じが強いんですよ。神と共に在る、神と共に楽しむ。なにか神さまと膝つき合わしてつきあっているような、そんな近親の感じが湧くんです。(笑声)そういう神に近い感じはよそでは見られないところです。
上泉 しかし神さまに対しても地もとの人の身びいきが大変強いようですね。自分のところのがいいのだ、というような・・・・。それは郷土愛からきているんでしょうが。
吉田 だいぶ鹿児島と争っているようですね。
中村 それは郷土愛はたしかに強いし、そこからきているところもありますがね・・・・しかし、鹿児島との争いはね、所謂なんというか。史蹟とか観光地とかの宣揚については、これまで日向が非常に閑却されているのですね。それが実際にはいい所があるのに必要以上に閑却されている。そういうところに不満があるのが、最近眼醒めてきて、大にその方面に努力している。それが鹿児島と宮崎とは昔から三州人会とかなんとか言って提携してきているんだが、維新以来鹿児島には人材がたくさん出ていて。向うがいつもリーダーシップをとっている。それでどうしても鹿児島の方ばかりが世間に知られる結果になって、日向の方は損ばかりするというような結果になる。それではいけない、というので最近日向の方が独立的な気もちになってきている。
    するとまたそこに鹿児島の方で反発を感じる。そういうところに自然お互いに敵意に似たものが湧いて啀みあう、ということになる。僕も精しいことは知りませんが、大体そういうような事情にあるんじゃないかと思うのです。日向の人の気持を代弁して言えば、土地の持っている真実、というか真価というか、それをそのまま認めてさえ貰えばなにも言うところはないのだ、と思いますね。
上泉 話がちがうが、白鳥神社というところの踊りについては中川君に話して貰った方がいいと思いますがね。その白鳥というところに、温泉があるんですよ。まだ殆んど設備らしい設備が無いのですが、来年の二千六百年祭までには宿屋なども出来るそうだし、完成すれば非常に面白い、いい温泉郷になると思いますね。その湯元は井伏さんと一緒に見に行ったが・・・・
世に問う白鳥温泉
井伏 そうです。明礬泉です。非常に熱い。
上泉 所謂地獄ですが、それが方々に在るらしい。
吉田 バスの通り道にそういう計画が出来ているらしいですね。
上泉 バスはあすこまでは行きません。白鳥神社の後になっています。
井伏 神社から徒歩で三分位です。
上泉 尤も今道を拓いていますが、すぐ近くまでバスが行くようになるんでしょう。来年までには・・・・
吉田 白鳥神社というのは・・・・
上泉 日本武尊をお祀りしてあるのです。
吉田 すると、温泉の名は白鳥神社から出た名前ですね。
佐藤 旅館の設備はどうですか。
上泉 今は旅館はまだないのです。旅館が出来れば非常によくなるでしょう。今までは交通の便が悪かったが・・・・
佐藤 そこへ行くのにはどういう道順でしょうか。
中村 日豊本線に小林という駅があるでしょう。都城の先に・・・・あそこから近いのです。多分その駅か、飯野駅からかバスが出るようになるんでしょう。或いは加久藤駅だったかな。・・・・とにかく、相当な資本をかけて、大きな温泉場を開く計画になっているんです。
佐藤 それはいいニュースだ。
中村 だいたい今までは京町位のもので日向はあまり温泉に恵まれていなかった。白鳥が開けると、ぐっとよくなりますよ。
上泉 すぐ近くを汽車が通っていますね、汽車から二里位のものでしょうか・・・・白鳥というところはいいところですよ。仏法僧もいますしね。 
井伏 あそこの仏法僧はチャッチャッと鳴くね。
上泉 あれは宮崎方面のはチャッチャッですね。それが佐野神社にも沢山いました・・・・その白鳥の踊が非常に面白いんですが、それは中川君に聞きましょう。
白鳥の踊
佐藤 中川さん、どうぞ・・・・
中川 なんと言えばいいですかね。
上泉 踊りの間に踊っている人と、音楽をやっている人が問答するんですよ。
水澤 それは面白いですね。
井伏 三本の棒を寄せて、こういう風に寄せて、その上に平たい石が置いてある。その石が深く船のように割れているんです。そこで篝火を焚くんですが、その炎の上に杉の木が聳えている。数百年たった古い杉の木です・・・・。いいところですよ。そこで夜、踊を見たんです。
