見出し画像

『双眼鏡からの眺め』 イーディス・パールマン (著), Edith Pearlman (著), 人生の締めくくりを迎える時期に、何が起きる可能性があるのか。どういう心持になるのか。どう受け入れることができるのか。そんなことを考えるために読む小説というものがあるのである。

『双眼鏡からの眺め』 単行本 – 2013/5/24
イーディス・パールマン (著), Edith Pearlman (著),

Amazon内容紹介。

「〈全米批評家協会賞・PEN/マラマッド賞受賞〉
双眼鏡で隣人宅をのぞく少女が見た重い現実とは――切り詰めた描写のうちに底知れないものがひそむ表題作。
第二次世界大戦中のロンドンで難民の保護活動に携わるソーニャと、それぞれの道に進みゆく人々との束の間の交流を描く「愛がすべてなら」。
風変わりな客が集う山麓のホテルで、物静かな経営者の心を揺さぶる事件が起きる「ジュニアスの橋で」。
O・ヘンリー賞を三度受賞したたぐいまれな才能を持つ短篇作家が、簡潔な文章で切り取る毅然として生きる人々の鮮やかな一瞬。厳選された三十四篇を収録する傑作短篇集。」

ここから僕の感想。

 この前、著者の新作、『蜜のように甘く』を読んで、遡ってこの本を読んでみた。短編小説34編が収められている。著者は1936年生まれで(私の母と同い年だ)、1977年から2010年までに発表された作品たちだ。つまり、作者41歳から74歳までの、ということになる。多くは1990年代、2000年代の、つまり、作者50代から70代の作品だ。


 ユダヤ人の、アメリカ東海岸ボストン郊外の街に暮らす、医師や大学教授など、知的階級周辺のという作者自身の生きてきた軌跡の周辺に題材を取っているが。途中に、第二次大戦中に、アメリカからイギリスにわたり、ロンドンでユダヤ系の難民の子供の世話をする組織で働いた女性を主人公にした連作がはさまる。著者より一世代上の人だと思われる。


 孤独な老人、障碍をもって生まれた子供を抱える家族など、何度か繰り返される設定もある。ガンなどの病気を抱え、死を目前に控えた老人とその家族の話、というのも何度か繰り返される。


 つまり、人の、一人の人生と言うのは、上手く生きたようでも、そうでないようでも、いろいろなことから逃げて自由でいようとしても、同じ場所や境涯にとどまって生きたとしても、ある、限定された、逃れようのない、人生の終わり、命の終わりに向けて流れていくもの。そのことに向けられる視線は、書き方は、冷淡でもなく過剰に感動を創り出そうともしていない。美しく描こうとしてもいないし、意地悪く描こうともしていない。人が生きて、愛したり愛されたり、友人や家族と、親しくしたり疎遠になったり、そういうことの、ありようを、深く洞察しながらも、淡々と描いてく。


 僕は、もう人生で成すべき主たる役割もイベントもおおよそ終わり、子どもを育て、働き、そのどちらもほぼすっきりと急激に終わりを迎え、仕事の人間関係は急速に薄れ、子どもたちも家から出るとほとんど年に数度しか会うことは無く、それらのことは別に寂しくも悲しくもなく、それでも毎日は続いていき、食べたり家事をしたり寝たりという日常生活は続いていく。


 後は老いて病気になって死ぬというイベントが残っており、それをどういう手順順序で、どういう境地で迎えるか。それまでの残り時間に、どれだけ本を読んで考えて、何か家族や子供らに書き残しておくことはあるのかないのか、そんなことを考え日々を過ごしている。


 小説と言うのは、青春の時期にのみ読むものではなく、こうして人生の締めくくりを迎える時期に、そのことへの心構えと、何がどういうふうに起きる可能性があるのか。どういう心持になるものなのか。どういうふうに受け入れることができるものなのか。そんなことを考えるために読む読書、小説というものがあるのである。そういう小説として、この人の小説は、なかなか本当によくできているのである。

 読書師匠しむちょんとのFacebookでのやりとりで、僕の書いたコメント

 若いとき社会や人の役に立っていた(と自分で思えていた)人物が、老いて役立たずに迷惑物に孤独になっていくことをどう受け入れるか、「いやそんなことないって」という優しい慰めを拒絶して、本当のことに向かい合つて、どう生きるかどう死ぬか、ということを、本を読んでもオリンピックを見ても、考えてしまう今日この頃。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?