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左利きと天パ

私は左利きである

ゆえに、小さいころはかなり矯正された。最近はそういうことも少ないのかもしれないが、小学校では左で書いていると注意する先生もいた。右手で字を書けるように書道を習わされたし、家での食事も右手で食べるよう強要された。

すべては私の為だそうで、左で書く字は汚いし就職に不利になる。大昔の話しだと思ってもらって構わないけれど、私が子供の頃は周りも含めてそんな感じであったため、クラスでも左利きは私を含めて2人だけだった。

自分が自然にペンや箸を持ち、器用に動かせる左手を封じられ、代わりに何をやっても不器用な右手を使わされることに、子供がどれほど屈辱を感じるものか、右利きの両親には想像できなかったに違いない。

確かにハサミや急須など、右利き用に作られているものはたくさんある。駅の自動改札ですら昔は不器用に切符を通した。でもそんなものに不満は一切ない。使い方を工夫すれば良いだけで、圧倒的に多い右利きの方に合せて作るのは合理的だからだ。

けれど利き手の左手を否定されることには、いつも心が押しつぶされるような思いをしていた。大きなことではないけれど小さな抵抗の連続・・・少しづつ自分が削られていくような感覚。その都度幼い私の中で左手の存在が増して行った。やがて左手=私であると自覚し、左手の存在意義を守るため右手で食べるときはわざと食べ物を落とした。

そうまでして左手を守ったのは、何の根拠もなく左利きの自分を好きでいられたからだ。

私は天パでもある。

左手と同じ、持って生まれた自然なものだが私はこれを好きになれず否定した。どんなに人に褒められようとも、みんなの美しいまっすぐな髪が羨ましかった。たとえパーマヘアが流行っていても直毛の人とは艶が違う。何とかしようとドライヤーやアイロンをあて、ストレートパーマや縮毛矯正をかけ続けた。パーマ禁止の学校でもストレートにするのは許された。これは大きな矛盾である。左手と同様に、天パ=私でもあるのにそこから逃れようと悪あがきを重ねた結果、傷んだ髪は更にチリチリになり人目につかないように束ねて存在感を消した。

それは散々痛めつけられた自分の髪が汚く見えるという劣等感と、サラサラなストレートだけが美しいという偏狭な価値観から。

ところが最近ネットで天パを生かすためのスタイリングやケアについて、いろいろ書かれていることを知った。日本ではクセ毛用と書かれた商品も直毛に見せるためのものであることが多いが、外国ではきれいな巻き毛にするための商品とノウハウがあり、それについて詳しく書かれていた。何というありがたい情報社会だろう。インターネットも使い方次第である。実践している方々の巻き毛は各々個性的で、まるで髪が自ら自己主張しているようでそれはとてもカッコ良かった。

かくして目から鱗の落ちた私は、長い間日陰の身であった天パを子供の頃のクリンクリンな存在感で復活させた。それまでのひっつめ髪とは印象がかなり変わってしまったようで周りの反応も面白い。褒められることは無いから人から見たらイマイチなのかもしれない。しかし思いのほか自分では気に入っている。なによりも楽なのである。

人の価値観に合せなくて良いという楽さ。これが素の自分だから仕方ないと開き直れる楽さ。

ところで私は色黒でもある。もういいか。


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