経済門外漢なので、経済政策というのが、究極、何を目指しているのかを、「水が流れていないと、対流していないと、生き物が死んじゃう」問題としてイメージしてみた。思いついたばかりなので、あくまで忘れないためのメモ的noteです。


 経済政策の問題を、(僕のような門外漢である)普通の人にもイメージできるようにするには、どうしたらいいのかな、と考えていら、「ウォータープラネット」という、畳んでしまった僕の会社の名前通り、「水の流れと生命」という比喩で考えたり、イメージしてもらえばいいんじゃないか、ということを思いついた。


 ということを、ちょっと長くなるが、書いていきます。


 ここ2年ほど、ずっと、MMTだの緊縮対反緊縮だの、商品貨幣説と信用貨幣説だの、「新自由主義が間違いだとして、修正ケインズ主義とか宇野弘文のような、あくまで近代経済学の枠組みで対策を考えればいいのか、それともマルクスまで戻って考えるのか」とか、いままで考えてもいなかった経済のいろいろを、本を読んだり記事論説を読んだりして考えているのだが。


 そういう話は、どれも専門家同士が口汚く相手を否定して罵しり合うばかり(相手のことをバカだ、と言い合うばかり)で、門外漢には判断のしようがない。というか、門外漢の感覚で言うと、内容を吟味する前に立場があらかじめ決まっている宗教戦争のようで、信仰の告白をお互いにし合っているようなのだな。議論がかみ合うことは永遠になさそうなことだけは分かる。


 にもかかわらず、少なくともこの日本の様々な問題は、例えば近くは新型コロナ対策の政策論から、少子化問題、格差問題、大学や学問研究レベル低下の問題、どれをとっても、経済についての明確な立場視点がないと、有効な対策は打てない。日本が本当にダメになっているのは、経済政策的なここ30年の失政のせいなのは明らかなのだよな。


 そんなことを考えていて、今日、なんとなく、ぼんやりと、経済的問題についての問いの立て方を、あるイメージとして把握整理するということを思いついた。ので、忘れないうちに書いておく。まだあんまりうまく行っていないので、意見、つっこみをいただけるとありがたい。


 緊縮派の主張の根底は「税金が政策を行う財源で、お給料が税収で、そのお給料の範囲で財政支出というのは組まなければならない、家計は赤字にならないようやりくりしなければならない。」ということがある。

 税金が財源でその範囲を超えてお金を使うと国として赤字になり、不足分を借金、国債発行でまかなう、それは、家計のことを考えても不健全でしょ、という。MMT派からは、「家計簿脳」と批判されている考え方なんだよね。

それに対して、国は、社会的に必要な政策を実行するために、お金を発行する。国債発行は、つまるところ、お金の発行である。(ここのところの仕組みがややこしくて、経済の専門家たちはここの理解正解を巡って激しくマウントを取り合うのだが、つまるところそうだと、門外漢的には、とりあえずおいておく。)国が借金した分、世の中にはお金が回る。そのお金で、社会がうまく回っていれば、そのまま、国債を発行しては償還するというサイクルを回せばいいのである。税金と言うのは、世の中に出回ったお金の量を適切にコントロールするための手段でしかなく、財源ではない。というのが、MMTの人たちの主張する「税金は別に財源じゃないよ」論。初めて聞く人はびっくりするけれど、まあ、そういう主張なわけだ。


 で、「日本はGDP比率の国債が世界最悪」って言われて、確かにそうなんだけれど、これ、GDPがここ20年で成長していないから「比率」がどんどんひどくなるのであって、経済成長して、緩やかにインフレが継続し、適正にGDPが増え続けていれば、国債金額は膨れても、GDP比率は減少するんだよね。

 適度な経済成長とインフレが組み合わさって回っている状態では、国債発行の額は積み上がって行っても、GDP比率としては悪化しない。それが目指すべき状態、というわけだ。


 と、マクロで見ればそういうことなわけだ。まずは。

 これよりさらに左寄りの主張としては、「脱・経済成長」というのがあって、『人新生の資本論』の斎藤幸平氏なんかは、そういう主張に見える。


 人間や生物の生存に不可欠な環境を維持する方がより優先度が高い。経済成長を求めると、どうしても環境を破壊してしまう。持続可能な経済活動で、いちばん貧しい人も含めてきちんと生活できるようにするのに、経済成長は必要ない、持続的で小規模な経済が回る仕組み作り、その組み合わせで地球社会全体が回っていくように変化すべきだ論。

