南九州における民俗地図の可能性について
ここでは地方史研究協議会編(2010)『南九州の地域形成と境界性―都城からの歴史像 (地方史研究協議会第60回大会成果論集)』(雄山閣)の草稿をアップする。引用の際は、原本をご確認下さい。
※上記刊行本には、地図は掲載されていないが、ここでは便宜上、添付しておきます。
はじめに
「南九州の地域性と境界性」というテーマを前に、民俗学の視点から歴史学へその成果を生かせるものがないかを検討し、先ず思いついたのが民俗地図であった。南九州という地域は、民俗学における民俗地図という手法の重要性と可能性を示すことのできる格好のフィールドであり、地方史という視点で、民俗学と歴史学の接点を持ちうるテーマ性がある。
本稿では、民俗学における民俗地図についての整理と、南九州における民俗地図に関する研究を整理し、その可能性について論じていきたい。
一、民俗学における民俗地図について
柳田国男が『蝸牛考』(1)によって見出したのは、周圏説・周圏論という民俗学のための方法論であった。ナメクジ・カマキリ・スズメ・セキレイ・ホトトギス・イタドリ・ヨモギ・レンゲソウ・スミレ・タンポポなどといった様々な方言を調べたが、その中の「蝸牛」という言葉の方言が周圏分布を見せ、それによって周圏論・周圏説を発想した(2)。
倉田一郎や牧田茂らによって、「民俗周圏論」「文化周圏論」として積極的に取り上げられたが、あまりにその手法の使えない事例が多すぎるという理由から積極的に論じる研究者は極わずかとなった。
それは、一つの同心円からの波紋の広がりのみを強調しすぎたため、例外の事例が多く、基本的な手法としては認められなかったわけで、これをあくまでも一つの例、あるいは複合的に考える方法論を提示できていれば、民俗地図の活用ももう少し、活性化されたのではないかと考える。その一つの可能性が南九州という地域で実践されてきたことは後述するとおりである。
民俗周圏論が実際の民俗文化において一部の事例でしか証明できないということを結果的に可視的に証明してしまったのが、次に挙げる全国的な民俗地図であった。
昭和六十三年にかけて昭和三十七年(一九六二)~三十九年にかけて全国一三六六カ所の調査を元に、文化庁編の『日本民俗地図』(国土地理院)が昭和四十四年から逐次刊行され、昭和四十八年(一九七三)~五十八年にかけて行われた全国七一一四カ所の調査を元に、『都道府県別日本の民俗分布地図集成』(全13巻)が刊行された。
宮崎県を例に取ると、『宮崎県民俗地図(宮崎県文化財調査報告書)』(昭和五十三年刊行)は、昭和五十一年度(一九七六)の一〇〇か所、翌年の五〇か所で行われた聞き取り調査(「宮崎県緊急民俗文化財分布調査」)を元に作成された民俗地図である。
『宮崎県民俗地図(宮崎県文化財調査報告書)』
この原資料は刊行されてはいないが、詳細な調査であるため、『宮崎県史 資料編 民俗1・2』では「民俗事象調査」として利用されている。原資料は、現在、宮崎県総合博物館が所蔵している。この調査は県下の民俗研究者・市町村文化財調査委員・小中学校教諭が当たり、話者には七〇歳以上の老人 を二名以上選んで行われた。地図は沢武人(宮崎県総合博物館学芸課長)・泉房子(同学芸員)・立元久夫(文化課主事)が作成した。地図の内容は信仰・衣食 住・農業・運搬・市・若者組・講・人生儀礼・年中行事など六一項目が取り上げられている。
これらの民俗地図は、地図だけでは利用が難しく、研究者によって利用される機会は少なく、前述の「民俗事象調査」のように、むしろその基礎資料を資料の方の利用価値が高かった。しかし、民俗地図の可能性は、おもに郷土史の民俗編で利用されることとなる。県史などで積極的に民俗地図を活用した倉石忠彦は、民俗地図の重要性について、『日本民俗大辞典』(平成十二年、吉川弘文館)の「民俗地図」の項目で次のように記している。
地図は地域差は時間差であるとする民俗文化の変遷に対する認識を、実際に視覚化して示すことができるものでもあった。さらに、地図を研究手段として用いると、地域的特性と関連させることができ、民俗事象を歴史的側面からだけではなく、地理的、自然的側面からも明らかにすることができ、よりその民俗事象の性格を理解することができる。つまり、基礎作業としての分布図から、地域・領域を示すもの、伝播経路を示すもの、時間的変遷を示すものなどの地図を作ることができ、それは研究成果を地図を用いて示したものということができる。かつて、関敬吾は「空間的・地域的形態の把握と、それぞれの民俗の発生・成長・死滅の頻度を叙述し、さらにそうした成果にもとづいてある場所と結合した理由を説明しうる可能性もある」といい民俗地図のもつ可能性に期待した。しかし民俗地図の活用についての検討は必ずしも十分に行われてきたわけではなく、今後に課題を残している。