中川 ああいう風な踊りはよそでは見られないんじゃないですか。地べた蓙をしいてやるんだが、バックがよくてね。
水澤 自然の中でやるわけですね。
中川 それからお面なんか足りなくなって、民間で作ったものもある。でたらめみたいなお面だけれども面白い。それから衣裳というのが普段着ているような、メリンスの真っ赤なもので・・・・
井伏 縞のモンペをはいていたね。
中川 モンペの後がよぢってあった。それから、こんな、なんというか模様の着物のなかに白いタテワキというかこんな風になっている・・・・そんなのを着てやるんですよ。それで踊っているのを、すんでから顔を見ると、とても可愛らしい青年なんです。それが神下舞(しんかまい)。それからその前に太力(たいりき)の舞というのをやったが、どちらも面白かった。太力の舞というのは麻の着物を着て、直垂みたいな袍を着て、腰に棒をさして、そこから赤い布をさげて、ちゃんとしたお面をつけてやるんです。始めの神下舞というのは特に面白かったがそれは鈿女の命の変体したものじゃないか、と思うんですね。鈿女の命がお神楽の元祖ですからね。それが、これは伊賀の国の神下舞というのですけれども、伊賀の国に神下の舞というのがあったんでしょうね。それがお面なんかグロテスクで・・・・そうして棒をもって踊るんですよ。杓子としゃもじと、なんだっけね・・・・、擂粉木(すりこぎ)だ・・・・。この三つ、勝手道具を三つもって踊る(笑声)。その踊りがなんだか終りになると色気たっぷりになる。踊っている人が意識しているのか、どうかしらないがなんだか色気があり過ぎるように見えますね。
井伏 モンペが腰をひねって・・・・。あれは鳥渡(ちょうと)色っぽい。
中川 文句にも色っぽいところが入っている。天照大神が天ノ岩戸にお隠れになった時ほかの神さま達が天照大神の御機嫌を直すために皆踊ったり、一人一人歌をつくったりする。その歌の文句なんですね、高千穂の岩戸神楽というのは神様を喜ばす踊りですけれども、こちらはさつき中村君が言ったように、神と一緒になって人間が喜んでいるような、そんな民衆的な踊りなんです。これは珍しい・・・・。夜、篝火を焚いてしんとして見ているなんか、なかなか印象が深かったですね。
井伏 あの神楽を見たところ杉の木は美しかったですね。やはり杉の木でなければいけませんね。
上泉 白取(ママ)神社というのは可なり深い山の中に在るんですが、そこへゆく途中道を迷った人があったりして大変だったんですけど、その踊りですつかり喜んでしまいましてね。あの踊が無かったらとてもみんな收まらないところだったんです(笑声)
中村 日向には一円至るところに神楽がある。大低(ママ)それもひとところに三十種から四十種もあるんです。高千穂の岩戸神楽なんというのは御存知かもしれませんが、とてもいいものです。それから神楽ばかりでなく、古い郷土舞踊が沢山残っていて、ちょっとこんな土地はよそに無いでしょう・・・・。テイコ・イトウさんが踊りを取材するために、今晩日向にたった筈です。
臼杵踊
上泉 岩戸、白鳥、それから臼杵(うすきね)踊りの三つがよかった。
尾崎 臼杵踊というのはどんなんです。
中川 男と女が出てきてね。女が箕を持ち、男が杵をかかえて踊るんです。踊っている間に色気のある所作になるのですよ。杵がつまり男になってしまうんです。
尾崎 ああ、あれ・・・・。あれはしかしそんなものじゃないですね。つまり、今言われたように杵が男になって、ぐっと女の方に迫る。すると、箕がひっこむ。ひっこむと又出る。その身ぶりが実に雄大ですね。丁度、杵をもって踊っているのが相撲の土俵入りみたいで情欲というようなものを感じさせない。情欲というと、なにかコソコソした、陰にかくれて人に見せられないようなのが普通だが、あの踊りにはもっと突き離したものがありますね。実に雄大です。見ていて、変な厭らしい感じはちっともしない。
吉田 そういう古いものが現に残ったというのは、なにか謂われがあるのでしょうか。
井伏 それは茨城の方からもってきた、と言って居った。なんとかいう医者がいて・・・・
中村 いや、あれは別です。あれは見なかった。あれは例外なんです。神楽でも舞踊でも大低(ママ)古くから日向に伝えているんです。やはりなんでしょうね。神楽などは神社とか史蹟とかの古いのが残っているから、それと形影相伴って・・・・
