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細島漁民の歴史

1、細島漁民の移住

★移住のはじまり
『本藩実録』には、細島の漁船の都農沖での密漁のことが記されている。■同年十二月、都農沖で密漁をしている細島漁船を発見し、地元漁船が近づき中止を求めたが、幕府代官所の許可印をもらっていると拒絶し、なおも漁を続けようとしたので、さらに、許可印を見せることを迫ると、持参していないことが判り、追い返した。ところが、翌日も密漁している。今度は釣具など箱一二個を取り上げて、追い返す。だが、細島には帰らず美々津に乗り入れて、道具を取り上げた証明をくれるよう、強く求めて来た。ことは複雑になったが、天領と藩の役人同士の話で何とか治まった。(『都農町史』)
 近世期から細島の漁師は、良い漁場を求めて積極的に船を出していたことが分かる。
 江戸時代、都農の海岸沿いの地区の人々の本業は農業であったが、地引網・建網など網漁を行う漁業も行っていた。そこに、明治維新の少し前一本釣の技術を持つ専業漁民が細島から移住して来た。この人たちは福原の海岸下浜に定住し、人数が増え地区を作って、明治の末にはすでに魚市場の実権を握るほどになる。その後、その人たちの子孫の手で都農の漁業のすべてが仕切られるようになった。
 本格的移住は、都農町部当緒方安兵衛の力により、慶応三年(一八六七)の細島漁民の移住から始まったという。明治元年(一八六八)高鍋藩提出の書類によると、毎年春、秋には細島・尾末(門川町)・外浦(南郷町)から多くの鰹船が来て漁をしているが、都農の漁民は道具を新規に買い与えても釣ることができない。一方、高鍋藩では鰹をよく食い、他藩から買ってもまだ足りない状態で、細島の漁民の高い釣り技術でカツオを漁獲するために移住をすすめたという。しかし、明治二十四年、緒方安平(安兵衛)が漁民の移住の功績で児湯郡長から表彰を受けた際には、移住目的はタイ釣りを盛んにするためであったと書いているという(県古文書「褒賞明治二五年」)。
 細島から移住が始まって、下浜地区の世帯数は増えて、明治二十四年に四〇数世帯、平成四年(一九九二) には二四七世帯となり、三日月原とともに町内での最大世帯数の地区となった。

★昭和における細島からの移住
 昭和四~五年頃、細島の漁師が移住してきた。黒川利助・一政万次郎・大橋庄市・橋本市次朗等であった。彼らの船は、三尋余りの小さな漁船だが、スイシ帆帆走で、強風の中にあって安心のできる帆走であった。当初、地元漁師はしばらくなじめず、いろいろ難点もあったが、一人二人と角帆を改造して、スイシ帆に仕立てるようになると、大変便利であり、次々に改造するものが多くなって、この安全性を見て、スイシ帆の漁船は増えてきた。この帆の形は、中央部に二本の竹製の桁を、表とウラに抱き合わせて固定し、上下に二ケ所に固定したもので、角帆のように小道具はいらない。この帆走によって漁獲が一段とたやすくなった。カツオ・ヨコワ・サワラ・サゴシなどのマギリ釣りには最適のものであった。この意味で移住民の漁獲が増え、地区外からの移住も増えた。
 一七~一八才の頃になると、三尋余りの漁船を建造し、または中古船を買い入れて、沖箱(釣道具入れ)とガエをもらって、独立自営するもので、当時は小学校を卒業し、二~三年父親より仕込まれ独立したものでああった。彼等若者たちは、小さいながらも船に一人乗りで、大灘(デナン)に乗り出して、黒潮本流付近まで出漁し、曵縄をさげて走る。カツオ・ヨコワ主体に釣っていた。
