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宮崎市青島の湯の山について

以前、青島の愛宕神社について書いた際に湯の山との関係について触れた。

後ほど『郷土誌 青島』(昭和45年)に「湯の山温泉」(p67~70)の項目を見つけたので、その情報を整理しておく。

湯の山温泉

・ここから湧き出る湯量は、日照りの時の方がかえって多くなるといわれている。
・下流域では、通称「田辺」では、この水が洗濯に大変適しているとのことで、雨上がりの日などは洗濯する主婦たちでにぎわっていた。泉質が軟水のためと思われる。

この冷泉について『日向地誌』「折生迫村」に「冷泉」の項が立てられ、次のように説明されている

冷泉 本村市街ヨリ西ニ離ル七八町字轟ト云所ニアリ泉質硫黄瘡疾痍ニ宜シ初メ土人其緑白色アルヲ見テ其常泉ニ非ルヲ知リ燂(わか)シテ浴シケルニ能ク疥癬ノ類ヲ治ス故ニ近郡ノ人往テ浴スル者多カリケレハ天保ノ末藩治ノ時官費ヲ以テ浴室ヲ設ケ戸主ヲ置キ浴客ヲ待ツ浴客ヲ待ツ浴客モ一時甚多ク一歳大凡四百人ニ下ラスト雖モ今ハ大ニ減シタリト云

天保年間の末に官費を使って浴室を設け、管理人をおいていたという。

明治24~25年頃、初代青島村長松田拾蔵は、数人の有志らとこの湯を折生迫の市街地へ引き出して浴場を作ることを計画した。二反田・片山の山伝いに延々約2kmの間を竹樋で引く。納屋田(青島小学校前)に浴室を建てて客を誘致した。さらに折生迫の中心地、木の下まで延長し、大衆浴場としたこともあった。しかし、不完全な竹樋のため、思うに任せずとん挫した。

明治35年頃、宮崎市の白井卯之助が松山栄三郎の協力を得て、湯の山付近一帯を買収して湯壺を改修し、浴客の宿舎を建てたので、一時大いににぎわったことがあるが、経営者が変わって次第に衰退した。

大正3年頃、藤井拾吉翁が石井十次の勧めにより、キリスト教伝道の傍らこの湯を利用して病気治療を計画し、霊肉回生院という礼拝堂を兼ねた断食堂を建立した。断食治療は効果が著しく、東京、北海道からも治療に来たくらい有名であった。藤井夫妻物故により後継者もなく、いつとはなしに閉鎖されてしまった。

昭和26年、青島村が宮崎市と合併後、観光事業に熱心な荒川市長が宮崎市博覧会を期し、青島観光開発のため、この湯の利用を計画した。現地の開発よりも、この湯を水道として青島の旅館街に引くとともに、一般にも利用できるようにした。しかししっ容量が多くなり、水量が不足することから、昭和43年から都市水道を敷設し、その不足を補った。

 湯の山の他、その付近に同様な温泉は、曽山寺と内海側に似たものがあり、いずれも付近に断層がみられる。湯の山を実地調査したところ、約150メートル西に断層(逆断層)がみられ、その断層線の延長上に湯元が当たる。この付近の断層をつくっている油津層群は断層が多く、この断層に地下の熱水や気体が集まって、そこから湧き出していると考えられる。

 湯の山の温泉はもともと緩和性の温泉で陽イオンも陰イオンもその含有量は僅少であり、単純温泉といえる。そのため個性物質量も少なく、療養泉とはいえないようである。しかし水温が25.2度で温泉法の規定25度よりわずかに高いため、冷泉ではなく温泉とされる。また硫化水素が規定より少し多いため温泉らしい匂いもする。湧出量は1分間に80立方メートルであり、リウマチ・神経痛や常習便秘に効くという。

 湯の山にはこの他、別当が谷など湯の湧き出る場所が数か所ある。

以上、『郷土誌 青島』から「湯の山」の歴史について情報を整理した。

以下に川越幸男さん(昭和12年生)に案内していただいた「湯の山」の様子を紹介する。

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<追記>
現在は、S家が所有しており、住宅もあり、以前そこに所有者が住んでいたが、現在は不在。周辺の山を所有して、柿、椎茸などの収穫で生計を立てており、温泉宿ではなかった。30年ほど前に観光開発のため、この一体の買い取りの話があったそうだが、条件が折り合わなかったという話も聞かれた。

それでもぬるいお湯が出ていたので、五右衛門風呂を設置して、自由に入れるようにしてあった。自分で水を汲んで、近隣の木枝を拾ってお湯を沸かして入る。10年くらい前までは、入る人、女性もいたらしい。

川越さんによると、青島一帯には、こうした冷泉がしみ出す場所は各地にあるが、湯量は少なく、鬼の洗濯板(隆起海床と奇形波蝕痕)に見られるように固い岩盤が幾層にもあり、温泉を掘るにも難しいという。
川越さんのおじは、病気でこの断食道場に一ヶ月滞在し、良くなったと聞いたことがある。

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