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大人歌舞伎

以下に『日之影町史 民俗』の執筆分の草稿をアップする。

一、大人歌舞伎の歴史

 大人歌舞伎は、宗摂八幡様への奉納芸能であり、甲斐宗摂の霊を鎮めるために、集落をあげて行われるものである。そのため、宗摂が祀られた大人神社の例祭日に、昼は神社で神楽が奉納され、夜に舞台で歌舞伎が奉納されてきた。

★甲斐宗摂
 甲斐宗摂とは、三田井家の家臣で、天文二十四年(一五五五)熊本県御船在よりこの地に移住し、松の木・古園・大人・大楠・追川・小崎の各地を開拓した人物である。寛政十一年(一七九九)に記された『延陵世鑑』には、「家代邑(えしろむら)の給人(きゅうにん)甲斐宗説と云ふものあり。是は肥後国三船の城主甲斐宗運が孫なり。」ともある。高橋元種に内通し、三田井家を滅ぼしたとされるが、地元では現在でも尊崇されている人物なのである。当時の歴史的背景を説明する。

★宗摂と親武
 天正十五年、豊臣秀吉が島津氏を討った時、秀吉は九州の豪族配置に当たり、三田井家累代の所領を高橋元種氏に加封として与えた。三田井親武(越前守)は大いに怒り、この由緒深い高千穂郷を何の理由なく没収されることは不都合だというので天恵のの要害により頑として従わなかった。それより数年の間、七折村は名目は高橋領、事実は三田井領といった様な所轄不明の時代があった。ところが高橋元種は虎の威を籍って、文禄元年九月、高千穂征伐の兵を挙げたが、名に負う天嶮の高千穂峡。東部の一角すら、容易にこれを陥ることはできなかった。
 高橋元種は業を煮やし、一策を弄して、三田井家の家老岩井川領主(中崎城主)甲斐宗摂を欺きて「主家を討たば汝を高千穂に封じよう。そうしなければ汝の所領岩井川の良民を屠る」と詰策した。宗摂は、主家を討つことの非はよく知っていたが、領民を兵才に苦しめるに忍びなく、遂に元種の言に迷わされて、九月二十七日、向山の本城に忍び入り、親武の寝入ったのを刺しその首を持って、城に火を放って退いた。
 元種は、翌二十九日、宮水で親武公の首実見をやり、宗摂に対しては前言を翻して「主人を殺した大罪人」として攻め討った。宗摂は遂に進退窮して、鶴の平の彼岸、岩井川と高千穂の堺(五ヶ瀬川と向山川の落合)の所で自殺した。かくて親武公の首級は現在の宮水神社の境内に葬られた。明治四年十二月宮還によって、袴谷の北山大明神を合祀し同時に宮水神社と改称したが土民は通称「親武どん」と呼び習わしている。(『七折村郷土誌』)
 土地の人々にとっては、それまで宗摂が行った数々の善行に感謝もしていたし、それ以上に不遇の死を遂げた宗摂の霊が祟らないように、御霊を鎮める必要があった。そこで、文禄四年(一五九五)甲斐宗摂を宗摂八幡として祭ったようである。

