日向灘の民俗
渡辺一弘、平成11年(1999)、宮史連だより原稿
宮崎県総合博物館がリニューアルオープンして約一年が経つ。客数も落ち着いてきて、今後、博物館が飽きられないためには、魅力的な企画展とよりよい常設展示への更新が求められてこよう。民俗展示でいえば、まず、国指定の重要無形民俗文化財『日向の山村生産用具』のさらなる充実とこれらの民具から山の文化をとらえ直す作業であろう。また、大きく取り上げた神楽に関しては、最低でも宮崎県の神楽のデータベース化を急がなければならないだろう。この他あげればきりがないが、なかでも海の民俗の再発掘は急がれるべき課題である。
今回のリニューアルに際して、宮崎県の海の民俗展示は大きく進展したと言えるであろう。これまで宮崎県の民俗と言えば「狩猟」「焼畑」「神楽」に象徴される山村文化であった。これは柳田國男の『後狩詞記』の影響に寄るところであろうが、県外の研究者にとっては、偏ったテーマで宮崎県を調査することは何の問題もないが、県内の研究者はもっと宮崎県の民俗を全体的に眺める視野が求められてこよう。
これまで海の民俗に関しては、田中熊雄著『日向の漁撈と民俗』と沢武人・泉房子著「島野浦の歴史と民俗」(『宮崎県総合博物館研究資料(六)』)があげられるが、その後、海への関心は薄らいできている(研究史については拙稿「宮崎県沿岸部の漁法について」『地方史研究紀要二三』参照)。歴史分野でも同様に研究が遅れていた。
宮崎の「海の民俗」はこれまでほとんど注目されず、調査研究をはじめ、漁具収集も系統的にはほとんどなされてこなかった。そこで宮崎県総合博物館での二年間という短い期間内ではあるが宮崎県の海の民俗を再考する作業を始めることとなった。それは博物館の展示のためという意味だけではなく、民俗学において「日向灘」という海域の重要性を再確認する作業でもあった。
「日向灘」は、かつて赤江灘と呼ばれ、「一に玄界、二に遠江、三に日向の赤江灘」といわれた航海の難所であった。南北に長い海岸線の東に広がる海から様々な人や文化が入ってきたのである。北からは瀬戸内海などからの新しい文化が伝えられ、南からは黒潮にのって魚やそれを追ってやってくる漁民たちの文化がもたらされた。
宮崎県沿岸部の漁法の特徴については、一般に「県北の網漁、県南の釣り漁」といわれる。日豊海岸の入り組んだリアス式海岸を特徴とする県北の網漁は、近世期に紀州などの瀬戸内海で行われていた網を中心とした漁法が延岡藩領内へと導入されたことに端を発している。編集作業が進んでいる『北浦町史』の地道な研究によって、延岡藩の漁業史関係の資料が発掘されており、近世中期より紀州漁民が地曳網、サラシ網やマカセ網を伝えたとの記述がある。
「古江村の儀作方之間ニ者山稼ニ而致渡世来候処、最早山伐尽シ外ニ稼方無之至而及困窮候由、右ニ付紀州平左衛門と申者望茂有之付、地引網為仕立村方寄合ニ仕候得者村方潤ひニも相成候付、右地引網御免被成下候様仕度相願候旨」(「万覚書」明和八年九月二十一日)
こうした技術は近代にも引き継がれ、明治三十一年の「第二回水産博覧会」には、延岡市方財のシバリ網・タタキ網、北浦町市振のマカセ網・棒受網など県北の網を中心に出品されている(「宮崎県古公文書」)。こうした網漁文化は日高亀市が発明したブリ大敷(おおじき)網・大謀(だいぼう)網で頂点を向かえた。彼は延岡市赤水のブリ大尽と称されるほど全国に名声をとどろかせた。
一方、「南の釣り」は、カツオの一本釣りやマグロ延縄のイメージから来ている。近世期より飫肥藩の専売産物として鰹節が納められており、カツオは重要な産物であった。この他、黒潮に乗ってくる魚で庶民の味として親しまれてきたのがトビウオである。元禄年間に種子島から都井岬(串間市)に伝えられたというトビ網(トビウオ追い込み網漁)は昭和四十年頃まで続けられた漁法であった。
「本漁業の元祖は立宇津小網なり、元禄の交鹿児島県種子島に於ける同漁法を伝え之を改良したるものなりと宮之浦浜網も同年代の創設なりと伝うるも何れも確たる口碑なく、其如何なる人に依って創始せられたるか不明なり、次で立宇津大網、宮之浦在網、黒井網、今町金屋網等を見るに至れり、之旧藩時代に於ける制限網にして、之以上には 濫りに新設を許されず、迫、宮原網の起こりは明治の初年にして、廃藩後制限解禁後の設置なり。」(野辺幾衛編『都井村史』昭和五年)
トビ縄(トビウオ延縄)で漁獲されたものはマグロのえさになった。マグロ延縄の歴史は比較的新しく、明治三十六年、県水産試験場によって導入されたのがはじまりである。大正後期から昭和初期にかけてマグロ大漁により、それまであったカツオ加工業者がマグロを取り扱うようになり、カツオの水揚げは山川や枕崎が中心となった。
様々な生業の中で漁業ほどその技術進歩の早いものはない。魚がとれればすぐにその技術を導入するので、現在ではどの漁法がその地域の特徴かなどについて言及することが難しい状況である。できるだけ早く聞き取りや資史料をもとに漁法の変遷を研究する必要がある。
民俗学では民俗地図がよく使われる。さまざまな民俗事象について全国の分布を地図に表したものであるが、宮崎県のエリアは何の印もついてないことが多い。これは宮崎県の民俗研究が進んでいないからであるが、そこに文化が存在しないと見なされかねない。例えば、沖縄の糸満漁民の進出先や海女・海士の分布地図では宮崎県に印はない。
しかし実際には、糸満漁民の足跡は、十人以上の潜り手を必要とする県北のハゲ網やエバ網の「イチョマン」という魚を脅す道具(サンゴの枝)などに見て取れるし、また、アワビやサザエは重宝され、それをとることを専業とする海士や海女は多く存在したし、現在でも素潜りは重要な漁法の一つである。
また、逆に本土の信仰が沖縄に伝えられたという側面もあった。「沖縄諸島の庶民に船霊の名称が伝えられた時期はほぼ明確に指摘できそうである。明治末年、宮崎県油津や鹿児島の枕崎方面を中心とする鰹漁船の船大工や関係者が、多数移住したのはその好一例である。そのころから本土の船霊信仰が名称とともに移入され、かなりことごとしい儀礼さえも行うようになっている。」(北見俊夫『日本海上交通史の研究』)
日向灘を行き来した漁師の足跡から文化の交流を研究することが、宮崎の民俗の空白を埋める大切な作業となる。急いで記録しなければすぐれた生活文化が無かったものとして忘れ去られてしまうものであり、こうした作業を博物館などの文化施設が主導権を持って取り組んで欲しいものである。
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