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楢木範行年譜24 長男茂行の著書

楢木家には二度訪問し、茂行氏にお目にかかった。一度は、平成7年(1995)、写真を提供して貰うために初めて訪問した。その時には範行の妻美智子さんがご健在だったが、お話をうかがうことはできないまま、東京に就職してしまいご健在のうちに再訪することはできなかった。二度目は、平成16年(2004)、今後の資料集を想定して、葉書などの資料を熊本市の江口司さんにお願いして、スチール写真で撮影していただいた。その際に、御尊父である楢木範行について伺ったが、物心ついたときには亡くなっていたので、まわりの人たちから聞いた印象しかないとのことであった。

ここに紹介する長男茂行氏の著書『一人ひとりを伸ばす教育』は平成10年に刊行されていることから、一度目の訪問の後、茂行氏が退職されてからまとめた御著書である。おそらく二度目の訪問の際に、この御著書のこともうかがったのだと思うが、楢木範行や柳田国男の名が書かれていなかったことから、入手していなかったようである。
 ここで自らの生い立ちについて触れた箇所を引用する。

2 簡単な生いたち
私の父は当時、鹿児島の商船学校に国語の教師として勤務していましたので、結婚した両親は、鹿児島市に住んでいたのです。一九三八年(昭和十三)、当時の習慣に従い、母は実家に帰って私を出産しました。現在の宮崎県えびの市です。二月十九日でした。春休みになって二人を迎えにきた父は、四月一日、母の実家で急死したのです。母の兄と碁を打ちながら突然倒れたのだそうです。父が三十三歳の時です。

『一人ひとりを伸ばす教育』

「母の兄と碁を打ちながら突然倒れた」と、範行がなくなった状況が記されている。次に、父範行に対する気持ちを吐露している。

二十五歳の母は、乳飲み子の私と共に実家で暮らすことにしたのですが、一年後には、祖父母も前後して他界しました。私には、父についての記憶が全くありません。母や親戚の者が語ってくれることだけから、その人となりを思い描くだけでした。そんな私の中に、父の理想像ができていったのかも知れません。そのために、私は教師という仕事を選んだのだろうと思います。もし父が生きていたら、全く違った仕事を選んでいたかも知れないし、私の人生そのものも大きく違ったものになっていたことと思います。しかし、二つの人生を生きてみて、その一方を選んで生きなおすことなどできるものではありません。人間が生きる一つの人生が、その人にとってはただ一つの生き方であり、かけがえのない人生ともいえるものでしょう。 また、人間って不思議なものだと思えることは、自分の記憶の中にないことは、決して夢にもみることはできないということです。父の死後六十年にもなろうとしますが、父に関する夢は一度もみたことがありません。

『一人ひとりを伸ばす教育』

以下に範行亡き後の家族の暮らしぶりが記されている。

私達親子は、病気療養中の伯父、助産婦をしていた伯母、母の末娘の叔母と暮らしました。伯父は、二階の部屋を病室にしていましたので、四六時中顔を合わしているわけではありませんでしたが、厳しく躾けられた記憶があります。反対に、伯母はやさしすぎるくらいでした。(中略)でも、その伯父も、私が小学校に入る前の年に、そして小学校の一年の時には伯母が、相次いで他界しました。(中略) 母と叔母、私の三人の暮らしでしたが、母の実家には、戦前からかなりの田畑がありましたので、生活はわりと楽だったように記憶しています。敗戦と共に、朝鮮や満州に出ていた母の兄弟が、家族づれで引き揚げてきました。一時は、五世帯の二十人余りが一緒に生活した時期もありました。農地解放を機に、実家に残せるだけの田畑と山林を残してあとを分配し、それぞれ分家しました。私達母子も、若い叔母と三人で、少し離れたところに小さい家を建てて暮らすようになりました。小学五年になってすぐのころでした。(中略) 当時、中学校を卒業して高校に進学するのは、卒業生の一割足らずにすぎませんでした。私は、父が教師をしていて、しかも早くに死んでいましたので、私の中に父への憧れというか、父の理想像みたいなものが、おぼろげながら形成されてしまい、小さい頃から、教師になりたいという気持ちは変わることなく持ち続けていました。 戦時中は、学校で将来何になりたいか聞かれた時など、男の子は「兵隊さん」と答えるのが常識のようにされていましたが、私は「先生」と答えていました。それでも何も言われなかったのは、学校の教師も、子どもが大きくなったとき、「兵隊さん」を希望するように育てるのに必要な役割を持っていたからかも知れません。

『一人ひとりを伸ばす教育』

昭和31年1月、茂行の母、美智子さんは茂行の進学の相談を柳田国男宛てに手紙を送り、柳田から返事が来る。(根本的な話ではあるが、楢木家から柳田国男へ宛てた書簡は果たして遺されているのだろうか?文字の判明しない部分が多いが、後に修正していきます)

