「認知症研究の第一人者が認知症になった」のNHKスペシャルを見て。私の老後を考えたの巻。
認知症研究、専門医の第一人者「長谷川和夫さん」が、90歳を超えて認知症になった。
「痴呆症」と呼ばれていたのを患者の気持ちを考えて「認知症」と名前を変えたのものもこの人なのだそうだ。
症状はまだそれほどひどくはない。講演会など、仕事もときどきある。
10歳近く年下の奥さんも、まだ元気だし、近くに住む娘さんが、生活の世話も、仕事の手伝いもしてくれる。
自宅の書斎、研究を重ね論文を書いてきた書斎を「俺の戦場」といい、いちばん好きな場所。
奥さんは、ピアノを弾く。ベートーベンの「悲愴」を。素人の、たどたどしいピアノだが、夫のためだけに弾く。それを聴くのが、なにより好き。
毎日、一回か二回、近所の行きつけの喫茶店に行って、コーヒーを飲むのが日課。娘さんが付き添ってくれる。そういう暮らしの中で、だんだん、確かさが失われていく。
「認知症と言っても、ずいぶん軽いし、家族はまだ元気だし、自宅ですごせるし、仕事だって続けられていて、こんなに恵まれている人はいないだろう」という声が放送後のツイッターにはあった。「徘徊や暴力暴言など、ひどくなった認知症患者とそれを介護する家族の苦労はこんなものではない」と。
一方で、「この、なりはじめのときの、本人の直面する気持ちとつらさを、こうして描くことには意味がある」という声もあった。
妻と見ながら、そして見た後、ずいぶん長く話し込んでしまった。
私のこれからの老後、どんなことが望みで、どんなことが「絶対に嫌」か、ということについて。
長谷川さんは現役医師時代、認知症患者を抱えた家族の負担を減らすために、デイケア・デイサービスの利用を推進してきた。自分の患者さん家族にも勧め続けてきた。
自分の症状がだんだん進んで、妻の負担が重くなってきたため、自分がデイサービスを利用してみた。
しかし、そこで、他の利用者と、何やらゲームをさせられている長谷川さんの表情は、限りなく暗い。死んでいる。
「ひとりぼっちなんだ、あそこにいっても。」
話の合う人などいないし、やりたくもないことをやらされても苦痛なだけだ。自分がサービスを受ける側になって、長谷川さんは初めてそのことに気がついた。かつての自分が言った通り、妻の負担を減らすためには、行った方がいい。
しかし、行っても苦痛で孤独だ。もうやめる。そう娘に告げると、娘さんに「お父さんが現役時代に始めたことでしょう」と責められる。
こんなことなら、死んだ方がいい。私が死んだらお前だって喜ぶだろう、なんて、娘さんに甘えて愚痴ってしまう。
長谷川さん、今後のことを考えて有料老人ホームの宿泊体験をしてみる。
騒々しい「朝の歌」が流れて目覚める。うんざりした顔で語る。
「ここにいるよりも、ごちゃごちゃしている俺の戦場に帰りたい。」
すぐ、家に帰ってくる。真っ先に、書斎にはいる。「ここへ来ると落ち着くんだ。」
どう考えても、未来の僕だと思った。
デイサービスに行っても孤独だ。くだらないゲームなんてやらされたくない。
老人ホームに入っても、いやだ。本がごちゃごちゃある自宅に帰りたい。
誰か知らない他人なんかと、つまらん世間話をしたりするのも苦痛なだけだ。
知らない他人とカラオケなんかしたくない。知らない他人、老人の歌なんて聞きたくない。
いい歳になって「先輩」入居者、「先輩」高齢者に気を遣うのなんて、死んでも嫌だ。
妻が先に死んだら、もう生きていたくない。
普通なら、他の人を馬鹿にするあなたが悪い。他の人と交流して、他の人の世話になって、生きていくしかないのよ、と説教されちゃう。
だから、リタイアしたら、まずは地域のコミュニティにはいっていって、少しでも役に立てることをしながら、新しい役割と人間関係を築くのよ。
趣味を持つのも大切ね。その中で、友人、仲間を新しく作るのもいいわね。
そういうアドバイスが、世の中にはあふれている。
事実、そういう、新しいリタイア後の人生を生きている先輩や同期の生き方をSNS上で拝見するたび、他人のこととしては、本当に素晴らしいと思う。
しかし、自分がどうするか、という意味では、正直言って、まっぴらごめんなのである。
一人で本を読んで、ものを考えて、少々、文章を書いて。
それは、ネット上でその文章を発見してくれる、ごく少数の知的な興味方向性の合う友人が読んてくれればそれでよく、(かつての同級生から、仕事で出会った方々の中の、読書や政治的意識の合う人たちに、読んでもらえればそれで大満足でありネット上で、全く見知らぬ誰かが読んでくれた、などということが起きたら、それは本当に望外の幸せなのである。)
加えて、私が死んだ後に、子供たちのうち何人かでも、「父ちゃんはこういうこと考えた人だったんだな、しょうもない人だったなあ」なんて、
ちらとでも読んでもらえれば、あの世で大喜びするだろう。
ギターを弾いて歌を歌うが。それは妻だけが聴いてくれればよいのである。他人様にお聞かせするようなクオリティではない。長谷川さんの奥さんのピアノ「悲愴」と一緒。夫婦の愛のもとにだけ成立する音楽、というのがあるのである。
長谷川さんのコーヒーにあたるのは、私の場合、紅茶。店に行く必要はなく、ネットで専門店や産地海外から購入する、少々贅沢なものを日々楽しめれば、それ以外の食や嗜好品の楽しみは、一切いらない。
幸いなことに自宅一階に柔道場兼トレーニングルームを作ったから、スポーツクラブに行かずとも、必要なトレーニングはすべてできる。
空手の基本、形と柔道の基本トレーニング、ウェイトトレーニング、バイク漕ぎは、まったく一人でできる。
むしろ、この年になると、乱取り、投げ込みなど対人練習は怪我のリスクが高いから
少年道場のようなところに顔を出して張り切ると、危険なのである。
この先生は、妻と、娘と、先生として呼ばれる場所と、喫茶店と、書斎。妻のピアノ。それだけあればいいのであって、それ以外の場所も人も、もういらないのだ。おぼろになっていく意識の中で、新たに出会う他者の中で孤独に生きていくのなんて嫌なのである。
僕も、おそらく、というか、間違いなく、そうである。今でもそうで、ますます、そうなっていくことは間違いない。
この番組を見ていて、そのことが、はっきりとわかった。今までも分かっていたことだけれど。
妻に先立たれて、健康を損ね、一人で自分の世話ができなくったら、どうするか。
オランダに行って安楽死かなあ。そういうNHKスペシャルもあったよね、と妻と話をしました。
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