 強風下にあって、風波に高く荒れ狂う海上を、巧みに操業し、油断なく勇敢に頑張って働いたものである。スイシ帆帆走によって海難事故はなくなった。明治・大正・昭和(戦前)にかけて漁撈法の移り変わりは急速に変ってきた。(山本健治『都農の漁船の歴史』)

2、昭和初期の漁業

 昭和初期、細島の経済状態は一部木炭、椎茸類を扱う商家や海運間屋などが盛んであったが、ほとんどは漁師の水揚げが大きく町の経済を左右していた。大正二年頃、商業港として重要港湾に指定されたために、その頃の漁民の要望であった漁業の基地としての設備は何ら聞き入れられず、住民の上申は補償どころか一方的に決められていた。
明治から大正へかけての細島漁民の生活基盤としての漁業は、アマダイ、ニベ、カレイなどの高級魚の手釣り一本釣りに九〇パーセントは従事していたが、その後、底曳網に昼夜となく荒らされ放題で数隻しか操業していない。
 細島港の昭和六年頃の水揚高は一四万円、漁船一六〇隻、加工高二万五〇〇〇円、鰹六万尾、ハガツオ一万七〇〇〇尾、キハダマグロ三〇〇尾、カジキ二六〇尾、小シビ一万七〇〇〇尾、ブリ一万七〇〇〇尾、マンビキ八〇〇〇尾、フカ三〇〇尾、アジイカ三万三〇〇〇尾などと当時としては県北一の水揚げを誇っていた。
 重要商業港に指定されてから、岸壁や物揚場等に計画はあったが、財政事情により実現されず、しかし漁港としての機能も認められず、新産業都市に指定された後、はじめて漁船の船溜りが補償の肩代わりに築かれたのみであった。
 昭和二十六年、市政が敷かれて、漁業振興のため、市より一〇万円の補助を受け、中古大型帆船を購入し、築磯として設置していたが、それも現在では近隣の小型底曳船の操業に影響ありと横槍が入り、一本釣り業者のささやかな希望すら断たれている。
 昭和三十年から四十年にかけて東九州沖でアジの活餌で相当水揚げのあったマグロ延縄漁は、昭和四十八年のオイルショック頃からアジが釣れなくなり中断されていたが、その後、ヒラゴ鰯の豊漁で細島の青年が開発したナイロンマグロ縄で十年前以上に水揚げされた。従来のマグロ縄(綿糸のタール染)から一大変革をきたし、その優れた漁法は全国的に大きな反響を呼び、近くの漁業関係者は勿論、遠く和歌山、千葉方面からも視察が後を断たない。ナイロン製造の企業にもおおきなブームを呼んだ。
【写真1】細島港 富島漁協に水揚げされる。

3、伝統的な漁法

①近藤宗八さんの話
 近藤宗八(そうはち)さんは、大正八年に細島高々谷で生まれた。明治時代、高々谷・伊勢町・宮ノ上からは通浜に移住し、庄手向から下浜に細島の漁民は移住したので、近藤家は、通浜に親戚が多く、祝い事で行き来していたという。
 近藤さんは、尋常小学校を卒業してから漁の修業をした。まず、三丁櫓の帆船の櫓の扱い方を習った。波が高いときには櫓をこまめに扱わなければいけない。そうしないとハヤオが切れてしまう。櫓がくびってある(結んである)ところが切れたり、櫓が折れたりすることもあった。櫓はイチイガシを材に船大工に作ってもらった。帆は、スイシボとカクボを使い分けていた。最初は家にいても沖でゴーゴーと波の音がするだけで酔うものだったが、そのうち舟に乗っても櫓をこぐと酔いを忘れるようになった。戦前の漁は、帆船でのマンビキ(シイラ)・ドーマン(アマダイ)などの延縄が中心であった。