久しいこと御■もしませんでしたが、御子息も大きく御■なされ高等学校もいよいよ御終了のようでおめでたく存じます 是からどうしたらよいか母様としてさぞかし御迷った■思ひます 私ももう八十才を迎え世間もうとく■■  なりませんが、一ばんよいのは鹿児島又県内■宮崎の大学■是だと御母さんに折々逢ふことが出来てよいと思ひますが、貸費なりアルバイトなりが■られるかどうか少し気になります 幸ひに両方ともの大学に知つて居る先生がありますが、御希望なら聞いて見ましょう。カゴシマ大学は大山さん(1)、宮崎なら田中さんといふ教授(2)です。次に小林高校の先生に広島出の方が多いので、あの大学のよいことがわかって居るとすれば何か都合のよいことは無いか、是も藤原さんといふ国語の良い先生と知ってゐますから其方面に入るつもりなら何か安く■学する方法ハないかどうかきいてあげましょう 最後に東京の私立大学に入ることは考へものです 私も國學院には深い関係があるあるのでよく経験してゐますが、親を離れて働く学生になるのはよほど考へものです。成功した人は多分至って少なく、苦しいばかりでかわいさうでないかと思ひます。私以外に誰か親身になって相談に乗る人があればともかくも一人で出すのは考へものです この三つのうちではやはり近いところに入れてともかくも一人前になり、それから年月をかけて、やりたい学問をして行くのがよいのではないかと私ハ思ひます。この手紙を本人に見せてよく考へさせ それから恥かしがらずに自分で手紙を書いておくらすやうニ 本人に話して見て下さい。さうすればどんな息子だかが私にもわかります
 楢木みち子様        柳田国男

昭和31年1月11日書簡(柳田国男→楢木みち)

地元の国立大学への進学をすすめ、東京の大学、なかでも國學院大學の実情への不満が現れている。

 とにかく高校には進みましたが、大学入試に備えて勉強する気持ちなど全くありませんでした。霧島山系の登山を楽しんだり、白紫池でスケートを楽しんだり、青春を満喫するような高校生活を送りました。映画も好きでしたから、中間テストや期末テストで午前中で下校すると、午後は映画を見るために空いているのだとばかり、映画館に通ったものです。土曜や日曜にもよく映画に行きました。中学までは家の仕事もよくしていたのに、高校になると、殆どやらなくなったのでしょう。

『一人ひとりを伸ばす教育』

母や柳田の心配をよそに、本人はそれほど真剣に進学について考えていたわけではなかったことが分かる。

世の中、そんなに甘くはありません。大学入試にはみごとに失敗し、浪人することになりました。受験に行っていながら映画を見るぐらいですから、当然といえば当然でしょう。浪人生活の後半は、結婚して大阪に住んでいた従姉の家にやっかいになり、京都の予備校に通いました。しかし、その間もいいかげんな勉強だったと思います。(中略)

『一人ひとりを伸ばす教育』

茂行は受験に失敗したことを柳田へ報告したと思われ、柳田は葉書三枚に渡ってアドバイスしている。柳田としては、父楢木範行の意思を引き継ぎ、民俗学に興味を持っていると感じたのか、当時、鹿児島で高校教員をしていた北見俊夫を紹介しようと提案している。


御手紙拝見しました。少しの蹉跌ニ気を落さずしつかりとした足踏みで御進みなされた様子、何よりのことニ存じます 東京の様子をよく知らぬ為にいろいろの計画ハ無理でないが 現実の東京は最も不愉快な又君の為には悪い実状です 都内にうろうろする青年ハ皆迷ひ又無理をして居ます 此実状ハそうして君の目的を達するには不向きです

前の学校の先生にも相談し実力(○○)を養ふニ別の方法を考へられのがよいと思ひます自分の不得手と思ふ科目部分を根本的に力を付けるやうに努力するならば、万一又おくれても役に■ならぬと思ふから やはりそちらで力を養ふ方がよいと思ふ 人々の状況で遙々東京に来ても得る■所ハ少ないであらうその金があるなら十分の一位を費やしてほしい本を買いしづかにそちらで讀む方が力になると思ふ

今東京へ来たとても刺激ばかり強くて たゞ頭を混乱させるだけだと思ふから 自分ハ同意しない、現在ハ頭を休め心を養って最後の目的を目ざすのが大切だと思ふ、暗記ばかりに努力すべき時代でハ無いと思ひます、■■何かそれではすぬやうたったら何ら五月にハ鹿児島の高校の北見さんといふ人が来るから一度君に逢つてくれるやう頼んで置きましよう                         四月十八日

