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『手紙 』ミハイル シーシキン (著), 奈倉 有里 (訳) を読みながら、現在のロシアの戦争・世界の戦争について考えた。今だからこそ、読まれるべき一冊。Part1 小説全体の紹介と感想


『手紙 』2012/10/31

ミハイル シーシキン (著), 奈倉 有里 (翻訳)

Amazon内容紹介

ワロージャは戦地へ赴き、恋人のサーシャは故郷に残る。手紙には、別離の悲しみ、初めて結ばれた夏の思い出、子供時代の記憶や家族のことが綴られる。だが、二人はそれぞれ別の時代を生きているのだ。サーシャは現代のモスクワに住み、ワロージャは1900年の中国でロシア兵として義和団事件の鎮圧に参加している。そして彼の戦死の知らせを受け取った後もなお、時代も場所も超えた二人の文通は続く。サーシャは失恋や結婚や流産、母の死など様々な困難を乗り越えて長い人生を歩み、ワロージャは戦場での苛酷な体験や少年の日の思い出やサーシャへの変わらぬ愛を綴る、二人が再び出会う日まで。

ここから僕の感想

 ものすごく説明的なAmazon内容紹介なので、まあ、そういう小説なのだが。なかなかに分かりにくい小説ではあるので、ゆっくり解説しながら、読みながらあれこれと考えたことを書いていきたい。

 作者ミハイル・シーシキンについても、この『手紙』という小説についても、ロシアのウクライナへの侵攻以降、新聞や雑誌で、ロシアの現代文学と戦争について論じられる際、度々、言及されてきた。その視点で考えたことがたくさんあるので、後半ではそのことについて触れていきたい。それを語るには、義和団の乱についての解説をはさまなきゃいけないな。ということで、いつも以上に長い文章になりそうだが、とりあえず、やってみよう。

この本との出会い

 その前に、この本との奇妙な出会いについて、まずそこから書き始めようかと思う。

 ウクライナでの戦争が起きる前だが、コロナ流行が始まってしばらくたった2020年9月に、僕はこの本を購入して、そして今まで読まずに「積読」状態であった。この本の購入に至る経緯はこうであった。

 都内で暮らす僕の7歳年下の妹というのは、企業の法務部で企業内弁護士として働いている仕事のできる実務家なのだが、もともと高校時代までは文学少女だった印象があり、今でも大変な読書家である。

 その妹が、コロナで在宅勤務が増えたせいだったか、すこしまとまった休みがとれたせいだったかは忘れたが、「お兄ちゃん、何かお薦めの小説はないか」と私にSNSでメッセージをくれた。それなら、と紹介したのは、『通訳ダニエルシュタイン』リュドミラ・ウリツカヤ著。ロシアの人気女性作家の、素晴らしい傑作である。ポーランド生まれのユダヤ人青年が、先の大戦でナチスの迫害から逃れるために、初めはナチスの通訳として働き、次にカトリックの修道院にかくまわれ、そこでカトリックの神父になる決意をし(ユダヤ教じゃなくてカトリックなんだからこれは大変な話)そして、イスラエルに渡り、イスラエルの地でカトリックの教会を営む、という、にわかには信じがたい生涯を送った人の実話を、斬新な手法で小説にしたもの。これは本当にみなさんおすすめです。感想文noteへのリンクをいちばん下に貼っておきます。

 で、しばらくして妹から、これはメールやメッセージではなく、電話があった。
 僕が「どう、読み終わった?いい小説だったでしょう」と聞くと妹がこんな話をし始めた。
「ねえ、こんなバカな話ってある?」
かいつまんでいうとこういうことだった。
 僕のメッセージを受け取ると早速、『通訳ダニエル・シュタイン』を買おうとしたが、版元品切れで、Amazonでだが楽天ブックスだか、ネット通販古本を買ったのだった(このあたり記憶がかなり不確かだが。)
  いずれにせよ、送られてきたので読み始めたところ、お兄ちゃん(私のこと)から聞いていたのとも、本のカバーや帯に書かれた内容ともなんか違うなあ、変だなあ。お兄ちゃんが私に勧めるのは何でかなあ。いろいろ不審に思いつつ読み進めた。が、いつまで読んでも通訳の話は出てこないし、ほんとに変だ。と思って本のタイトルや奥付を見たりカバーをとったりしてみると、なんと、中身が、このシーシキンの『手紙』だったんだそうだ。カバーと中身が違っていたのだ。

