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『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ(著), 若島正(訳) 変態性欲テーマだろうし、読むのちょっと敬遠していたのだけど、でも世界文学の最高峰ってどういうこと。どういうこと。読むとなるほどなあとなりました。

『ロリータ』 (新潮文庫) 文庫 – 2006/10/30
ウラジーミル ナボコフ (著), Vladimir Nabokov (原名),
若島 正 (翻訳)

Amazon内容紹介

〈「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う決定版新訳。注釈付。〉

Amazon内容紹介/文庫裏表紙

ここから僕の感想

 いままで読んでいなかったのは、まあ僕、そういう趣味ないし、読んでると、そういう趣味あるのと思われるのもなんだし、みたいな理由だったのだが、

 今回、急に読むことにしたのは、今月のNHKEテレ「100分de名著」が、哲学者のローティ『偶然・アイロニー・連帯』なのだが、解説は、昨年、読んで感想文を書いた『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か』と言う本の著者の朱 喜哲さんなので、テキストを買ってちゃんと見よう、と思っていた。で、朱さんがツイッターで「番組の4回目はほぼナボコフ『ロリータ』についてになります」と予告されていたのだな。ローティの本の後半で扱われているらしいのだ。

 哲学書は読むの苦手だから『偶然・アイロニー・連帯』の方は(実は昔、買って、持ってはいるのだが)読むの無理、と諦めているのだが、今まで遠ざけていた『ロリータ』の方は読んでみようかと思ったわけだ。

 でね、これ、新訳ということで、若島正さんという方が翻訳しているのだが、訳文もすごく現代的だし、その上、ものすごい若島さんの注釈がついているのだな。しかもですよ。注釈のはじめに

「以下は作品読了後を前提に執筆されています。作品の結末に関する言及もあるため、本文読了後にお読みください」

注釈p565

って書いてあるの。

 さらに訳者あとがきではちょっと長くなるが引用します。

〈『ロリータ』は何度も読み直すたびに新しい発見が次々と現れてくるような小説である。「人は小説を読むことはできない。ただ再読するだけだ」という『ヨーロッパ文学講義』でのナボコフ自身の名言どおりに『ロリータ』も読み直したときに初めて気がつくような仕掛けにあふれている。そこでこの文庫版では『ロリータ』再読への誘いとして、巻末に注釈をつけてみた。この小説を最後まで読み、そしてもう一度読み返すときに初めて分かるような事柄に触れている項目があるので、この注釈は初読ではなく再読のときにお読みいただきたい。〉

訳者あとがきp611~612

何度も読め、と。

 でもね、そう言われても初読から注釈読んじゃったんだけど。しかし、たしかに、注釈と関係なく、「あれあれあれ」ということがたくさんあって、途中で、何度も前に戻っては、あれあれあれどういうことだ、とあっちこっちひっくり返しながら読んだのである。

 訳者あとがきとは別の解説は、なんと大江健三郎さんが書いていて、いろんな角度から分析解説しているのだけれど、小説を書こうとする人にこれ以上ないテクストとしてすすめてきた、としてそのひとつの理由としてこんなことを書いている。(また引用しますね)

〈それはこの多面的な小説が、なだらかにつながる小説として語られていながら、幾章かごとに構成される、ひとつの小説ごとの分節化(はっきりと他の部分から切断して書く、という意味で私は使っている)が徹底していることにもよる。ここでひとつ「性愛の小説」という枠で囲むとすれば、ハンバートのロリータへの「性愛の小説」は、第一部第13章で幸福な結末に至っている。(中略)そののちの多くは痛苦に満ちた剥き出しの断片として点在する性交のイメージが、さきの「性愛の小説」としての至福な結びのクライマックスといかに対立するものかを、私らはいちいち思い知らされる。作品は実にストイックな「生きることの労苦の小説」に変わる。あるいはあからさまに逆転された「モラリストの小説」となる。〉

解説p617

 さて。ということでね。ここからこの大江さんの解説を踏み台に、僕の感想を書いていこうかな。

 この小説、大きくは「一部」と「二部」に分かれているのね。思い出したのが、数年前にヒットした映画、『カメラを止めるな!』なんだな。あれって、(ネタバレごめん)、何も知らずに「すごく良かったよ、大ヒット」という評判だけを聞いて、観に行くわけだ。僕もそうだった。そしたらばさ、自主製作ぽい不出来なスプラッタホラー映画が始まって、何十分かで終わる。え、これって何が面白いの??ホラーとしてそんなに出来がいいのかね。おれ、そんなに面白くなかったんだけとな。と思っていると、映画はまだ続いて、その不出来なスプラッタ映画製作時のドラマが始まる、それがもう抱腹絶倒の面白さ。それが分かって改めて初めのスプラッタホラー部分を見るともう爆笑。だから何度も見たくなる。二回目の方が絶対面白い。

 『カメラを止めるな』は、一部から二部で時間が巻き戻って「実は」ってなるわけだけれど、この『ロリータ』は、一部から二部に、滑らかに時間と出来事はつながっていくのだけれど、それにも関わらず、「実は、えーっ」ていうサスペンスになっているのだな。そこがすごい。

