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宮崎県人の県民性

『宮崎県史 別編 民俗』に引用された文献を紹介する。

日向 当国の風俗は、無躰無法の事のみ多く、只気の尖なるに任せて、己が理とみる時は、非と云ふ人ありといへども、曽て用ひず。只その理非は第二にして、その談ずる人と口論に及び、終に討ち果すの類なる風なり。誠に偏卑の浅ましき事、人倫の道理を知らざること、歎くべき所なり。唯死するを以て善とする事、危ふき風俗恐るべし。
按ずるに、当国の風土、海浜多く、又山中深き大国なり。尤も暖気多し。
             浅野建二校注『人国記・新人国記』岩波文庫)

 宮崎は躁欝質帯のうちでも、滋賀、大阪とならんで躁欝質の特徴がいちじるしい県であり、分裂質は少ない(分裂質では滋賀は全国最下位であるが、宮崎は下から二位、躁欝質では滋賀が一位、宮崎は三位)。躁欝質であり、いくぶん強気の要素もあるが、温和型であるため、積極的にがめつさを発揮せず、仕事に夢中になったりすることがない。現実に適応するという意味で合理的であり、また、都会的でないにもかかわらず軽快である。
 愛媛県の子規や虚子に相当する文人は、宮崎では旅と酒を愛した歌人、若山牧水であろう。彼には変人といったところがなかったし、その旅は放浪ではなかった。酒は酔い狂うために飲むよりも、気分と味を楽しんだ。「白たまの歯にしみとおる秋の夜の酒は静かにのむべかりけり」という有名な歌の示す通りである。
 子供時代に投書少年であった彼は、早稲田大学に入学して『新声』歌壇の選者をしていた尾上柴船を訪れる。こうして、きわめて順調に地位をきずき、自然主義の傾向を取入れた新しい風潮を歌壇にふきこんだ。
 二七、八歳のころには、躁欝質の人間に、ときにみられるように、気分の波が憂鬱に傾き、『死か芸術か』や『みなかみ』のような作品を生んだ。
 だが、中庸で、平静で、おおらかな作品であって、分裂質者にみられる鋭さや冷たさがない。自然主義的傾向といっても、分裂質の場合には悲愴であり、熱情的であり、また、極端に主観的であって主観を通した自然ではなかった。
 東北出身の分裂質の歌人、啄木、茂吉と比較すると、その印象のちがいが明らかになるであろう。
 二〇歳ごろには青春の喜びと悲しみを感傷的に歌っているが(『独り歌える』『別離』)、三〇歳の『砂丘』以後は、旅を中心に自然を歌い、淡々たる感情を表現している。
        (宮城音弥『日本人の性格─県民性と歴史的人物─』)

同じ九州でも、宮崎となると、他の諸県とはどうもいささか違うようだ。ここでは積極性とか熱情性といった面が姿を消してしまって、「消極性」という特質が、だれによってもかならず指摘されている。一方ではノンビリしているという特色もあるから、この点は長崎あたりに似てくるのだが、九州にしては珍しく「弱  気」とか「怠惰」などともいわれている。それというのも、長いこと隔離されて孤立し、文化的にも低いところにおかれていたからだと解釈されるが、文化的に遅れていても、東北のようにそれを気にして、劣等意識をもつことはないようである。
            (祖父江孝男『県民性─文化人類学的考察─』)

地勢的には単調であっても季節的には必ずしも単調ではない。台風常襲地帯で、六、七月より九月頃までは、大小の亜熱帯性低気圧が襲来し、強風、降雨をもたらす。迅風は病葉を飛ばすが、人びとの営々たる努力と成果をも一瞬にして水泡に帰する。人びとは、これを天の意図する宿命として、しばしばこの自然の猛威への対応を断念放棄する。対応を断念はするが、豪雨は山間の肥沃な土壌を洗い流し、流れきった沃土は沖積平野を再び沃土で覆い、豊沃なる農業地を再生し、種さえ蒔けば、高温多雨な風土はふたたび多種多量の農産物を恵む。自然の試練は、試練とならず、諦めと忍従、怠惰と投げやりに流れる。これにつづく自然の恵む復原は精励を必ずしも必要としないことを知るのである。このしたたかな宿命観を「日向的台風メンタリティー」という。「日向ぼけ」と評される所以である。   
                  (高松光彦『九州の精神的風土』)