倉石忠彦とともに日本民俗学における民俗地図の再考を実践している安室知は、『長野県史』での民俗地図の利用について、民俗事象が特定地域を形成する理由として、次の二点を挙げている(3)。
○地理的条件:自然条件が民俗を規制。積雪・雨量・気温・標高・植生・生態・河川・山岳などが影響。
○歴史的条件:政治・文化・経済などの影響を受け、交通・交易等による他地域の影響
そして、よりよい民俗地図の条件として次の四点を挙げている。
・同一の視点から分析でき、同等に扱える資料が対象地域を全体的にカバーできるほどあるか。
・地域的偏りが少ない
・名称呼称のみでは不十分。
・民俗地図は作成者の問題意識とつねに対応。
これらの条件は、南九州における民俗研究の蓄積からも可能であるといえよう。
宮田登は、民俗地図の活用を積極的に唱えた研究者の一人であり、民俗地図の可能性について次のように言及している。(4)
いくつかの文化要素をモザイク型に積み重ねながら、その歴史的な背景をみていかなければいけないということになる。民俗学の場合こうした民俗地図をたくさん数をつくって重ね合わせていき、少なくとも一〇以上の要素を重ねたときにはじめて何かをいえるのではないかという感じがするわけです。
編年という意味では、歴史学や考古学との連携によって、民俗地図の活用も図られるのが理想的であるが、民俗地図のみならず、民俗学の研究自体が歴史学や考古学との連携がうまくいっていないのが現状であろう。民俗学は文献に残されなかった人々の生活を追求しようとしてきたが、歴史学への資料活用としては問題が多い。原田信男は、民俗学の提示する資料の可能性について、「なによりも民俗資料の内実自体が、時代と社会によって変化する、という史料上の性格を熟知しておかなければならない。ところが一方で、より本質的な問題として、民俗学では時間軸の設定が難しく、時代的な変化を追求しにくい、という難点がある。」としながらも、「民俗学における時間の扱いは、きわめて厄介ではあるが、今後は文献史料や考古資料と組み合わせ、民俗学としての編年作業を地道に積み重ねていくことが必要である」と、民俗学の編年作業という点にその可能性を見出している。(5)
二、南九州における民俗地図研究について
南九州の民俗研究においては、下野敏見と小野重朗によって、積極的に民俗地図が利用されてきており、この二人の研究者の成果を中心に、南九州には、民俗地図についての研究成果が豊富である。
1、下野敏見の民俗地図
下野は、南九州から南西諸島にかけての民俗の差異を時間軸に置き換えられるという視点から、ヤマト文化圏と琉球文化圏の重なり具合で歴史的な時間をマクロ的に割り出そうとした。(6)
境界線の地域別変化は、その境界線の成立年代が非常に参考になるのであるが、この研究法は何も離島だけに限定されるものではなく、本土の藩境や県境などの場合にも、その入りまじった状況を慎重に比較するならば、相応の成果をあげるにちがいない。たとえば、薩摩に例をとると、石像タノカンサアや若者たちによる棒踊は、宮崎県南部の旧薩摩藩領にはあるが、熊本県の肥後領域にはもともとなかったけれども、明治以後薩摩から伝わり、しかも芸態は熊本風にガラッと変わった、という状況から、この二つの民俗は近世の薩摩藩成立後に薩摩でできたものであることが明らかになる。
と、南九州の地域差を時間差に当てはめる試みを提示した。また、南九州・屋久島・種子島・トカラ列島・奄美諸島・沖縄本島という階段状の地域的変化を民俗伝播の時代設定が可能とし、「南九州の民俗文化」を「近世(中・後期)のものが主流」などの基準を提示している。南九州を中央の視点からのみ見るのではなく、南の視点から見ることにより、南九州という地域の特色が違って見えることを証明しているといえよう。
また、下野敏見の視点で、南九州を見ると、ヤマト文化圏と琉球文化圏という二つの文化圏を想定した場合、南九州という地域は、二重の意味で文化圏の周縁部となる。この周縁部こそ、その地域の文化の特色を残していると言え、そのような意味でも南九州の民俗文化の研究の重要性が分かる。
前述の原田信男は、「ヤマト中心史観」を打破する必要性を説いている。(7)