 父親は厳しくなかったが、漁については見様見真似で覚えた。海は恐くはなかったが、ある日、フカを捕っているときに、突然竜巻が起こり、やっと逃げ出したと思ったら、別な竜巻が追いかけてきたことがあった。言い伝えでは「竜巻は、雲の流れる方向に進むので、雲の流れと反対方向に逃げるとよい」と聞いていたが、年寄りの言うことも当たるのだとそのときに感じたという。風については、ハエカゼ(南風)、アラハエ(雨を含んだ風)、マジノカゼ(南風、ハエカゼと同じ?)、アオキタ(八月から十月の北風)、タカワタシ(鷹が渡る風。十月から十一月の北風)、ハマニシ(十一月頃西に吹く風)、タカマジ(南東風)などの呼び方があった。衣服は、戦前は刺し子でできたドンザを来ていた。寒いときには綿の入ったノノコを着ていた。服は母親が手縫いで作ってくれた。
 学校卒業後、二〇歳で徴兵検査を受け、二一歳で軍隊に入ったが、昭和二十年十二月二十八日に細島へ戻ってきた。戦後は電気チャッカーの船が普及し、父親と宗八さんと二人で舟に乗り、たまに舟を持たない人を乗せることもあった。船霊様は船大工が作り、ご神体も入れた。船降ろしの時には若いもんたちが飛び込むものだった。美々津では船に女性の名前を付けるのが普通だが、細島ではそういうことはなかった。宗八さんの帆船の時の船名は「光栄丸」、動力船は「八幡丸」であった。八幡丸は三、四回買い換えた。
 手釣りの一本釣りが多く、テグリエビ(手繰り網で捕る)を餌にしていたが、それ以前はイカを使っていた。クレモナの糸で、一〇~一三本くらいの枝縄を付け、道具を手作りした。曳縄では、シビ(キハダマグロ)、ヨコワ(本マグロの幼魚)、トンボ(ビンナガマグロ)、メシビ(メバチマグロ)・カツオ・マンビキを釣った。曳き縄の仕掛けはクダに鶏の羽根を付けたもので、クダに使う鹿や水牛の角は漁師にもらったり、購入したりして入手した。
 一〇人友達がいるとワケモンヤド(若者宿)を決めた。若者宿では「おまえ、どこの女が好きか?」と聞いて、友達が結婚の中継ぎをしていた。このことを「世話する」と言った。今の若い人は自分が結婚したら他の人は関係なしといった感じだが、ワケモンヤドでは「世話する」のが当たり前であった。昔は、稼ぎはいったん親に預けてから、小遣いをもらっていた。細島には西川・高塚という女郎屋があったが、そういう店には「そねがわりい人」が行くものだと言われていた。
 以下、漁についての言い伝えを列記する。オコゼを山の神という。角のある貝を玄関に下げて魔よけにしている人もいた。酢の物を漁には持っていかないものであった。細島では、水死体を見つけて喜ぶことはなく、平成に入ってから水死体を見つけたが、漁は良くならなかったし、奥さんが亡くなってしまったので、決して縁起のいいものではないという。エビスさんはトベ島に祀ってある。米ノ山に祀ってある稲荷さんの祭りを初午の日に行う。
(以上の近藤宗八さんの話は、平成十三年の筆者による聞き書きをもとにした。)
【写真2】富島漁協での水揚げの様子
【写真3】水揚げされたマグロ

②上村喜一さんの話
 もともと先代は石井家に生まれたが兵役除外のため、上村家へ養子縁組したという。昔はこの沿岸域に伊勢エビが多く、佐伯や蒲江あたりからエビ建て漁(伊勢エビ磯建網漁)に来ており、その漁が縁でここ細島に住み着いた人が多いという。この地域にはサザエも多かった。高さが一寸以上は採ることができない決まりがあり乱獲しなかった。昭和四~五年頃からナガレコ(トコブシともいう)が取れ、当時一日一円~二円とれば最高であったという。
 カツオ釣りには、四国の親方が台湾に製造場を持っていたので台湾付近まで行っていた。門川や土々呂や赤水などからも来ていた。船は長さ一五尋位で、焼き玉エンジンであった。六〇~八〇トンで五〇人乗り組んでいた。一日一万貫揚げると珍しく、親方がマンゴシ(万越)祝いをした。木綿の赤鉢巻きや浴衣で大賑わいをした。旧の三月頃から六月頃までの三か月位に四万~五万貫獲れた。当時月給が三三円で村長や町長なみの待遇だった。三三円のうちから小遣いを五円ずつ渡し、残りは親方が直接実家に送っていた。