★猪掛け祭りの由緒
 宗摂が行った善行のなかでも最も有名なエピソードは、当時行われていた鬼八鎮めの人身御供の風習を止めさせ、猪を奉納することに替えたという話である。
  鬼八は走建ともいい、この地の夷族の首魁であった。山川を疾走登捗し、アララギの郷に拠って、良民を苦しめていた。そこで、御毛入沼命が誅戮した。命が日之影まで来たとき、鬼八は俄に大雨を降らせ川水を増させて、進路をたとうとしたので、命は空を仰いで祈った.すると、雨がやみ、川水も減った。それから日の影という。鬼八は死後鬼八申霜官として祀られた。その祭を鬼祭といい、十三歳以下の女子を鬼八塚の前に七尺の棚をかけて供えていた。人身御供となった女子は長生きできなかったという。どこからともなく飛んでくる白羽の矢でその女子を決めていたが、天正年中、岩井川中崎城主甲斐宗摂の娘に当った。宗摂はその時から娘の代わりに猪を供えるようにした。それで、岩井川村では猪狩りをし、十一月二十日に猪狩祭りをする。そして、十二月三日の鬼八祭りに三十二人の者が猪を供える習慣が明治初年頃まであった。人を猪に替えた代わりとして、祭りの当日には大人と小崎部落からは芝居を奉納し、松ノ木、追川などの他部落からはたいまつを供出したという。(『日之影町史』)
 その後、猪も年々その数が少なくなったときは、バンパ踊りにかえたといい、あるいは岩井川村の者と高千穂の者がケンカして、猪が奉納されなかったため、地元では大鯛に替えたところ、村では災難が続き、結局元通りに猪を奉納するようになったともいう(「甲斐重成家文書」)。

★鬼八伝説
 この猪掛け祭りを始めるきっかけになった伝説は鬼八伝説である。高千穂地方と阿蘇地方に二系統の伝説が存在するが、高千穂地方では鬼八に同情を寄せる人も多いという。その対応は、大人集落における宗摂への対応にも似たものがある。

  三毛入野命は天笠から鵜戸、富高を通り、五ヶ瀬川を上って高千穂に帰った。興呂木山の氏がお迎えし、四皇子峰で神楽をあげてお祓いをし、あららぎの里が宮居となった.二上山の千々窟に住む鬼八という鬼が山を下って、あららぎの里の鬼が窟に住んでいた.祖母岳明神の娘の稲穂姫に鵜ノ目姫という実しい娘がいた.鬼八はこの姫を嫁にほしいと言い、無理やり連れてきて鬼が窟に隠レていた・三毛入野命はこの姫の姿が水に映っているのを見た.問うと、「鵜ノ目姫、又の名を阿佐罹姫という。鬼八に連れてこられたので助けてほしい」と言う。そこで、命は鬼八を退治することにした。家来の田部左大臣、富高右大臣が四十四人の者を引き連れて千々窟を攻めた。鬼八は逃げ出し、二上山から横原、三ケ所の内のロ、諸塚大白山から飯干、堂山、米艮山、肥後の八代から阿蘇谷、川原を通って祖母山に隠れて思案の末、二上山に帰ろうと上野に出た所を、命が一太刀斬りつけた。鬼八は逃げ、ひさご淵を通って根引原に出た。大木を根こぎにして振り回し、七ツガ池を飛び越えたところ、玉垂滝の岩壁につき当った。そこを飛び上がり、松の原から一の祝子を通って浅ケ部に逃げた。命も後を追って、神馬に乗って玉垂滝を馳せ上り、浅ケ部を一飛びして岩戸坂に行ったので、鬼八は再び一の祝子に後戻り、右大臣左大臣と取り組み合いになり、命に斬られてしまった。命は鬼八を埋めて八尺の石で押さえた。ところが、一夜で身体がもとのようにつながり、大声でうなり始めた。それで鬼八の体を三つに切って、頭を東光寺(仲組)、胴を一の祝子(神殿)、手足を尾羽根(花の木平)と、別々に埋めたところ、生き返らなかった。命は鵜ノ目姫を助け出し妃とした。ところが、その翌年から鬼八の霊が地下で目をさましてうなり、早霜を降らせて百姓を困らせた。そこで、毎年、祭壇を造って、いけにえをあげ、「しのめや、たんがん、サーリヤ誘う、的はヤー、立鼻笹栗」という鬼ねむらせ歌を笹の葉を振りながら七人の神楽舞いが七遍繰り返し四十九回歌うと鬼八は静まり、作物もできるようになったという。(中略)鬼を斬った所を鬼切畑、鬼八が大木を引き抜いたところを根引原という。鬼八を斬った刀を鬼切丸といい、十社大明神の宝物になったという。鬼八を埋めた所は、上日向の三田井と肥後の阿蘇と、下日向の三ケ所ともいう。(『高千穂町史』)