残念ながら、われわれは無意識のうちに「日本」と「ヤマト」を混同しているが、律令国家を創り上げたヤマト政権の歴史と、列島社会の歴史とは別物であることを、明確に認識しておく必要がある。長い政治史の過程で、国家に絡め取られた人々や地域を含み、それらの立場を見据えた後者こそが、真の意味での日本の歴史なのである。それゆえ、われわれの内なるヤマト中心史観を自覚的に払拭し、列島の歴史に対する正確な認識を高めていかなければならない。
この視点からすれば、下野敏見が提起したヤマト文化圏と琉球文化圏という二つの文化圏の視点で日本を見るということの重要性が見えてくる。
また、南九州の研究の重要性については大林太良も指摘している。(8)
古代との関連において一つの興味深い問題は、古代におけるさまざまな種族群の分布が、それら特徴的な文化要素の残存を通じて、今日においてもとらえることはできないか、という問題である。この分野において研究が進んでいるのは、九州のなかでも一つの下位地域をなしている南九州である。ことに小野重朗や下野敏見の努力により、おそらく古代の隼人に遡ると思われる習俗や民具、そしてそれらの分布地域も明らかにされている。
ここに紹介されているように下野敏見と同様に南九州という地域に新たな視点を与えたのが小野重朗である。
2、小野重朗の民俗地図
下野敏見がマクロ的視点で南九州・南西諸島を見ようとしたのに対して、一方、小野重朗は、南九州を中心にミクロ的に見ようとした。鹿児島県内を中心に、カードによる綿密な民俗調査を行い、様々なテーマに関して、民俗地図を作成した。その地図は、鹿児島県にとどまらず、熊本県、宮崎県に及び、薩摩・大隅・日向にわたる文化の多様性を示しており、民俗地図についての論考も積極的に民俗学会に提示し続けた(9)
宮崎県に関する主な業績としては、様々な論文・報告書等があり、民俗地図が効果的に利用されている。『常民文化叢書8 十五夜綱引の研究』(慶友社、昭和四十七年)、「神楽の竜と綱引きの竜―竜神信仰の歩み」『隼人文化』第一七号(昭和六十一年)、「田の神舞の成立」『鹿児島民俗』九八号(平成二年)などで証明したことは、十五夜綱引や神楽を例にとり、南九州という地域区分を民俗地図により、文化の区分として提示したことであった。宮崎県日向市を流れる耳川以南、これが南九州の文化と南九州の領域を区分する地域であるとする。
その後、『宮崎県史』を通しての研究により、「九州民俗分岐線」と言うものを想定していたと、山口保明は記している。(10)
これらの成果は、「稲作と稲作儀礼」「畑作と畑作儀礼」『宮崎県史 資料編 民俗1』、「年中行事」『宮崎県史 資料編 民俗2』(宮崎県、平成六年)と『宮崎県史叢書 宮崎県年中行事集』(宮崎県、平成八年)にまとめている。
小野は、晩年、宮崎県史の参与として、宮崎調査に専念し、年中行事、農耕儀礼に関する多くの業績を積み重ねていたが、その研究も道半ば平成七年に逝去した。小野重朗が残した民俗地図は、南九州の民俗文化の地域性、境界性を見事に表すものであるが、一部のテーマをのぞいては鹿児島県の地図と宮崎県の地図を複合させることはなかった。南九州の民俗地図作成は残された課題といえよう。また小野は、民俗事象の新旧については論じるが、その歴史性には意識的に言及してこなかったが、晩年、小野は宮崎県内の若手の歴史研究者にその必要性を説いていたという。
三、宮崎県における民俗地図の利用
こうした小野重朗の民俗地図を発展させ、宮崎県内の神楽に応用したのが山口保明である。神楽を生業・地形・信仰などの様々な要素に分け、複数の地図を作製した。その境界は、鹿児島・宮崎・熊本の県域を越え、歴史性を説明しうる地図となっている。その成果は、『宮崎県史 資料編 民俗2』(宮崎県、平成六年)にまとめられ、後に『宮崎の神楽』(鉱脈社、平成十二年)として刊行された。
山口は、神楽を舞われる時間(昼/夜)、生業形態、信仰圏などから分類し、それぞれが複合的に組み合わさることを民俗地図を作成し見事に可視化したのである。
まず、神楽を「夜神楽」「半夜神楽」「昼神楽」という一日の時間単位で分け、また「冬神楽」と「春神楽」に分ける。
県中央部の田園地帯から県南部日南地方にかけましては、いわゆる〈春神楽〉の分布地帯であり、同時に県中央部から県北部のやや東部寄りには〈半夜神楽〉が行われ、沿岸部には豊漁祈願の〈漁神楽〉が分布しています。このような分布状況からみましても、それぞれの色分けができるし、自然環境(自然条件)との関わりにおいて神楽の性格・機能を規定することが可能です。(11)