「日向の国すなわち宮崎県でも、北部と南部、山地と海岸ではかならずしも同じではなく、だいたいにいって北部は豊後、西部は肥後、南部は薩摩の言葉の影響が大きく、諸県地方はおおむね鹿児島藩だったから薩摩とほとんど同じであるが、串間市のごときは鹿児島県に接していても高鍋藩だったから鹿児島の影響はほとんどない」「江戸時代中期(延享四年=一七四七年)に来県した延岡の内藤藩の家臣たちは、その前住地の磐城平(福島県)との関係が深く、日向では特殊な延岡の家中弁(かちゅうべん)をなしている」(石川恒太郎『日向の方言』)

よだき ①大儀だ。いやだ。したくない「こんげ暑いと何をすっともヨダキ」「使いに行くとがヨダキイもんじゃき宿題のなんのちゅうかり」全県的。
②いやな。困った。厄介な。「ヨダキイ奴ぢゃ」「ヨダキイ相手ぢゃ」日向地方。よだきごろ(怠け者。おっくうがりや)。よだきぼ(怠け者。無精者。)。よだつごろ(よだきがる者。怠け者)。
                (原田章之進編『宮崎県方言辞典』)

「よだき」という表現形式は、異質なるものとの対話と出会いの場である世間(そこは「する」論理がもっとも働かされなくてはならないところである)においては、用いることはできず、感情の自然主義が支配する内輪において用いられることが多いのである。「よだき」とは、子どもが、「いやいや」をする仕草と同じように、快・苦の原則に限りなく近い表現形式であって、むしろ、うめき声に近いのである。(中略)
人間のパーソナリティを表現するに際して、「よだき奴じゃ」というような用い方をする場合、その人間はつき合っていて、つき合いたくなくなるような人物であることを示そうとしている。そして、その表現は、相手の属性について直接特徴を指摘するというものではなく、あくまでも自分が持つ感情を言い表すことによって、間接的に相手のパーソナリティを表現しようとするものなのである。
もし、「よだき」という発語状況に似た状況がありながら、「よだき」という表現形式が与えられていないような社会では、「やりたくないね」とか、「いやだよ」という表現形式を用いることになるし、それではあまりにも拒絶反応が直接的すぎて、人間関係を損ないかねないだろう。その点では、宮崎県で「よだき」という表現形式が、人間関係の緩衡帯を用意しているといえるだろう。(中略)
(1)宮崎の気候風土は、二つの特色を持ち合わせている。即ち、「高温多雨晴」(南海型気候区)と「台風」といった「自然の実り」と「災害」と同時に有しているため、自然の「なる」論理に対して、人間の「する」論理は貧弱であったこと。
(2)「関西や関東」を中心とする歴史の過程の中で僻地(へきち)に位置し、運命づけられ、「社会に変化が、いつも外生的であったことも、「なる」論理の絶対的な優位性を生み出したといえる。そこでは、「する」論理  は成熟しないのである。こうして、何かをすることが「よだき」という基本パターンが成立する。
(3)藩政体制当時から不熟であった都市が、明治以降、支配都市として中央集権的な行政末端組織化してしまったことや都市の商工自営業主層が自生せずに、遍歴者(外来者)の土着によったため、局地的市場圏の成立をみないままに、全国的な市場圏に組み込まれたことは、「よだき」精神の突破口を覚醒させずにおわってしまった。(中略)
即ち「原則的には現状を否定し、不振と反撥をうちに秘める」換言すれば、「不振とあきらめを含んだアンビヴァレンスが『よだき』という精神的態度を形づくってきたのである」という見解に立っている。(中略)
こうした鬱屈した状況というのは、人間を不機嫌にせざるを得ない。それを回避するためには、常に何かを企てて自己実現を図るか、あるいは日常的な表現形式を確立するかいずれしかない。宮崎県民はその後者を選んだといえる。それがまた、宮崎の県民性を躁鬱気質の穏やかなものにつながってくるものである
      (小川全夫『よだきぼの世界─宮崎の社会学的プロフィール)

『全国県民意識調査』(NHK放送世論調査所編、昭和五十四年版、調査時期.昭和五十三年三月四~五日)

山口保明は、以下の文献に「宮崎県県民性診断図」を提示している。


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