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大井冷光「千人結び」

※冷光遺著刊行会『母のお伽噺』(大正10年11月発行、北隆館)。この話は、「だりやの巻」の「まへがき」に大正8年8月15日付けで著者の創作とある。旧漢字は新漢字に改め、旧かなはそのまま表記する。

千人結び

国境の峠は登りくだりが一里半づゝありました。八月の暑い焦げつくやうな日でした、山に茂る草といふ草は葛の葉も虎杖も、それから薊の茎までがだらりと萎れてをる頃に、旅の人はこの峠を越えました。

汗をしぼつて喘ぎ喘ぎやつと山の向うの麓まで着きますと、旅の人はその村はずれの古い茶店の椽(えん)先きにぐつたり腰を下ろしました。

するとそこへ甲斐甲斐しい姿をしてあらはれた茶店の少女、その名をおゆきといひましたが、すぐ前にある古井戸で、太い濡れた鶴瓶縄をカラカラとたぐつて水を汲み、それをギヤマンのコツプに盛つて旅の人にすゝめました。

その古井戸、青い苔のついた石で四角に囲つた大きな古井戸にはまことに悲しい物語をたゝへてをるのでありました。

おゆきの家の隣の、お松婆さんには庄吉といふ息子がありました。庄吉は婆さんが四十過ぎてから持つた一人息子でしたから、まるで眼のない可愛がり方でした、ことに十年前に夫の庄兵衛が亡くなツてから、婆さんの子煩悩は一層増しました。

処がその庄吉がこの十八軒しかない小村から、たツた一人の軍人となツて、城下の歩兵連隊へ入ることになりました。それは日露の戦争の始まらぬ一年前のことでしたが、村一番の男の名誉とほめられ、幟をたてて送られた時は、婆さんはさすがに愚痴をこぼしませんでした。

「庄吉や、お前は氏神様からの授かり子だぞ、お上のために御奉公ができるのは、芽出度いことぢや、お前の御奉公が私までの奉公となるのぢや、人様のおツしやることはよくきいてな、精出して勲章を貰ふぢやぞ」

その庄吉は連隊ではよく働きました、二年目には中隊の模範兵となり、上等兵候補者にあげられました。その中(うち)に日本と露西亜との戦争が始まり、庄吉は俄に旅順へ向はせられることになりました。

愈(いよいよ)出発といふ時に、小村の区長や大村の村長様がお松婆さんに旅費をやるから連隊へ会ひにいつたがよからう、と勧めましたが、婆さんはどうしても聞き入れませんでした。

「あの子はおかみに差し上げたものでございます、わたしがいツて涙を見せたら、あの子の気が挫(くだ)けて未練をのこすかも知れません、わたしや会ひたくても我慢をします」といふのでありました。

おゆきは小さな時からお松婆さんのところへよく遊びにいきました。ことに庄吉が留守になつてから、あけくれ婆さんの家にゐて、手伝ひをするのをよろこびました。

するとある日、それは旅順で第一回の総攻撃がすんだといふ時でした、婆さんは村役場へいツて戦争の模様をきゝました。しかし息子の消息についてはどんなこともきくことが出来ませんでした。

その帰り途に婆さんは隣り村の荒物屋へ寄ツて、白い木綿の巾(きれ)と赤い糸を一杷買つてかへりました。

帰るとその巾を二ツに折ツて、その端をくけました、そして自分で一針かゞツて赤い糸を結ぶと、ブツリと切ツて、今度はおゆきにそれをわたしました。

「ゆき坊、お前も縫ツて結んでおくれ」

おゆきはいはれて同じやうに一針ぬツてから結んで切ツたが、こんなものを婆さんは何に使ふのだらう、と思ふとふしぎでなりませんでした。そこでその訳をたづねますと、婆さんは、

「これかえ、これで千人結びの胴巻をこしらへるのぢや、女房衆千人の手で一針づゝ結んで貰ツた胴巻は、庄吉の弾丸除けのお護になるからのう」と答へました。

「あらさう、そんならあたしにもう一度結はしてよ、今度は庄ちやんのお護りになるようにようよう(記号)念じて結ぶからね」

「いやそりや駄目ぢや、一針縫つたらもういゝのぢや、ゆき坊、お前は留守番をしておくれ、わたしやこれから村の女房衆に一針づゝ頼んで来るから・・・」

さういつてお松婆さんは庄吉が拾つて来て育てたあかといふ犬をつれて出かけました。それは十八軒の家を家並みに訪ねて、女の人から一針づゝ胴巻を縫つても貰ふためでした。

行く先々で婆さんはいつもかういひました。

「私や庄吉の死ぬのがいやぢやといふ訳ぢやございません、どうせおかみにさし上げた命だから、死んで呉れたとて決して怨みはしませんが、しかし折角村の衆から幟を立てておくられたものが、功名一つせぬ内に鉄砲玉を喰つてしまふやうでは、私の承知が出来ません。どうあつてもあれが勲章を貰ふまでは死んで貰ひたくないのでございます」

村を一巡りしても婆さんの胴巻は、百針にも及びませんでした。そこで次ぎの日は隣村へいきました。その次ぎの日はまたその隣村へいきました。それから小学校の少女たちに結んで貰つたり、またある日はお寺で説教を聴きに集まる女房達を、山門に待ちうけて結んで貰つたりいま(ママ)しました。