生業形態からみた神楽圏図としては、焼畑・稲作・畑作・漁業というものが神楽という民俗芸能に如実に反映されることを示し、南九州の霧島を中心に据えると、神楽にも霧島信仰の影響を読み取ることができることを示した。また一方では、霧島信仰の広がりの内側に霧島神舞の圏があり、その北部には、さらに祖母山信仰・阿蘇山信仰の圏が交わってくると、神楽の分布図から神楽の成立過程を読み解いたのである。
四、南九州における民俗地図の可能性
ここまで民俗地図の可能性と、南九州における民俗地図の研究史を整理してきたが、最後に南九州における民俗地図の可能性について整理しておく。
民俗地図には、次の三つの可能性がある。
① 旧藩領領域図などとの比較により、その文化の成立時期が想定できる。
② 地理的条件との比較により、その文化の成立背景が想定できる
③ 歴史的事象との関連付けにより、その文化の成立背景が想定できる。
近年、日本民俗学会において民俗地図の再評価が行われつつあるが、これまで民俗地図の蓄積が残された地域は限られている。今後、小野重朗らが残した成果は、追跡調査できない歴史資料として利用される時代となり、南九州の民俗文化を理解する上で、これらの民俗資料を民俗学・歴史学・考古学間の連携によって、いかに共有していくかが大きな課題であろう。
鹿児島県の周縁部分に当たる宮崎県内の諸県地方は旧鹿児島藩領であり、その更に外縁部分は宮崎市を含む宮崎平野部へとつながっている。この宮崎平野部から日向市内を流れる耳川までに、広がる様々な文化がより古いかたちの文化の存在を示しているが、その一方、関西方面からの新しい文化の流入を示す地域でもある。こうした要素を地図上から腑分けし、古い文化を抽出する感覚が民俗地図作成には求められる。大変難しい作業ではあるが、その前段階として、南九州という文化圏を示す鹿児島県と宮崎県あるいは熊本県をつなぐ民俗地図の作成から始めるべきであろう。
南九州という地域の歴史性を歴史学・考古学・民俗学の領域で共有できる、可視化できる一つの方法として、民俗地図が利用できるのではないか。はたして耳川を境に存在する民俗文化の違いを時代の物差しとして使用することが可能かは、今後の大きな課題であるといえよう。
【註】
(1) 「蝸牛考」は、昭和二年に『人類学雑誌』第四二巻四号から七号にかけて分載され、昭和五年に刀江書院から単行本となり、昭和十八年(1943)に創元選書として刊行された。
(2) 柴田武「方言周圏論」大藤時彦編『講座 日本の民俗1 総論』有精堂、昭和五十三年
(3)『長野県史 民俗編 第五巻 総説Ⅱ さまざま暮らし』平成三年、長野県
(4)宮田登「民俗文化と地域差」(網野善彦・石井進・鈴木稔編『帝京大学山梨文化財研究所シンポジウム報告集 中世日本列島の地域性―考古学と中世研究六―』平成九年一月、名著出版)
(5)原田信男「ヤマト中心史観を超えて」『あらたな歴史へ いくつもの日本Ⅱ』平成十四年、岩波書店)
(6)下野敏見『ヤマト・琉球民俗の比較研究』法政大学出版局、平成元年
(7)前掲(5)
(8)『日本民俗文化大系 第一巻 風土と文化ー日本列島の位相―』小学館、昭和六十一年
(9)民俗地図についての論文には、主に以下のようなものがある。
「民俗調査の方法―民俗地図作成法をめぐって」『日本民俗学大系』十三、平凡社、昭和三十五年、
「民俗分布の同心圏構造について」『日本民俗学会報』三七号、昭和四十年、
「民俗地図の構造」『農耕儀礼の研究』弘文堂、昭和四十五年、
「民俗地図による地域研究」『日本民俗学』一二一号、昭和五十四年、
(10)「しおり」『宮崎県史叢書 宮崎県年中行事集』宮崎県、平成八年
(11)『宮崎の神楽』鉱脈社、平成十二年
※本稿では、南九州がテーマだったため、宮崎県の南の隣県、鹿児島県を中心に論じたが、九州全県での民俗地図が望まれるところである。神楽については、九州のネットワークができており、さらに小川直之により「神楽学」が提唱されているため、全国の神楽分布地図が作成されることと思う。神楽の分布のみならず、その系譜など様々なレイヤーで、神楽分析に民俗地図が活用されることを楽しみにしている。一つ例として、九州の田遊び分布地図を小野重朗が作成している。
神楽の分布が多い地域には、田遊びが少ないという指摘をしている。神楽が田遊びを吸収していったためではないかとの仮説を提示している。