上泉 それに民衆娯楽として発達してきたんでしょう。
吉田 そうでしょうね。民衆娯楽としてでしょうね、・・・・私は高千穂の白刄(はくじん)の舞というのを見ましたが、あれは非常に真剣になってやるものらしいですね。
上泉 一週間女をたって、淸浄潔白になってやる。
鈴木 白刄というのは、白い刀ですか。
中村 そうです。
鈴木 こちらでは棒使いというが、そういう棒術の踊りもあるんですか。
中村 ええ、棒踊りいう(ママ)のが幾つかありますよ。
中川 白刄の舞というのは剣術の舞いでしょう。香取、鹿島と關係があるんだが、それが今は日向にだけ残っている。昔は踊る人は、剣術使いだったんでしょうね。親方みたいな人がいて、統率しているんですよ。
井伏 そうです。四本柱をたてて、その中には親方しか入らない。
中川 臼太鼓踊というのも立派ですよ。
井伏 その場所、場所で全部踊りの特色が違うんですよ。あれは珍しいですね。
鈴木 同じ日向の中でそうですか。
中川 同じ日向の中でいろいろの種類の舞踊があるんです。
井伏 中で一番いいのが岩戸神楽だと言うね。
上泉 その岩戸神楽の神楽せり唄というのは面白いですよ。それは神楽を観ながら、一緒になって唄をうたって神楽をせって騒ぐ。冬寒い時、夜っぴて神楽を観るので、観ている人はそれで暖をとるんです。そういうのがありますよ。
中村 踊りの話はそれ位にして、尾崎さんから、宮崎や延岡の町の印象を聞こうじゃないですか。
余情のある宮崎の女
尾崎 そうですね。日向は風景に就いても大変印象深いところが多かったが、人情が・・・・。向うの土地にいる間は宮崎の人情を特別には感じなかったが、汽車に乗って宮崎を離れる瞬間、始めて深くわかったような気がしました。わかった、というと何んだが、宮崎にいる間は、宮崎の感情の中に没入していた。それでわからなかった。それが離れた瞬間、始めて宮崎の人情というものをはっきり理解できたのです・・・・。それから宮崎の女はみんな余情をもっている・・・・。(笑声)だいたい、今度の旅行は非常に淸浄潔白な旅行で、とにかく神様を膝つき合わしてつき合ってきたのですから・・・・(笑声)まあ、女の方とは深いつき合いは無かったんだが・・・・(笑声)例えば汽車に乗って、窓から見る女がすべてそうなんだが、みんな豊かな情緒をもっている。綺麗とか美しいとか言うんじゃあないんです。まあ、余情ですね。それをもっている。これはよそのどこの土地にも見られない。言葉では説明のできないものを表現する、一つの表情をもっているんです。そういうような感じがしました。それがやはり人情なんかにも結びついて、非常に独得のものを感じさせてくれました。宮崎から汽車に乗って別府までゆくと、もうそれははっきりちがっています。
吉田 それには私も同感ですね。あそこのバスガールにそういう印象を受けました。非常に美人というわけじゃないんですが・・・・
井伏 後藤ひさ子さんというのじゃないですか(笑声)
吉田 さあ、それは覚えていませんが、非常に印象が深かった。
水澤 井伏さんはよく名前を覚えていられますね。
椎葉村と稗搗節
尾崎 稗つき節というのがありますね。あの唄を聞いて、私は椎葉村に非常な興味をもったんです。椎葉に入っていかなければ日向の本当の姿が分からないんじゃないかと、そういう気がした。壇の浦に破れた平家残党が落ちのびて、それが伝説で見ると一方は熊本の五家ノ庄に落ち、一方は日向のこの椎葉に落ちた。そして、椎葉でまあ百姓みたいになっていたわけなんです。それに頼朝が追討の命を下した。呼び出されたのが例の、那須与一です。ところが与一は行かないで、弟の大八郎というのにその命令を譲った。それで与一ははるばるこの椎葉に下向してきたが、残党の中には別段反抗する者もいないし、可哀相になってくるんです。その間に例の稗つき節の歌にありますね。鶴富という美人に惚れて帰れなくなった。しかし頼朝からは間もなく帰って来いという命令がくる。しかたがないから、別れて帰って行く時にその鶴富に刀と墨付とを残して置く。そのお墨付というのがなかなか立派なもので、書いてある文句が「その方懐妊、我覚えあり。産む所若し男児ならばその方伴いて鎌倉に上るべし。女児ならばその儀に及ばず」というんです。なかなか面白いんです。だから、この次には詳しく本当に調べて見ようと思っている。その椎葉という村は三十里四方あって香川県よりか広い。村長が村全体を歩くにしてもひと月かかるという位の広さをもっているんです。