 イワシに付いたカツオを釣りに行った。これは、鯨の動きに敏感なイワシが水面に上がりそれにカツオが付くもので、水面に上がったイワシを見つけた漁師は「エートコが上がった」と叫んでいた。ユラ縄(タラの様な体長一メートルくらいの深海魚で探さ二五〇~三〇〇メートル付近)釣りで獲れた小フカとともに塩漬けにし、旧の正月に田舎に売りに行った。そんな漁船は一〇艘程度しかいなかった。そして、田舎の小売人を泊めていた家もあった。
 マギリ漁(船を風に任せてギジ針を引っ張りながら釣る曳き縄漁)ではアジ・サバ・タイを釣る小船が多く、その新造船は、女、子どもを乗せて鵜戸さん参りしていた。大きい船になると四国の金毘羅さんへ参っていたが、数は少なかった。飛島のエビスさんの祭り(十日エビス)が旧暦二月十日にあり、漁師全員で船留めをして代表者がお参りしていたが、今は組合で行っている。
 一四歳頃の年寄りの服装は、六尺ベコ(フンドシ)が多く、盆と正月に新調していた。履物も今のように長靴などはなく、藁草履の下に自転車のタイヤを取り付けたものを上履きにしていた。蓑を着ていた人もいたが、手縫いのドンザをよく着ていた。
 旧六月十四~十六日に行われた祇園祭りでは、八幡区(西)と庄手向(東)が中心になり、漁師の担ぐ神輿が喧嘩をはじめ、夜になると太鼓台や商人までが東と西で喧嘩していた。三月、五月、九月の節句には必ず漁には出ずに祝いをした。一人が何拾銭か出しあい「ヒカリ」という賭け事をして酒を飲んだり、菓子を買って食べたりした。
 また当時は「若者宿」というのがありよく遊んでいた。一つの宿に五~六人いて、頭がおり決まりがあった。男女が好き合っても親が結婚を許さないときは、「ハシリ」といって若者たちが二人をかくまった。ザイの方(曾根あたり)へ間借りさせ、年少者が米や味噌を運んだ。いくらか包みをもって見舞いをしたり、励ましにいったりしながら仲介を作ってやったりして結婚へと導くものであった。
 幡浦あたりには船大工が多かった。新船は満潮に合わせて降ろすものであった。櫓が六丁も七丁もある大きな舟が多く、小さくても三丁くらいはあった。船降ろしの際には、七回右回りする習わしがあった。足の強さを図るため多勢が乗って揺らすものであった。船主とかその身内は捕まって海に投げ込まれるものであった。冬でもそんな習慣があった。船は四~五隻のマグロ船も出て二日ぐらい祝いをした。
(以上の上村喜一さんの話は、昭和六十一年の黒木和政氏による聞き書きをもとにした。)

③平坂徳治さんの話
★漁場
 大正初期には、米ノ山の稲荷神社の森から見下す太平洋の南下が細島漁民のいう「ウシロウラ」であり、高級魚の豊富な漁場で、港からわずか一〇~一五キロメートル辺りで、鯵・チダイ・マダイと手漕ぎの小舟で盛んに釣れていた。新緑の頃になると、マンビキ(シイラ)、カツオなどはそう遠くまで行かなくてもウシロウラの沖で釣れていたという。マンビキは季節の魚で、五~六月にかけてが、最盛期で、細島近郷の農家は梅雨に入ると田植となり、近所総出の労役のあとにはマンビキで豊作を祈念する。その行事にはなくてはならない魚であった。マンビキという名から、一粒万倍のひたむきな願いがこめられていた。
 大正五年頃、イルカの大群が、細島内港の番所ケ鼻から向かいにあった捕鯨会社のあたりまで二〇〇メートルくらいの長い列で、交互に白い飛沫をあげながら飛びあがり、畑浦の前浦の近くまで行く光景を見た。出る時はなぜか飛ばずに出た。あれは畑浦のお地蔵さん参りに来たのだと母がよく話してくれたのを今でもはっきり覚えている。今でも後裏の磯辺で時々見かけるけれど、港は船の出入りが多いせいかイルカのジャンプを見ることはできなくなった。
