青島の藤井断食堂
以前、宮崎市青島の愛宕神社を調べていた際に、湯ノ山の存在を知った。その際に断食堂があったことを知った。
その中で、下記の情報があり、藤井捨吉、及び霊肉回生院について調べてみた。
大正3年頃、藤井拾吉翁が石井十次の勧めにより、キリスト教伝道の傍らこの湯を利用して病気治療を計画し、霊肉回生院という礼拝堂を兼ねた断食堂を建立した。断食治療は効果が著しく、東京、北海道からも治療に来たくらい有名であった。藤井夫妻物故により後継者もなく、いつとはなしに閉鎖されてしまった。
まずは、四方文吉『欽仰録』昭和12年に「藤井捨吉翁回心談」に記述がある。
藤井捨吉は、50歳過ぎてから心臓弁膜症に罹り、不治の宣告を受けた。山室救世軍大佐から贈られた米国の『ハスケル断食療法』を読み、大いに感ずるところがあった。そこで10日間余の断食を決行し、不治のはずの心臓弁膜症が一掃され、九死に一生を得た。また当時岡山孤児院長石井十次から「私は、孤児救済では相当に成功したが、世に沢山ある病人を救うことができずに死んでいくのは残念である。幸い君は僕の志を継いで、静かなことろに断食堂を建てて、悩める気の毒な人々を救ってくれ」と遺言されたという。それで断食堂建設を決意、多くの賛同者の後援によって、大正4年、宮崎市青島の湯の山に、「霊肉回生院」を設立した。爾来、入院者四百数十名に及び、多くの人々の肉体の病気を癒やし、心の病まで癒やし、真に霊肉を回生せしめたという。
そして著者である四方文吉が聞いた藤井捨吉の生涯について紹介されているが、ここでは割愛する。
もう一冊は、竹内増臣『霊肉の密着』(福音ルウテル教会、大正10年)である。
インターネットでは公開されていないので、複写で取り寄せた資料である。以下、上記と異なる部分があるので該当部分を引用するが、重複があることをご了承ください。
著者である竹内増臣が大正10年に霊肉回生院藤井断食堂へたどり着いた経緯を説明した後、その施設について紹介している。
断食堂の由来
宮崎県日向ノ国宮崎郡青島村大字折生迫、湯ノ山にあり、霊肉回生院藤井断食堂と称す。経営者は藤井捨吉氏と云ふ、本年七十二歳の老翁なり、氏は大阪の人で先年、心臓脂肪変性に罹り題字に至らんとするを、元の岡山孤児院長故石井十次氏に注意され、同氏は之を信ぜざりしも、猶石井氏の勧めに依って、菅之芳博士の診断を請ひたるに果して十次氏の鑑定を実にしたり、猶藤井氏は京都大学病院の診察を受けたるに、最早医術の救ふ可き途なし、只静にして死期を待つの外なしとの宣告を受けたり、仍て又石井氏に右の宣告を受けたる事を以てしたり、十次氏や嘗て数回、若くは十数回断食を以て種々の経験を有するが故に、藤井氏に対し二三週間の断食祈祷をなさば救はれんと告げしに、即ち捨吉氏はこれに従ひたりしが、初めは断食に堪ふる事能はず、僅かに四、五日にして廃止したるも、漸次修業の功を積み、遂に十五日間の断食を遂行したり、其の断食を始むる時の体量より一貫五百目を減ず、斯する事数回にして脂肪減耗し去り、全く危険状態を脱する事を得たりとて、感謝の情抑へ難く、先年石井十次氏存在中相謀り、前記の地に基督教主義の霊肉回生院と称する、断食祈祷場を建築するに到りしなり。
右土地は同県宮脇町の医師(元児湯郡高鍋町の人)綾部千平氏の所有地にして好意上、無料にて本堂の建築を許したるものなりと。堂は大なる八角堂で土間のまゝにして、隅々に粗末な椽台を数個並べ、其上に畳を一畳宛敷き、一室一人専用なり、夏季は常に七八名の断食祈祷者ありて狭隘を告ぐる事なり、断食堂拡張のため、同じ丘上で其所より二丁程隔たりたる所に最近女堂と云ふが増築されたり、これは名の如く婦人の断食堂にして、本堂は椽張で畳も敷きあり、綺麗な堂である。但婦人の修業者一人も無き時は、男子と謂も籠る事を得べしとの事、同所に鉱泉も湧出し、山海の眺望極めて佳なる人里離れし仙境なり。
思いがけず、青島湯ノ山の歴史の一端を知ることとなったが、岩切章太郎の観光開発の前に、県外からの様々なアプローチがあった一事例と言えよう。