★大人神社
 大人神社は戦前は村社として祀られ、その祭礼の盛大なること近郷では有名であった。祭神は誉田別尊(応神天皇)である。
 文録四年一月(三九〇年前)延岡藩高橋氏によって攻められ自刃した甲斐宗摂の死に対し、土地の農民はなげき悲しみ、またその功績を讃えて大人神社に合祀し、毎年九月九日の例祭(現在は新の十月九日)にはバンパ踊りや供養踊りを奉納した。天明年間(一七八一~一七八九)に上方より歌舞伎を移入し、替わって奉納し、その霊を慰めたが、これが大人歌舞伎のはじまりと伝える。土地では宗摂の好きだった芝居に切りかえたともいうが、歌舞伎の歴史と符合しないようである。
 大人集落には、五つの組があり、毎年一組ずつ交替で歌舞伎を奉納し、他の四組は、その夜、終夜通して焚く松明を集め、午後八時頃から翌日の正午まで演じ続けられたという。明治四、五年頃までは、諸道具も完全に揃い、源平時代をそのまま再現していたが、その後廃れたという。

★芝居の舞台
 奉納場所は神社南側下段の広場に建てられた家屋で、舞台は石臼に四本の棒を着し場所切りかえの際は、四人の者が舞台下で押し回すという当時では非常に珍しい回り舞台を使っていたという。
 文政十二年(■)、岩井川村中村の甲斐定治というひいきの客より寄贈された水引や張り幕、のれんなどが残され、嘉永二年(■)には二見ケ浦の染抜の幕もできた。
 明治九年九月、舞台は岩井川小学校の枚舎になったので、例祭のある毎に仮舞台をかけて演じた。仮舞台は、神社横の境内の大木を中心に小屋がけ、材料は地区民によって集められ、舞台は上段下段とし左右に花道をつくり、見物席ほ一段と低い地面に設けてまわりは板で壁をし、みんなが思い思いにゴザやムシロをしきつめた。開演直前から正面には、中央、左右に松明をともして演出した。
 昼も祭礼も終わり、太鼓の音も絶えて村にも夜のとばりがおりる頃、稔りゆく穂の香りをのせて吹く初秋の風に心を弾ませ、留守番もおかず総出で神社の境内を目ざしてゆく、深々とした森の大木が、松明の光に照らし出されて、奉納芝居の当夜は表す言葉もない情景だったという。

二、歌舞伎の現在

★歌舞伎奉納の意味
 歌舞伎奉納の意味について、山口保明は次のように説明する。

 「最も根幹的な奉納の意味あいは、甲斐宗摂とその一族の「御霊鎮め」であったという。それは同時に、和魂(にぎたま)に昇華した神格に対する「神慮を慰める業(わざ)」であった。つまり、御霊信仰に派生した〈回向芝居〉の性格をもち、ムラびとと共に「一座」が奉仕する構図である。守屋毅氏のことばを借りると「村芝居になることによって、村落を母体とする芸能が本来的に演じなければならぬ役割を、好むと好まざるとにかかわらず付与されることになったのである。(「村芝居」)」(『宮崎日日新聞』平成七年五月一日)