佐藤 相当な広さじゃないですか。
鰯三匹と牛一頭
尾崎 県の人に聞いても県の統治が完全に行き渡るのには四、五年かかるだろうと言う。住んでいる人はまったく原始的な感情の中に生きている。この間もちょっと聞いた話が鰯を三匹人に借りたためにそれが半年ばかりの間に利子がついて牛を一頭取られたという・・・(笑声)
佐藤 庇を貸して母屋を取られたどころの候じゃないですね。
尾崎 そういうところはちよつと今ほかにないでしょう。
佐藤 昨年の何月号でしたか私のとこの「旅」に職員の提水流(さげづる)君が椎葉村のことを書いたことがあります。参考になるかも知れませんからお届けして置きましょう。
尾崎 蒙古から帰ったら私の方から伺いましょう。
佐藤 ビューローでも椎葉村見学団を大大的に募集しようと考えているところです。それは冗談ですが・・・・
水澤 どうぞお墨付を残して・・・・(笑声)
吉田 高千穂の町に頼朝のなんとかいう神社がありますね、源氏の・・・・可笑しいな、こういうところに源氏がなんの謂われがあるのかと思っていましたが今の那須大八郎の話を聞きまして、なるほどと思いました。
尾崎 人情が素朴単純で、それからその上に平家の子孫という誇がなかなかこの村の人にはあるわけです。なにかこの間も聞いた話ですが、変な奴が・・・・人殺しという・・・・それをつかまえて調べたところが着物の中に袋をもっていて中には金が入っている。銀貨や銅貨を交ぜてとに角百円位の金を持っている。驚いて今度は着物をぬがして調べてみると着物の中に札があった。それを合わせてみると千円近い金がある。驚いてもう今度はこれはいかんというので警察がびっくりしまして、責めつけて体全体を調べたところが、体の中に一万何千という金を持っていた。それは盗んだ金じゃない。家代々持っている金でしょう。その金を銀行なんかに預けるということを知らないから、皆自分でふんどしや何かに入れているわけです。(笑声)
水澤 源平時代そういう田舎によく頼朝の手がのびたものですね。
中村 そうですね。
水澤 頼朝というのは日本中駈け廻っていますね。
尾崎 実際あんな遠いところまでよく鎌倉幕府が調べたと思う。そんなところに大して勢力のある者が行っている訳でもない。こっそり落ちのびて行ったものが分かったということは実に不思議に思いますね。
鈴木 平家の残党というのは全国に多いですね。奈良県と和歌山の間にもあります。飛騨の奥の方に、白川とかいうああいう山奥は大抵平家の落武者のいるところと称していますね。方々にありますね、・・・・
上泉 誰も椎葉までは廻らなかったから椎葉の話ばかりやっていますよ。みんな見ぬ恋ですよ。(笑声)
尾崎 宮崎の唄で一般化しているのは稗つき節ですね。
井伏 昔、椎葉は文明の中心であったらし・・・・
吉田 そうですね、平家の残党ですから
美々津は美人郷なりや
佐藤 美々津は美人郷だというがどうでした。
井伏 それはおかしいでしょう。
佐藤 おかしいなァ、慥(たしか)か僕の旅のメモにはそうなっているのだが。
井伏 美々津では女なんか一人も見なかった、われわれが来たというので・・・・
上泉 沖合いの島の上に持って行って、女を見せないようにした。
水澤 どうしてですか・・・・
井伏 危ないからね(笑声)
上泉 島の上に持って行って女を見せてくれない。危険を感じたんですね。(笑声)・・・・所謂美人郷ではなかったね、寧ろ男の方が立派な顔をしていた。
中川 しかし男が立派なら美人が沢山産まれるわけじゃないかな。
中村 美々津はどうか知りませんが、日向の北の方はまあ美人が多いということは言われているんですよ。なにせ平家の落武者の子孫だから・・・・
井伏 高千穂の国見ヶ丘ではこんな大きな竹の筒にお酒を入れて、お酌してくれた。
上泉 竹の中をくり抜いて酒を入れて、それを林間で煖(あたた)める。そして燗をして竹を切ったやつで飲ませる。昔から山に行ってやっていたらしいんですね。竹のヤニが酒に交じって非常にうまいという・・・・。
カッポウ酒
井伏 あれはうまいです。あれはタカチュウのカッポウ酒と言う。
尾崎 随分大きな竹ですね。あの竹は二度も三度もは使えない。