 現在、マグロ延縄が特に九州沖合の近海物として値段も良く盛んに漁獲されているが、この操業の先祖は、明治時代から宮崎県では細島の漁民と日南油津港の漁民だけで、何の設備もない帆船で、今でいう八~一〇トン前後の小型船で、磁石を頼りに沖合はるか一〇〇里以上の漁場で、旧正月明けから操業してビンチョウマグロなど、土佐の清水港に水揚げして、四、五日がかりで帰港したという話は、慶應元年生まれの父から聞かされていた。無謀というか何の計器もなく動力もなく、もちろん氷もない時代、ただ小さいウルメ鰯の塩辛のようにした餌で、一日二日操業して、トンボシビ二〇〇~三〇〇くらいを釣り、帰りはひたすら西のコース一点ばりで帰港していたという。
★カツオ一本釣りについて
 明治時代の細島漁民のカツオ釣りは、全長八尋(約一二メートル)くらいの船の胴の間に大きな樽を積み込み、海水を若者が交互にエナガ(柄長。大きな柄の長いヒシャク)で汲み入れて、底の方に水を流出させる穴を明けて、出す海水と一定の容積を保つようバランスを保ちながら海水を汲み入れる。小さなカタクチ鰯を傷まないように活かして、漁場に到着するまでは連続の汲入作業で大変な作業であった。カツオの群に出会えば、一人が樽の中の鰯を小さなエダマで撒き、他は全員釣り方で一生懸命釣り上げるが、一人は必ず餌樽の海水を汲み入れる作業を止めることはできなかった。
 カツオの群も喰いつきのよい時は、擬似餌つまりサビキではねられる(釣ることができる)が、喰いつきが悪くなるとカタクチ鰯を死なないように釣り針に刺し、水面に要領よく泳がしながら、それにケブラ竹という小さなシャモジに似た五尺(約一メートル五〇センチメートル)くらいの弾力のある小さな竹の先端に固定した物を右手で自分の刺して泳がせているエサの上に散水する。カツオが喰いついたら、素早く右手のケブラ竹も左手のカツオ竿と一緒に握りしめて釣り上げる。この難しい技術を訓練しなければ一人前の釣り手にはなれなかったという。
 明治中期頃、国内にはそうしたカツオ釣りをやる漁港が少なかったせいか、細島の優秀な青年が遠く奄美大島までカツオ釣りの指導に招かれたという。明治後半から大正にかけて木炭を燃料とした四サイクル発動機も普及してカツオ船も大型化し、餌樽も大きな造りつけの活槽となり、ケブラも散水ポンプに取って代わった。
 このカツオの習性は、今も昔もカツオの習性には変わりはない。雨の雫のように散水するのは、撒いた餌や釣り針に刺した餌が元気よくみえるのか、または光線に反射して数多くみえるのか、とにかく何かの故障で散水機が止まった場合、今まで盛んに喰いついていたカツオの群は、深く沈んで餌に見向きもしなくなる。
 明治後半から大正にかけて細島の仲買人は、それぞれ自宅にカツオ節製造の釜や節をならべて蒸すセイロ等が、設備されているのを通学の行き帰りによく見かけたものだった。
「目に青葉 山時鳥 初鰹」という句があるが、細島の沖では、黒潮に乗って北上したカツオは、旧二月十日のエビス祭りには水揚げされていたので、都井岬・細島沖・足摺岬・潮岬沖を北上するまでにはかなり日数にずれがあったと考えられる。つまり細島周辺の住民は、ほととぎすがなく以前から、風寒い頃カツオを賞味していた。
★四国とのつながり
 昭和十年頃までは、愛媛県(特に宇和島あたり)のカツオ船が細島を基地にしていた。大正時代になると日本の漁船もかなり発達し、愛媛県は特に先進県で動力船が多かった。細島では、日の出丸(島田松男さん)、黒木百蔵さん(黒木病院の先代)、きうん丸(黒木秋好さんの厳父)、の三艘くらいしか動力船はなかった.細島で最初に動力船を作ったのは日の出丸の先代児玉藤五郎さんで、当時三〇〇円かけて幡浦の小谷造船所で作った。