 これは、ややミクロな視点としては、なんとなく良さそうに聞こえるんだけれど、さっきの「国全体が緩やかにインフレ、緩やかに成長」することで持続するマクロな経済の仕組みが、これだと、詰まって死にそうなわけだ。


 なんか、こういうもろもろの議論を、「水が循環して、池なのか川なのか海なのか、水の循環と生態系の維持」みたいなモデルとして、経済というものの目指すことをイメージすることはできないかなあ、ということを、なんとなく思いついて、朝から考えているのである。


 まず、水がある程度の勢いで循環していないと、池の中の生き物は死んでしまう。お金が、ほどよく流れたり循環していないと、そこに生き物は生きられないのである。水にのっかって酸素や栄養分も隅々までいきわたる。水が枯渇したり淀んで腐たり、凍り付いたりすると、生物は死滅してしまう。


 経済成長不要論というのが危ういのは、「水は流れなくても、よどんでいても生物は生きられる」論のようなイメージだからなんだよな。いやあ、死ぬと思うよ。水、腐ると思う。


 一国経済が「池の中の生態系」で、他の池との間は、水路を通じてつながっていて、通路の間の水流は、国が管理できる、というのが、グローバル化以前の経済モデルだった。


 グローバル経済のいきつくところというのは、すべての国が、海の中にある、というイメージだよね。国の関門がなくなる。国がグローバル企業に課税できない。国を超えた金の動きをコントロールする権力がなくなる、ということ。


 MMTまわりの議論に話を戻すと。

 まず、「水はある程度動いていないと腐る。水が勢いよく流れたり対流したりしていることが、そこで生きている生き物の生存には必要不可欠」というのが、経済が回っているイメージ。 


 そのときに、池の中の水の量と流れについて、国だけは、水を作って、池の中に勢いつけて、流すことができる、というのがMMTの言うこと。別に池の中の水をポンプでくみ上げなくても、水は作れる、というのがMMTの考え。自分で作って、池の中に流し込むことで、池の中の水の巡りを作って、中の生き物をいきいきさせましょう。溢れそうになったときだけ、税金で、水を吸い上げて水量調節をすればいいんですよ。水があふれることを心配するよりも、よどんで、生き物が死ぬことを心配するべき時でしょう、今は。MMT、反緊縮派の言っていることはそういうことですよね。


 一方、緊縮財政均衡派の言うのは、池の中の水は、水は自動的には増えません。あくまで池の中から集めて、ポンプで加速して、池の中に戻すことしかできないので、池の中の水は大事に使いましょう、という考え方。流すべき水はあくまで組み上げた税金水しかないのです。だから、増税しますよー、というのが緊縮派、財政均衡派の言うとることだな。

 アベノミクスっていうのは何だったかと言うと、企業に対して、水を借りやすくするように低金利にしますよ、ということをやった。ので、池の中の水が増えたかというと、池の中の「大企業の中に、氷になって貯めこまれた水は増えたが(内部留保)」。池の中元気に滞留して、生き物を元気にする水は、全然増えなかったし、水の流れも滞ったまま」というのが、アベノミクスのやったこと。


 MMTが正しいのかどうかは、何度も書くが、僕にはわからないのだが、この「水比喩イメージ」での、水がある程度の勢いで、池の隅々まで対流していないと、生き物がどんどん死んでいく、というのは、経済問題をイメージするのに正しい比喩だと思うのだよな。


 いちばん弱い生き物も、ちゃんと水の流れが届いて、酸素や栄養が届いて、繁殖できるように、水の流れを作る事。が、経済政策としてやるべきこと。それを、「強い生き物にだけ水をたくさんやれば、おこぼれで弱い奴らのところにも、いずれ、水は流れていく」というトリクルダウン理論が全くの間違いだったことは、この30年の失敗で明らかで。サプライサイドの経済学、というのも、つまり全く不完全で間違いで。おそらくは、緊縮・財政均衡を、水の流れよりも優先するのも、間違いで。かといって、経済成長を否定するのも、どうも、間違いのようで。


 そういうことを考えた時に、あるべき「いちばん弱い人のところにも、新鮮で十分な水が流れていく」経済政策っていうのは、どういうものなのかしら。


 こういう「理想の経済の状態」を、誰もがきちんとイメージした上で、でないと、経済政策論争っていうのが、何を論じているのか、わからないと思うんだよね。

 経済学の専門家と、CGやなんかの専門家が組んで、各政党、それぞれの主張する経済政策はお金の流れをどう変えようとしているか、同じ解析モデルで、各政党ごとのそれをビジュアルイメージで比較できるようにできないかなあ、なんてことを思うわけである。

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