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日比谷躁躁曲_初日

躁状態を隠して代理店に入社

理由なきソワソワと、今日も共存している。

八重洲地下道からエスカレーターを上がって地上に出ると、思ったよりも強めの春の日差しに、思わず目を背けた。
大きな麒麟のオブジェクトがカッコよかったのでスマホをかざしてみる。アルミ版製の麒麟の頭が太陽光を遮り、レンズフレアを描いてみせた。
奥にはアーティゾン美術館の見上げるような高い商業ビルが建造中だった。

嫌でも動悸が速まる。
再就職の初日にしても上がり過ぎているのは自覚していた。
久しぶりの通勤電車にソワソワが加速度的に上がっているらしいことは間違いなかった。
何気なく東京駅で下車し、八重洲地下街を歩いていたのはスーツ族と一緒にモーニングを探していたからではなくそういう挙動だったから。
落ち着かせたかったからではなく、「歩きてえ!」、「空気気持ちいい!」をやりたくなった。
自覚があっても止める気はない、それがいけない。

躁状態の治療をさせていただいている。
前職で人間関係が上手くできなく、イライラと落ち込みから失神しフロアに倒れ込んだことで心療内科に。その後躁転してしまってからなかなか戻らず良い投薬方法を探している。
日本人はあまりやらないが、後学のためにカウンセリングの先生にも通ってはいる。
仕事や収入、普通を諦めたくない。この時はそれがとても重要だった。

自立支援をやってはいるとは言え、経済的に困窮し、二ヶ月前につい銀行ローンに手を出した。今も思考の何割かの容量は、返済についての答えのない算盤はじきに持って行かれている。
困窮は、家賃もままならないのに買い物衝動がおさまらない時期があり、気がつくとアプリでスニーカーやバッグを買っていたせいだった。
”上がって”いる際には衝動が抑えられずに、なんだかわからないセレクトショップの別注名刺入れのために一都二県移動してまで買いに走った。それらは今はリサイクルショップに陳列されている。

結果、知人の紹介で日比谷の広告代理店の中途を受けた。
先方が欠員募集ということもあり、自分がスキルマッチしていたことも重なり、すんなりと入社に至った。
正直に話すタイミングはなかったと、今日まで言い訳をしている。お金が必要だった。月末にATMで返済する1万2千円の捻出が今も頭の中で輪を描いて回っている。

上長の昴(スバル)さんが入り口で迎え入れてくれた。
「いやあ、いよいよサラリーマンになっちゃったねえ」
無性にソワソワしだす。就職が嫌なわけではない、仕事は好き以上ワーカホリックな方だ。
オフィスは日比谷の商業ビル5階、なかなか狭く、6階には写真スタジオも完備している。
自分は制作部門に案内された。スタジオ横の小さな区画に無理やり押し込んだかのように部屋が作られていた。5階のフリーアドレスのオフィスとは打って変わり、給湯室とコピールームを合わせたくらいの手狭な空間だ。

部屋に入り、昴さんが制作部全員に声かけする。
杓子定規な丁寧な挨拶をし自席のセッティングを行った。
這いつくばってデスク下の配線整理をしていると、なんだかずっとここに潜って居たくなる。
誰かが部屋に入ってきた。その直後、自分の尻を靴底で蹴られた衝撃を感じ、肘を床に打ちつけた。
振り返ると、制作部の部長である東(アズマ)さんが自分を見下ろしている。彼の表情にはどこか不安を抱いている印象を受けた。
「お前、俺が入ってきたら立ち上がって挨拶だろ」
東さんが自分を叱責すると、周囲はそっと目を逸らす。

この令和に!?
なんてヤバい会社に入ってしまったのだろう。不安だし続けられるか恐怖すら感じるが、無性に気分は高揚した。
ここでは感情をぶつけ合ってもいいんですね、と。
踊り出しそうな自分の代わりに、頭の中では1万2千円がぐるぐるとタンゴかなにかを舞っていた。

>続く

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