 四国の船は、木炭を燃料した四サイクルのガスエンジンで、「ガチャン、ガチャン、ガチャン」という爆発音を出していた。船内には、木炭を燃料にする釜があって機関士はたまにガスを吸い込んで昏睡状態になったといい、そんなときには酢を飲ませるとよかったらしく、船には必ず四、五本(升)の酢を積んでいた。そういう船が五杯も一〇杯も細島の港に来ていた。
 細島では、その頃焼き玉エンジンが流行り出して、日の出丸や果木百蔵さん(漁民を雇ってかつお釣りをしていた)が所有していた。
 このように、愛媛県を主として四国と細島との繋がりは深く、明治時代に細島では珍しい洋館建ての朝屋銀行を作ったのは宇和島の人で初代頭取(支店長)が同じ出身の伊藤定治氏の兄になる方だった。八坂区の大黒屋旅館の近くにあったが、後に日州銀行と合併し今の宮崎銀行となった。
★黒潮について
 黒潮は、時季によって大きく変わる。春には沿岸に近づき、秋口になると沖合に出ていく。潮の流れに沿って流して行く延縄漁をするとよく分かるという。累潮が沿岸につけたときで一番早いときは、三月から五月頃で一時間に三・五マイル(一マイル=約一・六〇九キロメートル)流れる。
 その時にカツオやキハダの大群がどっと北上してくる。魚群(回遊魚)というのは必ず陸上の農作物と同じように時季を頼りに北上してくる。麦の穂が熟れるころは、シイラ(ヒス)が北上し、カツオやキハダは三月頃北上する。八月頃になると、低気圧が発生しやすくなり(台風など)潮流も気圧の低いところに向けて行くので蛇行が多くなる。大きい低気圧とか台風が接近すると潮の流れが逆に行く、黒潮の本流は遠く陸岸から離れる。豊後水道は、大潮と小潮(満月と月のないとき)の変化か激しく、潮流が急に変わるので帆船なんかではよほど風が強くないと逆流されるので危険であった。それほど強い潮流で六マイル(一時間)の速さといわれている。油津の沖から東に出ると九州の山が三つ、飫肥と尾鈴と行縢の山しか見えない。大分の久住山などは見えないが、そのうちに霧島の山が見えてくる。種子島付近から鮪綱を流して上の方へ三・五キロメートルの潮に乗って行くと次第に飫肥の山から霧島が見えてくる。足摺岬に近くなるほど山が大きく開いて行く。それで潮の流れる様子が解る。
★通浜との関係
 明治末から大正頃になると一人乗りや親子乗り(二人乗り)の漁船が普及してきたので細島の沖合だけでは乱獲になってきた。当時、川南町から宮崎市の内海までの沖合に漁港はないが、魚が非常に豊富だった。それで細島の漁民は、通浜の沖合が凪の日に、近くの住民から船を引き上げてもらい(当時の通浜は砂浜だった)何日か漁をし、その魚を地元の人が担いで宮崎辺りまで売りに行った。鯛やチダイなどの高級魚がたくさん釣れるので、そこに居着いたという。そして、次第に親族を呼び移住が進められたので、通浜はみんな細島の親戚ばかりである。また細島は大分県蒲江町とも漁業のつながりで縁が深い。
★鯨
 明治末から大正の初め頃、向かいの幡浦に東洋捕鯨会社の解体所があった。当時で珍しいキャッチャーボートがノルウェーから来ていた。捕鯨の指導にきていたノルウェー人夫婦が私の家のすぐ裏に住んでいた。夜遅くなってボートが港に帰ってくるとき汽笛を鳴らしていた。汽笛の音が一つの時は鯨の捕れないとき、三つの時は捕れたときという信号があったという。ナガス鯨が多く、ボートで引っ張ってきたのを、昔は動力機械がなかったので、多くの人が手動で竹の棒を使って撒き揚げていた。それを解体士がきて大きなナギナタで瞬く間にさばいていた。その肉を子どもたちがもらっていた。豆腐やネギと一緒に炊いて食べさせてくれた「おふくろの味」は今でも忘れられない。解剖士は優しくて特に子どもにはいくらでもくれるものであった。