 「ところで、わが国の集落ではムラの鎮守が村落共同体のコミュニケーションの要(かなめ)としての役割を果たし、文化発信の拠点であった。常に鎮守社の〈まつり〉こそは、その中心となっており、しかもそれはムラ最大の行事であり、厳粛にしてかつ楽しい日でもあった。さらに、〈まつり〉は、その語義の通りの〈食〉を伴い、暮らしと直結している点に特質がある。歌舞伎は、ここでは〈ムラ芝居〉〈地芝居〉といい換えてもよいが、ムラの年中行事の一つで、生産・労働の暮らしと表裏一体をなしており、先行芸能の神幸との共通性をも有する。大人歌舞伎も例外ではない。本来は旧暦九月九日、現在は新暦十月九日を当て、集落の鎮守大人神社に奉納してきた。〈奉納芸〉であるということは、在地の伝統的あるいは固有の信仰と結合し、習俗化してきたもので、単なる芸能性や娯楽性だけでは片づけられない。もちろん〈ムラ芝居〉というかたちで中央(上方)の文化を受容した庶民の意識にも十分注意を払う必要があろう。ただ、「大人座」の場合においても神事ー神楽ー直会ー三番叟ー歌舞伎と続く展開に、神事から余興へ移る過程のニュアンスを汲むことができよう。しっかりした「大人座」の継承を祈らずにはおれない。」(『宮崎日日新聞』平成七年四月二十四日)

★歌舞伎の復興
 文政・嘉永期に最も盛んだった大人歌舞伎も、明治四、五年頃に次第に廃れていった。明治の中期になって、費用その他の関係から一時中止して元のバンパ踊りを奉納したが、大正時代になって古老達の手で、再度芝居に切りかえられた。昭和になると歌舞伎のほかに新劇をも取り入れたが、第二次世界大戦後は米軍進駐軍の許可を得るために、刀を振り回す斬り合いや仇討ちの場面などは削除されたという。戦後、青年層の活動とマッチしないことなどから稽古する者が少なくなり、廃れるのではないかと心配された。
 しかし、昭和三十四年、古老たちが何とか残したいという熱意にほだされて、青年団支部(太田敏■支部長ほか二六人)が伝統を守ろうと話し合い、演劇部員が古老たちの指導を受けて九月二十日から毎晩稽古を始めた。日中の農作業に疲れも見せず稽古を積むうち、舞の筋も分かるようになり、浄瑠璃の中で歌われる「たちもぐそくもともしじない(太刀も具足も乏しい寺内)」などの昔の言葉と生活が分かるようになり熱が入ってきた。
 出し物は三番叟をはじめ、大功記・一の谷嫩軍記・神霊矢口の渡。これらを演じるのは青年団員の甲田実さん(二六歳)を年長に菊池武士君(一八歳)など、二〇歳前後の男子青年一〇人と甲斐今朝子さん(二〇歳)ら四人の女子で、これらの出演者は全員が歌舞伎を受け継いできた人たちだけという。(以上『宮崎日日新聞』昭和三十四年十月十二日)
 歌舞伎を舞う団体の名称は、時代により変わってきた。明治九年に劇団「大日止座」として発足した。後に「大人座」と改称する。さらに『大人公民館演芸部』から『大人歌舞伎保存会』になる。『大人の地芝居』と呼ばれていたものが『大人歌舞伎』と呼ぶようになったという。

★文化財指定
 貴重な伝統文化として日之影町教育委員会が平成三年九月末、町文化財専門委員会(西川功会長)に諮問、十月に「県内唯一、二百年近い伝統を持つ」などと答申。十一月十一日に指定した。町無形文化財としては、平成二年七月指定の「日之影神楽」に次いで二件目であった。そして、平成七年、宮崎県無形民俗文化財に指定された。

★文化財愛護少年団
 平成三年十二月二十三日に結成され、平成四年度から本格的に活動が開始された。地区の子どもたちは、五月二十日から毎晩大人公民館で練習を開始した。子どもたちはまず、「寿三番叟」を練習した。甲田琢磨さんがツケ打ちをしてリズムをとり、これに合わせて舞う。

★歌舞伎の現在
 宮崎県内では、〈舞台芸能〉の歌舞伎として代表格であった「佐土原座」は今はなくなってしまった。また、人形浄瑠璃でも福瀬(東郷町)・宮水(日之影町)が滅び、柚木野(高千穂町)も危うい。宮水と大人の両集落では、五ヶ瀬川を挟んで、語りくらべで喉を競ったともいう。
 大人地区は、歴史的・文化的に価値のある民俗芸能を、正しく後世に残し、後継者育成に勤めるとともに、伝統芸能を活かした「神楽の里づくり事業」に取り組んできた。この活動は「文化財愛護少年団の結成」や「保存会会員の増加」と成果が発揮されている。
 平成五年十月に本事業の拠点となる農村多目的研修施設「歌舞伎の館」も完成し、平成五年度宮崎県「二十一世紀の市町村づくり事業」の援助を受け、地区民、特に保存会会員の個人負担も軽くなった。

