鬱な私のありのまま

私は23歳、うつ病の女性です。

療養中の今、自分を振り返ってみようとnoteを書きました。

鬱と診断されるまで〜就活で限界に〜

大学卒業後、1年間目指していた仕事につけなくて、その後自分の気持ちの見えないまま心が追いつかない状態で、就活を続けた。そんな中、面接やエージェント、ハローワークで「自分を見せて」と求められるのにおかしなくらい緊張するようになって、人前でも涙腺が緩くすぐ涙を流すようになってしまった。自分自身苦しかったし、自分で自分を握っていられない不確かさが不安で、精神科を訪れた。そこでうつ病と診断されたのが去年の9月。もうすぐ1年になる。


 頭が働かない悩みは大学2年のころから自覚していて鬱について調べたこともあったので、私の状況説明を受けたら十中八九鬱と診断されるだろうとは思っていた。だけど正式に診断されて、家族も休むことを許してくれると肩の荷が降りたのを覚えている。

ただ、同級生は自分より1年早く就職して、どんどん人生を歩んでいっているのに、私は動けなくなってしまった。こうしている間も時間を空費している。そんな焦り、自分を責めたてる言葉ばかり浮かんで、じっと布団に横になっていても空しく、外の賑やかな声、蝉の音、太陽の動きを感じながら私だけが立ち止まっている世界で、一日がとても長かった。

今思うととても甘えているが、就職活動の拠点のマンションの家賃ほか生活費は仕送りで払ってもらっていた。当時はその事も考えられなかった。                       鬱と診断されて就活を止めてからすぐに退去手続きをとったが、退去は2ヶ月前申告制だったので、地元に帰るのは2ヶ月後。部屋の家具や家電を売ったり荷造りしたり身辺整理をしながら、毎日食べては寝てを繰り返す非生産的な日々を送っていたのだが、その生活でますます自分が嫌いになった。私は能力をもって自分の力で生きていくことが出来ないのに命を繋いでいる。卑しい。汚い。生理的に自分も他人も受け入れられなくなった。こんな筈じゃなかったのに。私はもっと美しく生きる人間になりたかった。どんどんどんどん、悪い方に転がっていく。その流れは止められない。だって何を見ても触れても、感情も考えも浮かんでこないんだから。どう進みたいのか何も考えられない。脳がプラスチックに据え替えられ、心の中に自分以外の誰かが住み着いて攻撃してきている。そんなイメージが近いと思う。

 自己嫌悪と不安でいっぱいの大学生活

生活するために仕事をするのではなくて、やりたいことがあるから生きていたい→だから働くもしくは仕事そのものがやりたいことじゃないと生きる意味がない

というのが私の考えだ。高校生の頃は古典文学が好きで、その世界をもっと詳しく知りたいと思い、平安朝の空気の残る地で生活全般を和歌文学に浸しながら研究者を目指そうと京都の大学に進学した。確かに古典文学は好きだったけれど、美しい言葉の世界は苦しい現実を忘れさせてくれるものだったからじゃないか。小学生から高校卒業まで、働かない父が昼夜問わず怒鳴り、暴れ、夜も寝られない毎日でノイローゼ気味だった。1人働く母は生活だけで精一杯。家族の思い出などなく、家に帰るのは憂鬱だった。だけど私は姉や妹のように家以外に楽しみを見出すことができなかった。家事をして勉強する、自分に課せられた役割をこなすことで自己肯定感をもっていた。自由になれない、自分の気持ちを出すことが許されない。そんな抑圧は私をゆがめたと思う。正論しか言えなくなって、自分の意思のない空っぽな人間になった。大学は自分の意思で行動を広げ、経験から感じたこと、考えたことを表現・発表する場所だ。そうした場に出て、「私は自分の気持ちや考えというものがない」と気づいたのだ。それは考察的な思考力がないという意味ではなくて、生きていく中で起こる出来事を全てスルーする感じ。喜怒哀楽のシンプルな感情すらうっすらで、何か感じたような気がしても言語化できず、本当にはわからない。生きている実感のないモヤモヤした日々で、次第に好きだった本も頭に入ってこなくなった。アルバイトでも1年の時のパン屋さん、2年の時の医療事務、3年の派遣、共通して仕事が出来なかった。何だろう、自分の性格や感情がわからない不安が人前に出ることに過度に緊張させたのだ。自然体でいようとしても「私の話し方って、どんな感じ?」「私の判断基準って何?」って自分でもどんな人間か不確かなのに、人に提示しないといけないのが怖かった。当然だけど職場の人はそれぞれ性格があって、生き生きと自由に気持ちを感じながら生きている。些細なことではあるけれど、「今日、先輩はお客さんについてこんな感想を言っていた。私は何にも思わなかったけど、接客でそんなに気持ちが動くのか…」とか、人の感情をマニュアル的に取り込もうとしていた。私だけが性格を持っていない。そんなコンプレックスでどんどん萎縮していった。そして、説明はすぐに理解できているのに、分かっていないと思われることが多かった。頭の中で言葉を整理することができなくなって、誤解されても解くことができなかった。

そういえば、自分で人間関係を作り上げたことはなかった。自分の感情や考えがないし、昔から人と話すネタがなく、話しかけられたら愛想良く振る舞うだけで自分から話し掛けに行くことはなかった。高校3年間ずっと同じクラスで仲良くしてくれた親友のような子にしても、二人でいても無言なことが多かった。どうして3年間も一緒にいてくれていたんだろう。文学や猫が好きで大人しいところが似ていたから、盛り上がるときは盛り上がったけれど。