かつて、鳥の群れを目当てに鰹漁をしていたとき、約一五〇メートル前で跳梁した鯨を目撃、バアンと飛び上がった瞬間に鯨の下腹に鯱が食いついていたのが見えた。鯱が食いついたから鯨が飛び上がったのだろう。こんな光景は長い漁生活でもめったに出会わないもので写真機があればと思ったものだ。腹にぶら下がっていた鯱は大群で、鯨の十分の一ぐらいにしかみえなかったが、それでも三メートル程度の体長がある。そして食いついたら離れない。また、シビ縄船でシビ縄(マグロ延縄)を上げるとき、ヒレを立ててまるで帆掛け船のような形をして近付き、三日月型の紋様のある顔を向け横目で睨むようにして船の回りにやって来て、気持ちが悪かった。
 鯨には、鰹やキハダが付くものだった。昔、細島の沖にはカタクチイワシが多く、それを鰹と鯨が共同戦線でねらう。しかし、イワシが小さくて散るので鯨は食いにくくなり、鰹の方が鯨に付いて動き、鯨の前に行ったり、後ろに行ったりする。それを狙って鯨を追って行く。鯨と船とが競争するような状態になる時があり、鯨がちょっと向きを変えたような隙を見て餌を撒くと鰹がたくさん釣れた。また、鯨が船の周辺を回り始めると、鰹の群れが外れないのでよく釣れた。鰹の大群がイワシを固めてしまう。するとイワシの大群が逃げ場を失い、背中をすりあわせながら水面が盛り上がるような状態になった。このような状況を漁師はエトコ(餌床)という。そんなとき三メートルくらいのタブ(杉の柄をつけた網)でそれをすくうといくらでも捕れた。こうして鰹が固めたイワシを鯨が下から大きな口を開けて一気に食べる。鯨のエラからイワシがぽろぽろと落ちるのは実に見事な光景であった。昭和四十四、五年頃にも秋口(十一、十二月)のシイラ漁で、そのエトコに鯨がきて船の近くでイワシを食って網の中から飛び出してきたことがあった。その時の鯨のしっぽの反動で船に水が入り込んで驚いたものであった。
★鰹節の出荷
 明治から大正時代にかけて、細島では鰹とマグロが代表的な魚だった。米ノ山の後方のウシロウラあたり(ビロウ島から飛島の沖一~二キロメートル)に鰹やキハダの大群がきていた。櫓こぎの船で行って一時間ほどで大漁になるほどだった。その頃には、細島に七~八軒の鰹節製造場があった。仲買人が買い上げた鰹を釜でゆで、燻して製造していたのだが、その風景をよく見かけていた。現在の細島保育所付近まで美々津や上方の帆前船が一杯並んでいた。大阪や四国方面との定期航路もあったし、そういった交流のなかで鰹節も取引されていたという。
★山の民との物々交換
 細島は昔から漁業の町だが、漁業者以外の約八割は加工した魚を諸塚村の山三ケや塚原あたりまで大八車に積んで行商していた。物々交換が主で、米や豆類はもちろん、木炭、椎茸、竹細工などいろんな物と交換していた。一週間ぐらいかけての泊まり込みの商いであった。商人の間では、そんな行商の経験がないと一人前と認められなかった。塩物の加工品が多かったが、特に5月の麦の穂の色づく頃、つまり田植えの時期が旬で、マンビキ(シイラ)は縁起がいいといって百姓に人気があった。秋のマンビキも美味い。塩焼き、フライ、生のすぬた(酢味噌)味も人気があった。
(以上の平坂徳治さんの話は、昭和六十三年の黒木和政氏による聞き書きをもとにした。)


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