三、歴代の名優

 とにかく昔は今のように仕事も忙しくなく、テレビなどの娯楽もなく、車もなかった時代で、生活がのんびりしていた。昭和三十年代頃まではそういう時代であった。だから年に一度の祭りが近づくと、みんな昼間から集まって、芝居の稽古をするものだった。

★親子の役者
 中央の歌舞伎の世界と同じく、大人歌舞伎でも芸の伝承は世襲的に行われ、親子で芝居をする家が多かった。昭和三十四年に歌舞伎を復興した、青年団員の男子青年一〇人と四人の女子は、全員が歌舞伎を受け継いできた家の人たちだけだったという。なかでも名優を引き継いだ親子は次の方々であった。
  仁田野 甲斐新一(65歳昭17年没) 藤一(56歳昭31年没)
  東中  大村又一(75歳昭38年没) 春男(71歳平11年現)
  ■   馬場弥助(72歳昭38年没) 義明(65歳平11年現)
  下中  丹部寿雄(78歳昭50年没) 元徳(61歳昭61年没)
 馬場義明さんによると、「私が若い時には、義太夫は大村又一さん・甲斐新一さんと父がしていた。父は明治二十二年生まれで、一六歳から演技を始め、役者・義太夫・三味線までこなした。」という。馬場弥助さんの家は、芝居の稽古場となっていた。義明さんは父の義太夫を聞いて、他の役者の口跡を見て取って教えたりしていた。また、特に思い出に残る名場面として『鎌倉三代記』での時姫・甲斐新一、梶原平次影高・甲斐定男(54歳昭27年没)、影末・山室良一(99歳平10年没)、義太夫・三味線・馬場弥助があげられ、本場の役者も顔負けの演技で、本当に良かったと振り返る。この他、『奥州あだちが原』の庄屋・馬場弥助、『太功記』のそうぎ坊・森本竹七(68歳昭38年没)があげられ、竹七さんと良一さんの六方の振りはうまかったという。六方とは、「■」である。また、『一の谷嫩軍記 二段目 流しの枝』では、タゴ平役を大村又一・春男親子で受け継いでいた。

★甲斐新一・藤一親子
甲斐新一・藤一親子については、藤一の妹甲斐カンさんが語った。
 藤一は、尋常科を一三歳で卒業、農業を次ぎ、父新一から直接指導を受け、女形の第一人者になった。日常生活から女に成りきっていて、仕事をしながらもセリフの稽古や女の歩き方を練習していたという。藤一さんの娘・興梠今朝子さんよりも女らしいなどともいわれていたという。しかし、新一・藤一親子で、「大日止座」の役者とともに、他の村々を芝居して廻ることが多かったため、残された妻子が農業をせざるを得ない日が続くこともあったという。
 カンさんの記憶に残るのは、山室清松の女形がよく、悪役では宮本繁蔵(65歳昭和26年没)がはまり役であったという。繁蔵さんは悪がきいた演技で、とにかく見ている観客が憎くてたまらなかったといい、非常に怖かったともいう。繁蔵さんは常に鏡を見て悪役の練習をしていた。喘息の持病があり、発作がひどくなると「殺すなら早く殺せ」が口癖だったという。
 藤一さんの女形を受け継いだのが小林タツエさん(詳細不明)であった。婆役の新名亀太郎さん(80歳昭53年没)の他、『太功記二段』しのぶ役の丹部雅人さん(72歳)、『義経千本桜』の静御前役の甲斐誉富(73歳)などは今でも人々の目に焼き付いて離れないという。

