見出し画像

『バーチウッド 』 ジョン・バンヴィル (著) 佐藤 亜紀 (訳) 稀代の名文家、28歳のときの若さの勢い溢れる怪作。暴力と狂気の中に、ときおり現れる美しさ。後年の、息をのむような知的な美しさの片鱗が、ところどころに。

『バーチウッド 』
ジョン・バンヴィル (著), 中山 尚子 (イラスト), 佐藤 亜紀 (翻訳)


Amazon内容紹介


「優雅な屋敷だったバーチウッドは、諍いを愛すゴドキン一族のせいで、狂気の館に様変わりした。一族の生き残りガブリエルは、今や荒廃した屋敷で一人、記憶の断片のなかを彷徨う。冷酷な父、正気でない母、爆死した祖母との生活。そして、サーカス団と共に各地を巡り、生き別れた双子の妹を探した自らの旅路のことを。やがて彼の追想は、一族の秘密に辿りつくが…。幻惑的な語りの技と、絶妙なブラック・ユーモアで綴る、アイルランドへの哀歌。作家・佐藤亜紀の華麗なる翻訳で贈るブッカー賞作家の野心的傑作。」


ここから僕の感想。


 ジョン・バンヴィルという小説家のことは、日本ではあんまりというか、ほとんど知られていない。僕も、しむちょんに教えてもらうまで、全く知らなかった。のだが、アイルランドだけでなく、英語圏、イギリス、アメリカの純文学の世界では、当代随一の名文家として知られている。2005年のブッカー賞『海に帰る日』と2012年の『いにしえの光』の美しいことといったら。今まで読んだ翻訳小説の中でも、最も美しい文章の小説だと思う。著者は1945年生まれなので、この二作は50代後半から60代という、いわば完成した年齢で書かれた小説なのだが、30歳で書いた『コペルニクス博士』も、おどろくべき完成度なのである。僕は日本の小説家では三島由紀夫が一番好きで、そして、文章の美しさでは三島由紀夫以上の日本の作家はいないというのが、個人的意見なのだが、ジョン・バンヴィルの文章の美しさ、小説の構成の知的さ、美質は、三島由紀夫に、どこか似ている。


 そして、この『バーチ・ウッド』は、28歳に書かれた、さらに若書きの小説で、さすがに若い人の書いた小説のもつ、ある種の混乱が渦巻いていて、それはそれで魅力的のである。知的で野心的な美文家が、三島由紀夫がそうであったように、おそらくは最後の一行、全体の構成、そういうものをイメージして、小説を書き始める。のだが、若い勢いの筆で小説を書いているうちに、当初の構想を揺るがすように、人物や出来事が膨らんでいってしまう。緻密な構成が小説の勢いで変形していく、そういう面白さが、この小説にはある。


 それにしても、アイルランドという土地の、歴史の、人々の、この独特の暴力と狂気と明るさとユーモアの同居した感じ、というのは、文学として読むと、本当に魅力的なのだが。この国の人というのは(ビールを飲んでサッカーやラグビーを楽しんでいる姿を見ている分には、ずいぶんと楽しそうな人たちだと思うのだが)、アイルランド人として生まれ、生きるというのは、どんな感じなんだろうなあ。世界文学を読むというのは、そういう「その国に生まれて生きるって、どんな感じなのかな」を、いろんな国の人について、読みながら考える、そういう楽しみがあるのだよなあ。本当に面白い。これより面白いことって、あんまりないと思う。


 お隣のイギリスに支配され虐げられ。プロテスタントとカトリックの対立が常にあり。そして、この小説では、語り始められたときは、どうも19世紀後半か20世紀前半の、「電話がすでに家にある」時代の話のはずなのに、主人公の少年が出奔して、サーカスの一座に加わって旅をしているうちに、ジャガイモ飢饉に襲われ、反乱集団モリーワグアイア党が暴れているのは、19世紀半ばの歴史なのだが。時空がゆがんでいるようなのである。


 作者が50代60代に入ってからの小説は、人生を振り返る美しさと悲哀の両方を描く、現実の実人生をいとおしむような小説なのだが、若き日のこの作家の小説は、狂気を孕んだこの世界の不思議に触れようという、そういう意欲にあふれている。同時代の南米の小説とも通じるような暴力と幻想と笑い。アイルランド文学は、世界文学の中でも、特にいろいろ、面白いと思います。


※追記 南米の作家と通じる、というのは、具体的に言うと。ガルシアマルケスが、『百年の孤独』を書いたのが、1967年、『族長の秋』を書いたのが、1975年。この『バーチウッド』は1973年。一族で同じ名前の繰り返すことは『百年の孤独』を思い起こさせるし、屋敷が崩壊していくさまは、『族長の秋』の大統領官邸を思わせる。どちらもスケールはマルケス作品よりずっと控えめなのだが。直接の影響はないのかもしれないが、ほぼ同時期に、南米とアイルランドで書かれた作品の、シンクロニシティは、面白いと思う。


 翻訳者 佐藤亜紀さんが、あとがき冒頭で「最初にお断りしておくなら、べたな感動を期待なさる方にはこの本は不向きである。」といきなり宣言している通り、万人向けの本ではないけれど。それに、ジョン・バンヴィルを読むならば、『いにしえの光』か『海に帰る日』から読んだ方がいいと思うけれど。それらが気に入ったならば、この本もおすすめです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?