『バートルビーと仲間たち 』。書くこと、書かないこと。読むこと。生きること。

しむちょーん、読んだよー。
『バートルビーと仲間たち 』単行本 – 2008/2/27
エンリーケ・ビラ=マタス (著), 木村榮一 (翻訳)

Amazon内容紹介
「一行も文章を書かなかったソクラテス、19歳ですべての著書を書き上げ、最後の日まで沈黙し続けたランボー、めくるめくような4冊の本を書き、その後36年間私生活の片鱗をも隠し続けたサリンジャー、ピンチョン、セルバンテス、ヴィトゲンシュタイン、ブローティガン、カフカ、メルヴィル、ホーソン、ショーペンハウアー、ヴァレリー、ドゥルーズ、ゲーテ…。共通する「バートルビー症候群」を解き明かし、発見する、書くことの秘密。書けない症候群に陥った作家たちの謎の時間を探り、書くことの秘密を見い出す―異色世界文学史小説。フランスの「外国最優秀作品賞」受賞作。」

ここから、僕の感想。書くこと、書かないことをめぐる、いろいろな作家についてのエピソード・断章が果てしなく続く。知っている作家より、知らない作家の方が多い。とはいえ、これ随筆ではなく、という日記を書き続ける、同じ症候群に向かい合う、無名の人物を主人公にした小説なんだよな。

中にわずかにはさまる、主人公のエピソード、本人の意識と生活のありよう、それと有名無名の、書かなくなった小説家、詩人たちのエピソード。

なぜ書くか。なぜ書かないか。考えることと読むことと書くことと生きることの関係。
僕は、つい最近、仕事(会社)を畳んで、読むことを生活の中心に移行したのだが、このタイミングで、こういう本を読むのは、本当に、めぐり逢いの不思議を感じるなあ。この前の沢木耕太郎の『無名』も、全く違う成り立ちなのだが、同じテーマをめぐる小説と言える。

この著者の視野は、英米フランスドイツスペイン、中南米、東欧など、広く世界文学を射程にしているけれど、当然、日本の作家、小説のことは視野の外にある。日本の近現代文学の中で、「ぷっつりと書かなくなる」小説家として、僕がどうしても気になるのは、福田章二=庄司薫。まさに、何作か書いた後、ぷっつりと書かなくなった。庄司薫の小説「赤黒白青」四部作は、軽い文体から風俗小説、青春小説と思われがちだけれど、明らかに三島由紀夫の豊饒の海四部作との対応を意識したものだ。
 三島由紀夫から村上春樹という一見無関係な流れも、間に庄司薫を置くと、見えてくるものがある。三島の『豊饒の海』と村上春樹の『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の間に、庄司薫の四部作を置いて、1960年代後半から1980年を考える。いくつかそういう視点の文学論が出ているが、三島と村上春樹という、多作な、書き続ける作家の間に、つかの間、書いて、ぷっつりと姿を消す庄司薫、バートルビー症候群の作家を置いてみるということについては、いずれちゃんと考えないとなあ、と思いました。

その他、断片的に思ったこと。小説側が「断章」の集まりなので、感想も断片的になってしまう。
①ランボーなど、詩人の場合と、小説家の場合の、バートルビー症候群の意味は、ずいぶん違うなあ。なぜ僕は小説は大好きだが、詩は全く好きではないのか、ちょっとわかった気がした。
②ヴィトゲンシュタインから、ソシュール、そしてロラン・バルトへと至る言語学、構造主義、記号論、ポストモダンが、小説を書きにくくした問題というのは、フランスあたりでは、日本より、かなり深刻な影響を与えたのだなあ。このあたりのことを全部、いったんどう自分の中で消化するかは、必要だな。(と思って、加藤典洋の『テクストから遠く離れて』を読んでいたの、途中で放り出していたのを思い出した。)
③そういう流れと無関係に、やはり、カフカはすごいなあ。カフカだけがなぜあんなに特殊なんだろう。
④セルバンテス、『ドン・キホーテ』も途中でほっぼり出していた。読まないといかんな。

「読書界で話題沸騰」って帯に書いてあったのだが、「読書界」っていう世界はどこにあるんだろう。そんなことを考えました。自分は「読書界」に属している、という人は必読かと思いますが、そうでない人には、退屈かもしれません。

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