★新名亀太郎
 亀太郎さん(80歳昭53年没)は、悲劇物が得意で、観客をとことん泣かせる演技をした。特に『太功記十段』のさつきや新劇『情けの捕縄』の母親役などで本領を発揮した。亀太郎さんとともに活躍したのは、女形の小林タツエさん、二枚目から義太夫まで幅広くこなす山室良一さん(県文化賞受賞)、大日止座から歌舞伎保存会を設立した甲斐勝さん(87歳昭58年没)、床山や着付けから役者までこなした甲斐アヤさん(75歳平8年没)らであった。特に勝さんは、妻のフジエさんといつも一緒で、新しいことに常に目を向けて歌舞伎の発展に寄与してきたという。

★丹部元徳
 丹部元徳さん(62歳昭61年没)は、大正十四年生まれで、一六歳の時に父寿雄さんと競演したのが初舞台であった。それからというもの、歌舞伎から新劇まであらゆる役を演じ、義太夫までをこなした。なかでも名演は、『太功記 十段』の明智光秀、『太功記 本能寺』の織田信長、『神霊矢口の渡し』の頓兵衛、『一の谷嫩軍記 二段目 流しの枝』の忠徳、『赤城の子守唄』の国定忠治などであった。

★甲斐春男
 甲斐春男さん(67歳平8年没)は、昭和五年生まれで、終戦後岐阜県から帰って大工を始める。一六歳で初舞台を踏む。指導者は、勝さん・良一さん・アヤさんであった。春男さんの「夏のぼた餅じゃねえけど、俺の命は明日までもてん。親のゆずりの立派なもの・・・」というセリフにほれて、奥様は結婚したという。なかでも名演は、『太功記 十段』の十次郎、『神霊矢口の渡し』の義峰、『義経千本桜 道行き』の狐忠信、『赤城の子守唄』の板割の浅太郎、『まぶたの母』の番場の忠太郎、『情けの捕縄』のすばしりの吉吾郎など多才であった。

★甲斐愛明
 甲斐愛明さんは、昭和二年生まれで、長男の戦死で次男だが家業の農業を次ぐ。初めから女形で、特に一八歳の娘が得意であった。長男が一歳六か月で病死したときの逸話がある。十月の祭りの夜のこと、前の晩から危篤状態であったが、家族が枕元につきっきりでも、愛明さんは舞台に立ち、時々家に帰りながら最後まで舞台を続けたという。どんなに辛かったことかと、地区の人は胸を打たれたという。
 甲田琢馬さんは、愛明さんの思い出として、「愛明さんが四〇歳の時、一八歳の娘の役をしたが、これが愛明さんかと疑いたくなるほど、美しい女性に変身していました。」といい、『一の谷嫩軍記 二段目 流しの枝』でのモジ平とタゴ平をやったことが忘れられないという。芸達者なうえ、食うか食われるかの演技の掛け合いで、張り合いがあったという。特にNHK福岡放送局から生放送であった『九州まわり舞台』やNHK東京からの生放送『芸能百選』などはいつまでも心に残る舞台であるという。
 なかでも名演は、『太功記 二段』の局、『太功記 十段』の初菊、『神霊矢口の渡し』のうてな、『義経千本桜 道行き』の静御前、『義経千本桜 茶見せ』の小仙などがあった。

