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佐礼に見る神楽の変遷(宮崎県諸塚村大字家代)

南川神楽では、現在、小払、中尾、梅の木、松原、佐礼の五集落において輪番で夜神楽を執行している。しかし、古くは各集落毎に神楽を行っていたとされる。ここでは『佐礼郷土史』を参考に佐礼神楽を例に神楽の変遷をみていく。
佐礼神社は、元は宮の谷にあったが、創建は不詳である。天明八年、文政四年、天保十六年、寛延三年の棟木が残されている。西南戦争の際に、西郷軍が神社、仏堂、茶堂などを手当たり次第に打ち壊すとの噂があり、板木谷と桑の木谷との間の宮の首に移したという。湯の戸川沿いの素晴らしい景観の元、奇形重なる岩石の下に雨雪を防ぐように稲荷正一位大椎稲荷が祀られている。明治四年に村人によって祀られ、祭りは年々盛んになり、春秋年二回の初午に他の集落からも参詣に多く来て、風変わりな稲荷神楽が舞われていた。
明治二十五年「御神楽大成就役割順番帳」と明治四十年「成就神楽舞入順番役割」に大神楽を行った記録があるが、明治四十年頃、家代の堀壮が村長時代に夜神楽廃止の指令を出したため、御神屋を建てての神楽がなくなったとも記されている。佐礼は椎茸がよく育つとの評判で、椎茸生産者による神社への参拝も多く、大正時代に村人が京都伏見稲荷大社で正一位の官職を得た。明治四十年頃の舞手は、松村甚一、松永平蔵、田原忠吉、甲斐理一、尾形政一であり、数年後、松村好、甲斐定一、甲斐康家が参加した。なかでも松村甚一は、小神楽以外は何でも上手に舞えるようになった。
神高屋を建てて舞う場合には、舞手が多く必要になるので、小払、中尾、松原、梅の木、内の口集落の上手な舞手が加勢に来てくれた。昭和初期の佐礼神楽の舞手は、松村勉弥、松村茂作、松崎泰吉、田丸実弥、松村藤吉、松村善治、松崎鶴吉、松村富吉、田原新吉、村永和七、田原嘉平、松村仁太郎(森のみ舞った)であった。
当時は、医者も少なく、乗り物もなく、道もない時代は、医者に行けないので、法者や神様を念ずる人に病気回復や健康を神様に願うことが多く、これを「願立て」といった。神楽においても、〆の願、お日待、神楽三番、神楽一番などで祈願した。一番大きな祈願方法は、「綱三笠」といい、容易には立てることはできなかった。不思議にも全快することが多く、全快すると願ほどきを行った。〆の願は、神高屋で〆を立てなければほどけない。「綱三笠」は、大成就といって神高屋に雲を吊り、綱とは大蛇、雄龍、雌龍が出ての三笠舞が出る大神楽で、佐礼では明治三十九年、日露戦争の戦勝祈願で、南川区での神楽があって以来行われていない。
昭和四十五年頃、南川の神楽も継続の危機に直面したが、昔のままの姿で残そうという決意を固め、熱心に練習し、難しいとされる「小神楽」も舞えるようになった。佐礼集落では、松村猛、尾形虎持が若手を引っ張った。戦後一時下火になりかけたことがあったが、熟練者や有志の復活の呼びかけに若者たちが立ち上がり、神楽愛好会が結成されて、五集落を中心とする神楽が形成された。昭和五十六年には、愛好会は発展的に解散し、南川神楽保存会が結成され、神楽が継承されることになった。平成十三年三月に集会所が建設された。平成十四年二月外市土曜・日曜の二日間、夜神楽が行われた(「小払地区伝統芸能伝承施設」『ことぶき』(二〇〇二年、三頁)。

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