しかし、何分にも人家の少い山里です、千人の女の手を借るには容易なことではありません。お松婆さんは八月の炎天の日を七日まで歩きはるうちにとうとう日射病に罹つてしまいました、夕方おゆきが食事の支度してから庭先きを掃いてをるところへよろよろと杖にすがつて帰つて来たお松婆さんは、椽(えん)先きに腰を下すと、ぐつたりと倒れました。赤犬(あか)は悲しく吠えました。おゆきはびつくりして自分の母を呼びました、母が駆けつけて来て気つけ薬をのませたり冷たい水で顔を冷やしたりしたのでやつと正気着きましたが、その時婆さんは手に持つた胴巻の巾をながめながら、

「おかみさん、これが出来上らないうちはわたしア死なれぬ、石にかぢりついてもしなれませぬわい」と云つて泣きました。この日、婆さんは九百四十人まで結んで貰つてかへつたのでした。

卒倒してからお松婆さんの元気は頓(には)かに衰へました、それを無理して遠いところへ出かけたなら、途中でまた倒れるに定つて居ますおゆきやおゆきの親達もたいへんに心配をして、強ひて二三日休むことにさせました、すると婆さんは、「それではおゆきの家の前に立つて峠を通る女房衆に結んで貰はう」といひました。

おゆきはそれをきくと、

「そんならお婆さん、あたしが代りに人の通るのを待つてゐて結んで貰つて上げようか」といひましたが、婆さんは頭を振つて、

「そりやいけない、人に頼んでできた胴巻が何のお護りになるものぞ、わたしが直き直きに頼んだのでんけりや、何も役に立たないのぢや」といつてどうしてもその胴巻をおゆきに渡さうとはしませんでした。

お松婆さんは赤犬と一所に毎日おゆきの家の前に立つて峠を超す旅の人を待ってゐました。しかし峠の道は一日立つて待つてゐても女衆が一人か二人しか通らない道でありました。

一週間ばかりは直きには経ちましたが、婆さんの胴巻には二十人と貼りの数が増えませんでした。

婆さんは日に日に痩せました、赤犬も日に日に痩せて元気が無くなりました。

そのうちに土用の入りとなりました。

朝から焦げつくやうに照りつけるのに、お松婆さんは、何日(いつ)もの通り、おゆきの家の前へ来て、捨て石に腰を下しました。おゆきはそれを見ると、云つても無駄だとは知りながら、

「お婆さん、今日はまた暑いですよ、お椽(えん)側におかけなさいよ、此処にゐてもいくらでも通る人が見えますよ」といひました、すると婆さんはやつぱり、

「いんや、勿体ない、それでは功徳になりませぬ」

と答へるのでした。

やがてその日も昼餉がすんで、何処の家でも午睡をする時分となりました、午後二時すぎの日盛り、風がそよともありません。あたりはひつそりとして、油蝉ばかりがこげつくやうに鳴きます。おゆきの家では、家のものはみなやすんで居ました、唯おゆきばかりが婆さんの家のばかりが婆さんの家の見える裏の部屋でお草紙を切つて姉さまを拵へて居ました。すると不意に赤犬(あか)が峠の方へ吠えながら走るやうにきこえました。

おゆきは不思議に思つて戸外(おもて)へとび出しました、見るとお松婆さんも杖にすがつてよろけながら峠の方へ急いで行きます。

「あらツお婆さん、何処へ行くの」とおゆきは跣足のまゝその後から追ひかけました。

峠の道は両側の藪から草いきれがモヤモヤ(記号)と立つて、白い砂が眼をきらきらさせるばかり、人ツ子一人通りませんでした。

「お婆さん、何処へいくのよ」といふうちに先にかけてゐた赤犬が急に止まりました。

婆さんもぴつたり止まりました。

どちらもそのまゝキヨトリとした顔をしてゐます。

「お婆さん、どうしたの、何か見えて?」とおゆきは傍へいつて訊ねますと、婆さんは、自分の足元へキユンキユン鳴きながらまつはる赤犬を見て太い太い吐息を洩らしました。

「赤にも見えたのぢや、のう、おゆき坊、たつた今そこまで家(うち)の庄吉が帰つて来たぞよ」

「庄ちやんが?」とおゆきはギヨツとして眼を瞔(みは)りました。

「さうぢや、洋服を着て、勲章をさげて、暑さうな顔をしいて帰つて来たぞよ」

「そして何処へいつたの?」

「ついそこまで来たのぢやがな・・・ふいに消えてしまつた」といつて峠の方をじつと見るのでありました。

「お婆さん、そ、そんなことは気のせいだわ、屹度疲れてゐるから気のせいで見えたのだわ、さア帰りませうよ、家へ帰つて少し休みなさいな」

と、おゆきは袖を引いて無理矢理連れ帰らうとしましたが、もうその時は、婆さんの足はこはばつて動くことも出来ませんでした。

おゆきに負ぶさるやうにしてやつと椽先(えんさき)までかへるのでありました。

その夜、お松婆さんのところへ軍事電報が届きました、それは庄吉の名誉の戦死の報(しら)せでありました。

明けの朝、おゆきが前の井戸で水を汲まうとしますと、お松婆さんの亡骸がうかんでゐました。千人結び胴巻を持つたまゝのーーー。

後に遺された赤犬はいつまでも井戸の傍からはなれようとはせぬので、そのまゝおゆきが育てることにいたしました。

おゆきはそれから、庄吉や婆さんの回向のために茶店をひらいて峠を通る人々にこの婆さんの霊のこもつた井戸水を接待するやうになつたのだと申します。


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