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泉毅一郎「愛吉少年河童を釣る」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931)

延岡市内恒富、中條と三ツ瀬の間に昔の五ヶ瀬川の川跡の池があつた。長池と云ふて東西三百メートル、南北百二十メートル位いであつたとの話です。その他の東に権現さまの社があり、可なり深い池で、水神がゐるというて付近の人達は恐れて居つた。三四百年も前の話であるが、恒富中條の豪家とだけが埋立てゝ、その中程に長さも幅も、約十七八メートルの四角い池が水神の住所として残して置いた、角池と改名する事も出来ず、さりとて長池とも書き得ず、その昔の長池と同じ呼び方として永池と書く事にした。そんなわけでで権現社別名永池神社と永池とは、東西に約百八十メートル離れることになつた。ところでその埋立をした戸田氏は、多大の利益を得て家運は、いよいよ(記号)繁昌したが永続きはしなかつた。不運は廻つて来た、病人が絶えない、それに加へて畸形児が生れた、口の悪い人等は、『それ見たか、水神のたたりだ、河童の子が生れた』と云ふた。その小さい角池は世人に非常に恐れられて居つた。
明治三年頃であつた、愛吉といふ七八歳の腕白少年がその永池に魚釣に行つたが、その其日は魚は少しも釣れない、愛吉少年じれつたくなつて、大声で『河童来いツ。河童を釣つてやるぞ』と五六回も繰り返して云ふて居つた、すると、曳いたぞ!曳いたぞ!強く曳いたぞ!竿を取られては残念と愛吉少年は竿を懸命に持つてゐると、釣糸を手繰りつゝあがつて来たのは一疋の河童であった。続いて竿を手繰りて陸に上り来り、早速相撲を取つたが、勇敢なる愛吉少年が三度とも勝つて、凱歌をあげ、家に帰つたまではよかつたが、帰り着くと大熱でうわごとを云ふ『河童と相撲を取る』といふて狂ひ起きる、一時は大変であつたが神官の御祈祷で漸くをさまりました。それから新小路の人は一層強くあの角池を恐れて、明治三十年頃までは水神のゐることも信じて居つたが明治四十一年の、恒冨の耕地整理の時に全部埋立て、今はその恐ろしい永池も田地となつてしまいました、水神様はそれより余程以前に五ヶ瀬川の静かな清い所に河童供を引き連れて御転居せられたと聞きました。

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