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泉毅一郎「神谷豪傑河童の夜襲に会ふ」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931)

滞政の終り頃に、新小路出口に神谷と云ふ豪傑がゐた、茄や瓜の初物を水神様に供へる習慣であつたのに、ある年の夏の初めに、この豪傑は何かご機嫌をそこねて、『ナーニ河童やひよすぼに、茄子や瓜の初物などやる輩■はいらぬ、秋になつたら末なりをやるわ』と大声で云ふて、初なりは自分で食ふてしまつた、その夜の事である、裏の畑で小供の騒ぐ声がする『何事ぞ』と、刀を取つて出て見ると目には見えぬが多数の小供の足音がして逃げて行つたので、帰つてゐるとまたまた(記号)、小供はやつて来て騒ぐ、又々、出掛けて追払ふ、逃げて行くから帰る、又来る、父追ふ、逃げる。そうする内に東が白む頃から漸く治まつたが、翌日、そこの茄子と瓜をしらべて見ると、一ツ残らず歯形が入ってゐる。
これには神谷豪傑も困つた。『腕づくなれば何程でも相手になるが、茄子の歯形には防ぎきれぬ』と我を折つてそれ以来初なりを供へる事にして、その翌年より漸く河童の歯形をのがれたとの話です。


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