楢木範行年譜16 『はやと』第1号 昭和12年4月15日
目次
柳田国男「鹿児島県と民俗研究」
鹿児島県は日本に於ける民俗研究の為に、極めて重要な地域であつて、我々は深い興味と関心とを抱いてゐる。
明治以前此地方が外部との交通に乏しく、外来者が少く、また最も封鎖的であつて、日本文化内に極めて独自性の強い一文化圏を形成してゐた。此所とかなり似た状況にあつたのは土佐であるが、薩隅は中央部を去る事遠く、警戒的には更に強く、然も領主は古く且つ統一結合力に優つて居り、文化の独立性が甚だしかつたのである。
封建時代に於ては、一般に城下町と其周囲の村落とが相互依存して生活の一単位であり、今日の都会と周囲農村との関係よりも遙かに独立性の強い社会を作つてゐた。そしてその典型ともいふべきものを、鹿児島と薩藩領内との関係に見ることが出来る。領内全土は政治上は勿論文化上にも此一点に従属して居た。鶴岡と其周囲の村々との関係も、かなりこれに似た条件にあつたが、それでも三山登山者は此城下を経ずして往来する場合が多かつた。
かくの如く独立性封鎖性の為に、辺鄙の土地でありんばがら、此領内には農以外の各種の生業が早くから発達し、各種の小規模の工芸があり、それが領内の需要を満たすために、独立の交易を生んで、その間いろいろの民間伝承を今に残して居る。そして其等の生産物が多く薩摩から大隅に向つて動いて居り、人々の移動も亦此方向に流れて居たことも見逃してはならない。
我々は薩隅を一単位として民俗の研究をする可能と必要を認めるものである。此地は謂はゞ日本の一縮図であり、日本民俗学の一つの実験台である。全日本を一単位とした民間伝承の綜合が次第に進み、その体系が樹立されつゝある今日、此方法を此一地域に適用してまた一つの体系に纏めあげる可能性が充分にあるといへやう。またかゝる努力と協働とは、一方日本民俗学を成長せしむる為に大きな役割を果すことになる。薩隅の同志者達は極めて恵まれた地位を占め、且つ其使命は重大であると言はなければならない。
なほ此地に関する古き文書は総統残されてゐる。然し例へば「薩藩旧伝集」や「倭文麻環」等にしても、主人公は士族であつて、常民の生活を語ることが乏しい。他国人の手になる「薩摩風土記」「西遊記」「西遊雑記」「笈埃随筆」等にしても、夫々の著の接触したる人間が文字を知る人間が多かつた為に、常民の生活を反映することが乏しい。今日旧来の民間伝承の多くが急速に消え失せつゝある時、鹿児島県の民俗研究の一日も早く進捗することを望むのは、独り我々のみではない。
有形文化の一つたる民具の蒐集も一手段として考へられるが、眼に見えぬ、形を後に残さぬ無形の文化の観察、採集、記述の重要性は一層大切である。此地に残る多くの不文の記録が、今日を逸しては、外より行く調査者には勿論、郷土の研究者達にも久遠に知る由の無くなる時が近いのである。
〔会員報告〕
宮武省三「鹿児島神宮の七つ祝ひ行事」
野間吉夫「煤の呪力」
楢木範行「十八度踊その他」
築地健吉「神事お田打」
内藤喬「硫黄島の民間薬」
岩倉市郎「南島のバーリ」
手簡「早川孝太郎」
〔小規〕
一 会名 鹿児島民俗研究会
二 組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること
三 会報「はやと」当分の間隔月に発行 会員には無料配布すること
四 本会会員の推薦による者
五 会費 (イ)普通会員拾五銭
(ロ)維持会員五拾銭
六 会合 毎月一回例会を開く
七 最初の世話人 左の通り
永井龍一(市)楢木範行(市)野間吉夫(市)築地謙吉(鹿吉田村本名)西郷晋二(薩上東郷村山田)
西郷晋次「田園の黄昏時」
宮田吉憲「永良部のハマウリ(浜下り)」
吉原静彦「臼オコシ」
橋口初枝「フハンヂチ」
〔共同課題〕水の行事伝承
町田二次「癩病の話」
〔編輯雑記〕野間吉夫
三月初号を出すことになつてゐたこの会報が、私の沖永良部島採のために、きょうまでのびのび(記号)になつてしまつた。又帰つて来ると、県の方へ調査復命書を提出したり、さては沖エ島■民具展会の準備やらで、それではくつても、私の身辺には今度大きな変動があつて、過ぐる二週間はまことにめぐるましひひとゝきであつた。といふわけで、貴重な玉稿を投恵下すつた諸先輩に対しては冷汗を禁ずることが出来ない。殊に柳田先生に対しては申訳ないと思つてゐる然しそれは次号で、名誉快復をさしていたくつもり。最後に今回使用したカツトに就て、前者は昨年末同志楢木氏と共同採集折喜入村瀬々串のむらの辻々で見かけたポツト(棒)で、後のものは会員築地氏の報告に見えてゐる木牛。共に私の採集手帳から。(野間生)
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