昭和31年4月19日(柳田国男→楢木茂行)


ですから、次の入試の時も、現役の時より学力が向上していたかどうかは大きな疑問と言えるでしょう。ただ、予備校のおかげで試験慣れしていたことと、もう一年浪人を続けて、これ以上母に苦労かけるわけにもいかないという気持ちが少しはありました。近頃の受験生にくらべると、なんとも優雅な受験生だったものだと思います。

『一人ひとりを伸ばす教育』

大暑中御様子如何 始終気にかゝりながら御無沙汰いたしをり候 茂行君ハ目下どういふ風に学問をつゝけをり候や 一度思ひ切って自分で手紙をくれるやう御伝へたまはり候度 自分ハ勿論藤原君とても是からなほ御相信有り    考へ可申候たゞ自分ハ投■年をとり疲れをり候  柳田國男 八月十四日

昭和31年8月15日(柳田国男→楢木みち)

8月、茂行のことが心配になった柳田はみち宛てに、大阪に住んでいる茂行から直接手紙をよこすように伝えている。これに対して素直に手紙を書いたようで、みちの住所へ茂行宛てに柳田は返事を書いている。

御手紙拝見候、君の周辺にはよき同情者がいくらもあって安心しました 但し健康には、どこ迄も注意しなければなりません 大阪(周辺)京都には同志者も多いから、今によい人を紹介しましよう
母君によろしく  柳田國男
八月弐十九日

昭和31年8月30日(柳田国男→楢木茂行)

そして、翌年の正月、茂行が年賀状を送ったのか、柳田は大阪に住む茂行に長い手紙を送っている。

御手紙をたまはり候に 二月も御返事延引相すまず候、其後風も引かず丈夫に御くらしなされ候哉、本年は多分家をはなれて始めての正月、此国の方でも母様御さびしいことゝ存候、しかし親を思ふの情は遠くに居て尤も身のしみ可申、必ず安心をなされるやうな手紙を御出しなさるべく候、大阪には私の親友にて君の父君も手紙にては親しく御付合ひなされし澤田四郎作さんといふ医学博士、一人息子が去年か大学を終り 若い人たちの心もちのよくわかる一家あり、それへ貴君を御紹介しておいたから正月中ニ一度御訪問なさるべく家ハ西成区玉出本通り一丁目十三、たしか南海電鉄の玉出といふ停車場を降りてすぐ近くかはずいぶん忙しい人なれば電話にて都合をきくもよし 又朝早くなら大抵さし支へなからうと存します 正月早々は二三日位旅行に行かれるともきゝ申候 是といふ相談は無くとも学校選定のことその他永いさきざきのことは 先生父子の経験を聴かせてもらひたまふべく候 それから又健康についても何か御尋ねあらは必ず親切に教へられることゝ存し申候  ます是から先々にも親しくしてもらうやうニこちらからもよく頼み置申候 先はこの事のミ、呉々■健康に注意したまふへ 以上草々
楢木君 同次           ○柳

昭和32年1月2日

大阪に住んでいるということもあり、澤田四郎作を紹介している。実際に澤田を尋ねたかは不明であるが、茂行は見事に奈良学芸大学に合格する。

 運よくという以外の何ものでもなく、奈良学芸大学(現在の教育大学)に合格できました。すべり止めに受けていた私立の入学手続きの締切の日に国立の発表があり、私立の入学金三万円も払わずにすみました。一応入学金の用意はしていましたが、払わないですんだ時は、前から欲しかった三千円の万年筆を買うことにしていました。でも、京都のデパートのショーケースの前まで行ったのですが、もったいなくてとうとう買えなかったことを覚えています。私の高校入学のときから、調理師の資格に挑戦し、病院や保育所を回りながら現金収入を得ていた母の苦労を考えたのでしょう。
 大学でも、卒業に必要な最低限の単位を取得しただけで、好きな部活や同人誌の発行など、青春を謳歌したと言えるでしょう。興味のある教授の講義は聞いても、必要のない単位取得のテストは受けませんでした。
 後にも先にも、勉強をがんばったと言えるのは、卒業を間近にひかえた卒業論文の製作の期間だけだったようです。これだけは代返もきかないし、全く手抜きすることはできませんでした。
 鹿児島方言における敬語を卒業論文のテーマに決めましたが、その資料を集めるため、膨大な蔵書を誇る天理図書館にせっせと通いました。

『一人ひとりを伸ばす教育』

卒論は、範行も調査した鹿児島方言についてであったが、その後、茂行は民俗学の研究は行うことはなかったようである。

これ以降、楢木家への柳田国男の書簡は遺されていない。
民俗関係者が楢木家に連絡を取り始めるのは『日本民俗文化体系』の編纂のため、最上孝敬と村田煕 が連絡を取っている。

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