四、上演された演題

 大人歌舞伎に関する台本は、歌舞伎台本・浄瑠璃稽古本・新劇台本など数多くが残されている。現在上演できるものは限られているが、これらの台本は、大人集落へどのように歌舞伎が移入されたかを解くカギとなる。なかには嘉永三年「奥州安達原」の台本など近世のものと思われるものもあるが、ほとんどが明治期以降のものがほとんどである。
 これまで上演されてきた演目と台本があるものを列記する。○は現在でも上演できる演目で、△は復活可能のものである。
○「寿三番叟」
○「壺坂霊験記」
 「神霊矢口の渡(渡し場の段)」
○「神霊矢口の渡(頓平やかたの段)」
 「絵本太功記 一段」
○「絵本太功記 二段(本能寺の段)」
 「絵本太功記 五段(局注進の段)」
○「絵本太功記 十段(尼ケ崎の段)」
○「義経千本桜(道行きの段)」    
△「義経千本桜(茶見世店の段)」
 「義経千本桜(鮨屋の段)」      
△「奥州安達原 二段」
 「一の谷嫩軍記(須磨の浦の段)」   
○「一の谷嫩軍記 二段(流の枝)」
△「源平布引滝」
 「上巻助六」
 「仙台萩■」
 「箱根権現いざりの仇討(いざり勝五郎)」
 「御所桜堀川夜討(弁慶上使の段)」  
 「佐倉義民伝」
 「三人吉三廓初買(一幕目)」  
 「箱根霊験■仇討」

「奥州あだちが原二段」はかつて上演されていたが、配役は不明である。「上巻助六」は昭和二十~四十年代まで多く上演された。
 新劇としては、「赤城の子守唄」「瞼の母」「情の捕縄」「うば捨山」「高田の馬場仇討」「他人の仇討伝八笠」が演じられてきたが、この他「三味線侍」「幸太郎旅帰」「親恋道中」「天下の意見番に意見する男」「旗本次男坊と辰五郎」「可愛い小鳥」「清水一家 尾張の桶」「父帰る」「木曽の別れ道」などの台本が残されている。また、新劇関係の芝居は、芝居役者が多かった頃は、台本無しに簡単な打ち合わせで、客を泣かせたり、笑わせたりする芝居ができていたという。県指定になってからは、それまで行ってきた新劇は止め、婦人部の演芸を披露するようになった。

<追記>

※ちなみに大人歌舞伎には関係ないが、狩猟に関する昔話をここで紹介する。

ツル・マンとオブチ・メブチ
日之影川の奥山に、ツルとマンという夫婦が猟で生計を支えていた。夫婦はオブチ・メブチという二匹の猟犬を頼っていた。ツルは獣を求め、マンは魚を求めた。心やさしい信心深いふたりである。
 ある日のこと、ツルは愛犬二匹を連れて、岩戸境の二つ嶽に行き、白熊を追い出して一の矢が命中。それでも白熊は平然として岩戸川を渡る。二の矢を放ったが倒れず、古祖母山(一六三三㍍)へ逃げ込んだ。オブチ・メブチは懸命に追う。もう日も傾いた。「二の矢まで射込んだのだから、大丈夫であろう。そのうち愛犬も戻ってくる」とツルはわが家へ急いだ。
 帰って今日の白熊猟の様子をマンに話すと「猟師が犬を山に置き去りにするとは情けない。いまごろ熊と必死に闘っているに違いない」とせめられ、ツルは急に心配になり、片足脚絆のまま、再び山に分け入った。愛犬の名を終夜呼びつづけたが、何の応答もない。とうとう、ツルは朝を迎えてしまった。ツルは白熊の血痕を辿って、古祖母山に登り、県境の尾根を下って、尾平越から本谷山(一六四二メートル)を通り、九折越から傾山(一六〇四メートル)を経て、大明神越を越した。なお辿って行くと、岩山の洞窟の中に、愛犬のあわれな姿をみとめた。白熊の首筋と胸にオブチ・メブチが咬みついたまま死んでいた。
 ツルは悲しみのあまり、オブチ・メブチの名を呼び続けて亡くなり、その魂は鳥となって昇天したという。現在、この洞窟は高野権現社となり、猟師は獲物運を願って、猪の下顎か鹿の角を奉納する習わしがある。
 今も祖母・傾山群には夜になると「オブチカン・メブチカン」と鳴く鳥がいて、その脚は一方が白、片方が黒で、ツルが愛犬を捜しに出た時の姿だという。

(『宮崎の自然と文化シリーズ 8宮崎の神話伝説』宮崎日日新聞、1989)

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