  人との繋がりが煩わしくて、週に一回くらいは休んでいた。友達にはどれだけ休むんだ!って冗談交じりに注意されたけど、高校はついていけなくなるからセーブしていた方だ。中学2年(厨二病という言葉もありますね笑)、小学五年生は丸々1年間行かなかった。幸運なことに、人に恵まれ、虐められたことは一切ない。なのにだ。これは甘えと言われても仕方ないと思っている。自分の性格がわからなくて人の中にいると常に演技しているのがストレスだった。何か感じる前に振る舞いを形式的に作ってしまうんだよね。それで上手くはいくけどやっぱり自分を押さえ込んでいるストレスは強くて、そんなことをする必要がない一人の時間が好きだった。演技するのは人に好かれたいからではなくて、そうしないと自分は抜け殻のように何も出すものがないからだった。そんな何かが足りない自分を人に見られるのを恥だと思っていた。(そういえば、中学生の頃に最も共感してよく読んでいたのは太宰治『人間失格』です)                                                      若いエネルギーに充ちた賑やかな教室は、私を不安にさせた。鬱と診断されたのは最近だけれど、きっと小さい頃から無気力状態だったんだと思う。

【自閉症スペクトラムと診断されて】

話は戻るが、昨年9月にかかった精神科であれこれ受けた心理検査のうち、ウェクスラーⅢ(IQテスト)の結果を見た医師に発達障害の可能性を指摘された。言語性IQが140、動作性IQが80と60もの差があったためである。定型発達者は20以内に収まる差で、それを超えると知能のバランスが悪く、脳内の連携に混乱が生じるとの事だったが、発達障害の診断は難しく、専門医のいる病院は日本では数少ない。そこで、地元に近い鹿児島大学病院に紹介状を書いていただいて、11月末に診察を受けた。前の病院での心理検査資料と生育歴や幼稚園から小中学生の時の通知表(第三者からの印象、担任のメッセージ欄を参考にするため)、自分では発達障害についてどう思うかのアンケートを通して、発達障害ではないとされた。しかし、それは母がアンケートで発達障害らしい項目を全て否定したからだ。こだわり行動でいえば、乳児のころお気に入りのタオルをずっと持ち歩いていて汚くなったから捨てようとしたら激しく泣いたこととか、普段の食事と違うものが出された時に癇癪を起こしてちゃぶ台返しをしたこととか、お絵描きなどひとり遊びが好きな子どもだったこととか、母が思い出として語ってきたことである。なのに、診察の際にはなかった事のように話すのに苛立ちを覚えた。そんなに誤魔化したいのか、いわゆる“正常”から外れないようにしたいのか、と。先生も自分の見立てと違う違和感があることを2回目の診察で言われ、鬱の治療をしながら発達障害かじっくり判断するために入院することになった。この入院は、今年3月まで3、4ヶ月続いた。依然として無気力だったが、ここでの静かな時間は今も心に残っている。何が辛かったのか、今心が動かないのはどうしてなのか、先生が時間さえあれば話をしに来てくれた。何人もの患者さんを抱えていて忙しい先生なのに心を砕いてくださって、深く感謝しています。頭の整理ができないままに話していつも長引いたのが申し訳なかった…。自分を見つめつつ、支えられて生きていることで心が潤いはじめ、9月とは違って清浄な人間らしさを保てていると感じた。

3ヶ月の入院生活とその間に受けた心理テストの結果を通して、ASDのみを要素に持つ自閉症スペクトラムと診断された。マニュアル化した感情や会話しか出来ないことに病院の先生方が気づいて、受け入れてくださったことがこの3ヶ月の入院の大きな収穫だった。誰にも共感されない、自分だけが違うという不安はかなり減った。

退院後、近所の市立図書館でアルバイトを始めた(4月)。その後、鹿大病院の先生が派遣されている近くの精神科に通院しつつ、5月に近畿大学の司書課程(通信教育)を受け始め、今に至る。(7月)

いまだ感情や考えが浮かばず、図書館が自分のしたいことかよく分からない。でも大学に入った頃は和歌文学研究者を目指し、頭が働かなくなって研究者を諦めても「きっと狭い分野で深い知識を持ち、調査してまとめあげる作業が私は好きだ」と信じて国会図書館や写本を扱う古美術商(目録作成業務がしたかった)を受けてきた。だからバイトから働くことに慣れていくとしても、図書館を選んだ。(母はすぐにも正社員職を探してほしいという感じだったので、「アルバイトから社会復帰したい」と説明した。だけど私は仕事内容で選びたい。「生活できる安定性」で仕事をしてもなんで生きているのか分からない。「何を生したいか」で考えるものだと思うので。急き立てられて早く行動を決めないといけないのは負担だった)

いまだ私は本や文章に集中できない。頭も働かないままで、過ぎていく時間に焦っている。だけど、母のいう「決まった生き方」に合わせて認められようとするのはもうしないようにしようと思う。私と母は別の人間。動けなくなった私と違ってパワフルなのはすごいと思うけれど、仕事の選び方を相談して進めるようにいわれたり、優等生的な生き方以外否定する頭の固いところがいやだ。それに影響を受けていて、結局従ってしまう主体性のない自分も。

これからは自分の事は自分で決める。お伺いは立てない。立ち止まっている時間でハンデができても、考えられるようになってしたい事が固まってきて、エネルギーを回復させてから、前に進む。人生は長い。自分の心を大切に、マイペースで生きよう。



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