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川上サチ神女(宮崎県高原町)

以前、紹介した宮永雄太郎の資料に、興味深い人物が紹介されていた。

『まじなひの研究 : 施術自在』に「川上サチ神女」が取りあげられている。

○川上サチ神女

高崎といふ村あり其所の社家の許に川上サチ子(鹿児島の生れにて父は医師なり)といふ其婦人寄寓して居られた

川上サチ子は、父が鹿児島出身の医師で、高崎(現都城市)に住む女性である。明治44年に刊行された著書に掲載されており、さらに既に亡くなられているので、江戸時代生まれの人物であろう。

或時サチ子大病に罹りて一命既に覚束なく、医師も匙を投げて此上は天運なり と言ひしを聞てサチ子は旅の空にて消ゆることの悲しさが 一層信念を強からしめて 心中深く霧島の大神を祈られて 不思議や其信仰を起せしより 日増しに病気快復した 

サチ子は是れ偏に大神の冥助なりと思ふものから 御礼参を思ひ立れた 寒中には昔より登山せし者無ればと 左右より止むるも彼時神若し時を移さば我命は無きものを其御礼参なれば 延ばしてよきものかと兼てより愛する犬あり それを伴ひて霧島山に向はれた 吹雪に空曇りて前後も分らず 一足でも誤らば千里ケ谷に落ちぬべきも 恐しと思ふ心は更に無く攀(よ)ぢ登りて 天之逆鉾の御前に至り予て心願せし如く 一七日が間断食して御礼拝を勤められた 

素より祠宇も無く木陰もないので 立てば風に吹飛ばさるべく坐れば雪に埋れて 時々噴火の音の物凄く 寸時も足を止むべくもないに サチ子は神を力の信念強くして心静かに籠られた 其真心に神も感動まし\/けん神憑りたまひて秘法を授けられた 犬は飢餓にゃ耐へ得ずして無くなりしが サチ子は気力少しも衰耗せず 勇み\/て下山し高崎へ帰られた 

此後も度々水行して登山し或時は一本歯の下駄で登り 或時は駆足にて僅かの時間に登るなど信仰修行せらるゝに従ひて 神懸自在の身となられたので 世に神女と称せられ オサチの神様と呼ばゝれ 其神術を請ふ者多くなつた 

乃ち神道本局の部下に属して各地に遊び吉凶を説きて神の教を宣べ 災厄を救ひて神の力を示された 固より目に一丁字の識あるでもないけれども 神懸あれば漢書を読み皇典を講じ 先輩の誤解を摘みて正解を付せらるゝなど 殆んど博士の談するが如しであつた 

教用の為め東京にも数度出でられたが 或年の出京中に鹿児島出身の或顕官の令嬢年十八歳なるが 神経病に罹り博士や学士の医療も寸効無くして 全く気抜となつて居るを 呪ひくれよとの依頼があつた 神女は其官邸に至り母なる人の切に頼める談の半に 此の御嬢なるかと云ふより早く 左手に其頭髪を掴み右拳を挙げて 二ツ三ツ打払はれモー是れで病は治りましたと云へば見るより此奴つ狼藉者と婢僕等迄も打寄つて 神女を捕伏せんと騒げるに 令嬢の奇病は全く癒えて本気本性となつて 私が命の親様を何んとすると押止めらるゝより 一同は驚いて感服し大に厚遇せられた それから顕官中にも其神術を請ふ者多く 勝伯の如きは度々神女を迎へて家の清めを行はれたといふ 

神女の墓は鹿児島にありて 諡号を櫛明玉真佐智比売命(くしあかりだままさちひめのみこと)といふ 此の神女の初め寄寓して居られた社家の子に大姶良栄(おおあいらさかえ)といふ人が今も居られる 此の人も神女の神術を学ばれたるにや霧島の大神を信仰して通■■■て居らるゝより 御神様と称して庶民の帰依厚しと聞く

「大姶良」という名前は、高原町に3件ほど電話帳で出てくる。今後、地元で聞き取りをして、追跡調査を行いたい。

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