井伏 爆弾三勇士がもっている爆弾のような竹ですよ。
中川 だからお酌をしてくれても、女との間は随分距離があるわけです。お茶もそう言うね、カッポ茶と・・・・
中村 山へ働きに出た時、山に自生している茶を摘みまして、それを竹の筒に入れて・・・・
井伏 葉を一寸焙って入れる。それから清水を入れてわかす。だから実に風流ですよ。
尾崎 高鍋で貰った山茶は実にうまいですね。唯置くと色が変って来ますね。青い色だったのが段々茶色にある。
上泉 山に自然に生えているものを持ってくるんだから・・・・
吉田 高千穂神社に入る所にお茶の木が植っていますね。
上泉 日向には茶が多いですよ。都城辺りは特にそうです。
井伏 あれは先の方がとんがった葉ですね。普通南方に分布しているものは先がとがっているようですね。
吉田 高千穂の町の御感想はどうです。
尾崎 高千穂の町は・・・・
上泉 夜歩いたね。岡田君と井伏さんとは・・・・
井伏 中村君も歩いた。
上泉 中村君は真名井の井戸あたりを散歩したというから・・・・
井伏 土間があってほそ長いテーブルがあって、腰掛があって・・・・昔の股旅者がお酒を飲みに行くような呑み屋があった。
尾崎 延岡は雄大でいいね。僕は日向に着く早々延岡で夜釣の船に乗ったから特に感じが強かった。日向では水の感じが一番強く残っていますね。
吉田 延岡で風呂場に珍しいものをお感じになりませんでしたか。風呂桶に段々がついていて、段を上(あが)って入るという・・・・
上泉 いや、見ませんでした。
吉田 惜しいことですね。風呂だけでも古い形に残していてくれたら・・・・あれだけでも延岡に来たという感じがしますのに。
中川 宮崎には料理屋にいいのがあるですよ。鷹揚で、たっぷりしている。そう古くはないがいい料理屋です。紫明館、泉亭なんか・・・・西郷隆盛がいたら面白かろうというような(笑声)
良心的な観光宣伝
中村 だいたい日向を観光地として宣伝すると、僕はその土地が観光地臭くなってつまらなくなるんじゃないかという心配をこれまで始終もっていたんですよ。僕にとっては故郷のことですから、世間の人にも多くさん知って貰いたい気もちがあることは勿論だし、そのくせ反面には所謂観光地らしい厭な土地にならないかという気持があっていつも矛盾するんです。それで今度もちょっと心配していましたがね。しかし、向うに行ってみるとその点は非常に細心の注意を払っているんです。それは局に当る人が例えば鉄道沿線から広告を一掃するとか、風景を損うような建物を建てないとか、非常に神経を使っている。
吉田 前の相川知事がよかったですね。大変そういうことに熱心で・・・・
中村 そうなんです。それで知事が変るというので僕も心配になって地もとの方に手紙を出してみた。知事が変っていろんな方針はどうなるかという・・・・それはね、御承知のように祖国振興隊などという建設的な大きな事業が幾つか残っている。特に祖国振興隊は知事が変るとどういう事になるか二月会員もみんなそれを特に心配していた。それで訊ねてやったのです。すると、そういう事は総て前知事の方針を踏襲して行くから、安心するようにという新知事の言明があったと、返事を貰いました。そしてそれには観光の方のことも勿論引きつづき熱心にやる筈だと書いてありましたが、それは現在官民のもに非常に熱心なんだから、やはりその状態をつづけて行くことになるでしょう。
吉田 宮崎と言えば、あそこは祖国という感じを多分に持っていますね。さっき中村さんのお話のように他の観光地に見るような観光地らしいいやなものがない。私の行ったのは四五年前ですが・・・・
鈴木 俺の郷土を知らしてやろうというような考えで・・・・
上泉 ・・・・祖国と言うでしょう。日向だけが祖国のように・・・・(笑声)・・・・その祖国というのはいいと思いますね。
中村 だいたい人が来てくれることを非常に喜ぶ土地柄でもあるんです。
吉田 ではこの辺で、どうも有難うございました。
(『旅』昭和十四年十月号)

※以上、資料掲載にあたっては、旧字・旧かなは新字・新仮名遣いに変更した。

追記


https://dl.ndl.go.jp/pid/1587897/1/11



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