 大江さんの言う一部の途中までの「変態的ではあるが、主人公の一途なロマンチック性愛文学」が、いったん、なんか幸せな感じで終わる。読者はたいていそういう趣味はないはずだけれど、主人公がものすごく真剣に滑稽なくらい一途にそれを求めているのは分かるから、まずまず応援しながら読むような気分になり、それが成就したようなので、よかったね、と思うわけだ。第一部で。

 ところが、一部後半から雲行きが怪しくなり、二部になると、追い求めていたものをいったん手に入れたかに見えた主人公が、実は・・・ということが次々展開していくわけだ。実はどうだったのか、その伏線というかヒントというか、そういうものが、一部の描写の中に細かく細かく書き込まれているのである。『カメラを止めるな!』の第一部のホラー映画の中の不可解な細部いちいちに、第二部での抱腹絶倒の事情があるように、第一部で主人公が追い求め、手に入れたと思っていること、そのように事態が進んでいた時に、本当は何がどうなっていたのか。大きく言うと「一部」「二部」なんだけれど、大江さんが書くように、細かく分節化された構造の中で、幾重にも、主人公語り手の認識と本当に進行していた二人の関係、みたいなことが、巧妙に複雑に折り重なっているのである。だから、二回目、三回目と読むたびに、あ、ここに。あれ、これは、ということが発見されていくのである。『カメラを止めるな!』のような笑いと爽快感とカタルシス、みたいなことではなく、わかっていけばいくほど、性とか愛とか人が生きるということとかの喜劇と悲劇というか、滑稽さと切実さみたいなこと、でもときどきすごく美しい、そういうことが重なって波のように現れては変化し、消えていくのである。

 思い出した映画と言えば、デヴィッド・フィンチャー監督、マイケルダグラス主演の『ゲーム』と言う、主人公が謎のゲームに参加し巻き込まれ翻弄されていく、真相が見ている人にも主人公にも分からないままどんどんと進んでいくというのがあるのだが、

 この小説、第二部も半ばを過ぎたあたりで主人公はこう書く。

〈相手がたしかに成功したことが一つある。苦悩にのたうちまわる私を、悪魔のようなゲームにすっかり巻き込んでしまうことに成功したのである。〉

本文p441

 そんなわけで、そもそもの欲望のあり方が変態的だとか犯罪的だとか、そういう問題はそもそもあるのだが、しかし、そのことは読み始めると、もうだって主人公、そういう人なわけで、そのこと自体のことは、あんまり気にならなくなるのである、この小説。

 ちょっと注釈を加えると、世の中で「ロリコン」というと、小児性愛(幼児含む)みたいなニュアンスがなんとなくそうなっちゃっていると思うのだが、この主人公は、自分の欲望のあり方、対象の条件をかなり厳密に定義している。いやそうだからといって変態さんで犯罪なことに変わりはないのだが。

 引用します。

〈さて今から、次のような理論を紹介したい。九歳から十四歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間でなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を「ニンフェット」と呼ぶことを提案したい。(中略)その年齢の範囲なら、どんな女の子でもニンフェットだろうか?もちろん、答えは否。〉

本文p30

 ということで、美人かとかかわいいとかそういうことではなく、将来美人になるとか大人びているとかそういうことでも全然なく、その時期にだけ、ある種の年の離れた大人の男性にとって、特別な魅力を発揮する、もう妖精のような存在がごくまれにいる。しかもその年齢を過ぎてしまうと、もうそうではなくなってしまう。そういう特別な妖精のような存在なんだから、それに欲望を持っちゃうのはどうしようもないことだと主人公は考えているのだな。

 僕にはそういう趣味というか欲望はまるでないけれど、そういう人がいるのは知っている。そういう人が、この主人公も、自分の欲望が反社会的というか犯罪的と言うか、世の中に受け入れられないことは知りつつ、その欲望の成就を願うというそのことの、第一部は「幸福ないったんの成就」と第二部「それは人生という長さでは続きようがない」ということの悲劇が描かれるわけだ。だって、ある年齢を超えたらニンフェットじゃなくて人間になっちゃうわけだし。

 たまたまなんだけれど、ずいぶん昔に書いた朝井リョウの『正欲』の感想noteに、昨日「イイネ」をくれた人がいて、自分でも読み返したところだったのと、宮藤官九郎の『不適切にもほどがある!』で性欲とか変態とか、そういうことについてここのところ考えることが重なったのである。そして、本当は僕は「変態」と「性欲」と「愛」については若い時からというか幼い時からずっと考え続けているので、言いたいこと書きたいことは山ほどあるのだが、『不適切にもほどがある』で描かれている通り、コンプライアンス厳しくなる一方の今の世の中で、そのことについておおっぴらに語るのはどんどん難しくなっているのである。でもほんとは書いておきたいことがたくさんあるんだよな。ということを、先日、誕生日に来てくれた三男と話していたら、「そういうことが書けるのは小説だけ」と言われたんだよな。そういえば蓮見重彦もド変態な小説をかなりの年齢になってから書いていたもんな。そうかあ小説かあ。

 『ロリータ』なんて読んでいたら変態、いやーっと思われちゃう、と敬遠していた人がいたらいや、僕もそうだったわけだけど、読んだ方がいいよ。変態のことも、ちゃんとかんがえたほうがいいし、なにより文学って、小説って、そこでしか変態のことは考えちゃダメな世の中になっているから。




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