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『アナーキスト人類学のための断章 』 デヴィッド グレーバー (著), 高祖 岩三郎 (翻訳) 『負債論』『ブルシットジョブ』著者の、若き日の、活動の原点ともいうべき本。アナーキストのイメージが180度変わるので、著名にビビらず読んでみよう。


Amazon内容紹介


「アナーキズム&人類学、この魅惑的な結合から編み出される、よりよき世界を創るためのさまざまな術。真に変化しているものとは一体なにか?大いなる思考実験。
―変革はゆっくりと、だが着実に進んでいる―
ネグリ=ハート(『〈帝国〉』『マルチチュード』)以降の最重要人物がついにここにベールを脱ぐ。現在、10ヶ国語への翻訳が進行中の当書は、今後、思想の〈語り口〉を一変させるほどの力を持っている。この11月には初の来日を果たし、早くも各紙(誌)からの依頼が続々舞い込むグレーバーの盟友・高祖岩三郎による初邦訳。アナーキズム&人類学の結合から生み出される、どこまでもポジティヴな世界観。
アナーキズム、そして人類学の実践が明らかにするのは、近代以前の「未開社会」と呼ばれる世界が、実はより高度な社会的企画(プロジェクト)によって形成されているという事実である。真の民主主義的な世界の構築に向けて。」


ここから僕の感想。


 『ブルシットジョブ』が話題になった今年、59歳の若さで急逝したディヴィッド・グレーバーの、初期の著作。2004年、不遇時代の著書。「断章」とあるように、体系的な本とは言えない。ただ、この人が、オキュパイ・ウォールストリート運動など、市民運動の中心として活動した、その理論的背景を、もっともよく表した内容ともいえる。


 「アナーキスト」というと、テロリストや過激な左翼と同義語的イメージを普通はもつと思うが、ここで語られているのは、全然、そういうことでは無い。テロリストでも左翼でも過激派でもない、著者の言う「アナーキズム」「アナーキスト」の理解を、まずは正しくするのが大事。


 著者は、政府こそ、暴力装置である。とまず置く。マックス・ウェーバーの言うような意味で。とすると、政府を持とうという志向は、すなわち、(今、もし反体制であったとしても)、暴力により他者を支配しようという志向だということ。左翼や社会主義や共産主義も、権力奪取に成功し国家となった瞬間に暴力装置として、たいていは国民を弾圧し、反対派を粛清する暴力性をあらわにする。いや、反体制闘争のさなかでも、内部にも外部にも暴力的闘争を持ち込む。著者は、そうした「異なる考え方の人間を暴力によってコントロールしよう」という志向自体を否定する。つまり「アーキズム、政府の否定、国家の否定」とは、暴力で他者をコントロールしようということ自体の否定なのだ。それを「アナーキズム」と呼んでいるのだ。いや、それ以上のことを言っている。自分と違う考え方の相手に対し、自分の考え方に屈服させて、考えを改めさせようということ自体を否定する。


 平和的な合意形成のしかたをもとにした社会を志向するのが「アナーキスト」だと、筆者は言う。

本書より引用すると

「誰も他人を完全に自分の考えに転向させようとしないし、そうしてはならない。だから議論を行動に関する具体的な設問に集中させ、誰も自分の原則が破られたと感じないように、みなが参加していける計画を導き出すことを目指すということである。」


 普通、人が、暴力的で無いと考える「多数決による民主主義」について著者は「暴力による少数派への強制」が現れるのと、多数決民主主義が現れるのは同時だと指摘する。多数決型民主主義は、軍事制度の成立と一体のものだという。多数決という形で、少数派に意にそわないことを強制するのが「政府」だとすると、それを否定するのがアナーキズムなのだという。


 人類学的知見から、様々な社会で、そうした、権力性を徹底的に排除しようということを原則として成立している例が見出されるという。「未開だから、そうなっている」わけではなく、むしろ先行する権力志向、国家思考を否定する形で、集団の中に「国家への暴力的、他者否定的志向」が生じるのを排除する様々な知恵が組み込まれた社会のあり方が存在する。


 そうした社会のあり方を、未来に向けて志向するのが、アナーキストということだ。


 筆者は、本書内でも、メキシコのサバティスタ運動などに希望を見出し、既存の左翼運動とは異なるアプローチで、あるべき社会への具体的方法論を考え、行動する。


 批判の矛先は、フーコーらが猛威を振るったポストモダンな思想界、学問の世界のあり方から、既存の、権力闘争志向の左翼運動まで、「他者を批判し否定し説き伏せようとする、自己の優位を誇ろうとする」あらゆる運動に向かう。そうではない、相手を否定しないで社会的合意を創り出す方法論、それをもとにした社会を構想する。


 もちろん、そこでは、様々に発生する暴力性を、どう抑止するか、という難題が生じる。そして、試みはたいていは挫折する。直近の例で言えば、昨年の夏、BLM運動の末に、シアトルで生じた「キャピトルヒル自治区」は、警察を持たない、警察を排除した解放区として自治がしばらく行われたが、暴力行為、殺人やレイプ事件が発生して、内部崩壊した。あれについて、著者は何を思ったのだろう。著者は、あの成立から失敗までは、生前、見ていたと思うのだが。


 本書内でも、暴力の問題は、中心的テーマだが、「誰の根本原理を否定されない合意形成ができれば、暴力は最小限になるはずだ」というのが、本書内でのグローバーの主張で、それは理想的に過ぎるように思われる。非暴力的にアナーキズムを完遂する方法論は、本書内を様々、読んでみても、明確には語られていない。だからこそ、まだ「断章」なのだと思う。

 『人新生の資本主義』で紹介されていた、バルセロナの市民運動などは、グローバーのいうアナーキズムに近いようにも思われる。既存の左翼運動とは異なる方法での、分散した様々な運動が、緩やかに連携し、それぞれの異なる原則を否定しないで共存、拡大していく、そういう変革運動のあり方を、著者は構想し、また、具体的に活動していたのである。『人新生の資本主義』の最終章との関連、共通性が高いように思われた。そのあたりに、次の社会へのカギがありそう、ということは確かなのだと思う。


※さらに詳しく知りたいが、本自体を読むのは面倒と言う方は、本書のAmazonレビュー、ベスト100レビュアーであるyasujiさんという方の「 アナーキストの意味を正しく知ることが大切」というのがとても分かりやすいので、ぜひ読んでみてください。

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