「お兄ちゃん、この『手紙』は読んだことある?」
「いや、全然知らん。どうなの。新潮クレストブックではあるから、そんな変な小説じゃないでしょう?」
「うーん、まあそうなんだけど。悪い小説ではないなあ、とは思ったんだけど、とにかく、通訳は全然出てこないし、なんか・・・」と言葉を濁した。

 ということで、何か、妹に読ませるには不適切な本を、こんな事情で読ませてしまったので、なんだか責任を感じて、『手紙』ってどんな小説なんだろう、と僕も買ってみた。

 のだが、他にもいろいろ読む本はあって、「そのうち読む積読状態」のまま、二年が過ぎた。この本が僕の手元にあったのは、そういう経緯だった。

 そしてこのロシアとウクライナの戦争が始まると、シーシキンの名前や『手紙』のことがたびたび言及されるようになり、「そういえば持っているな」と思い、この度、ようやく読んでみたわけでした。

小説の基本構造

 兄が妹に勧めるにはちょっと不適切と感じただろう理由は、読み始めてすぐわかった。20歳前くらいの若い恋人同士。女性のほう、サーシャは医学生なのだと思う。男性ワロージャは文学を志しているのだろうか。ワロージャは徴兵され戦場に送られ、モスクワに残ったサーシャと文通をする。その二人の手紙で小説は構成される。のだが、初めの頃の手紙は、ラブラブ恋人同士が、初めて結ばれた夏の思い出、そのあとしばらく続く、性的な関係のみずみずしい記憶を、二人は思い出しては細部まで赤裸々に書く、という内容が、わりと大きな割合を占める。それは、「お兄ちゃん、こういう小説を妹に勧めるの?」って思うよな。

 妹に読ませてしまったということを頭から外せば、それは本当に美しい恋人の間の往復ラブレターで、うん、悪くないじゃん、と思った。

 その一方、Amazon内容紹介や本の帯にもあるので、ネタバレということにはならないと思うのだが、二人の生きている時間(というか時代)にズレがある、ということは、初め読んでいてもよく分からない。普通の恋人同士の文通に思える。

 海外文学を読むときあるあるなのだが、本国の人には「ああ、こういうことが書いてあるということは、いつくらいの時代のことだ」ということが分かるのだろうが、ロシアの事情に疎い僕には、二人の恋愛の思い出しか書いていない部分からは時代がよく分からないのだ。二人の交際の中心だったらしい別荘も、街の中の家も、時代がいつなのかはよく分からない。ちなみに別荘と言ってもお金持ちの別荘ではなく、ロシアやウクライナの都市に住む普通の人たちは、郊外に小さな農園つきの別荘を持っているのだということを、この戦争を通じて僕は知った。そういう別荘だと思う。

 作者も、初めは「時代がよく分からない普遍的な恋人同士」として描いているように思う。いや、そうでもないか。初めのふたつの手紙が、かなり意味不明なのである。

 小説は、女性のサーシャの手紙のこの一文で始まる。

昨日の夕刊を拡げたら、私とあなたのことが書いてあった。
また、はじめに言葉ありき —になるんだって。

そして、小説家か物書きを志望していたがワロージャがそれまで書いた日記やノートを二人で燃やした思い出について書く。そのいちばん最後の一文を燃やす前に呼んでしまったことを。

「天賦の才は僕を見放した」。あなたが私の手からノートをひったくる前に、見ちゃったんだ。

そして、この初めの手紙の最後の一文。

ねえ!
どうしてこんなに酷いことしたの?

 新聞にわたしたちのことが書いてあったってどういうことだろう。こんなに酷いことってなんのことだろう。ノートや日記を全部燃やしてしまったこと?それとも次の手紙で明らかになる、戦争に行ってしまったこと?どちらも違うような感じがするのだよな。あまりに分からない手紙から、この小説は始まる。

 その次、男性ワロージャの初めの手紙の冒頭の方は、こんな風に始まる。

あとは、どの戦争にするか決めるだけだった。だけど勿論そんなことは決めるまでもなかった。不屈のわが国ともあれば、何は無くとも諍いだけは不足した例がない。新聞を開くまでもなく、赤子を槍に刺し、老婆を強姦するような残忍な事件に溢れているんだから。なかでも。罪無くして殺された水兵服姿の皇太子は可哀想に思える。女子供や老人をどうこうっていうのは何だか聞きなれてしまったけど、あの水平服は…。


 水兵服の皇太子というのは、ロマノフ朝最後の皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフのことだと思う。レーニンの秘密警察により革命後の1918年に殺されている。だから、こう書いているこのときには、ワロージャも少なくともロシア革命以降の時代を生きている筈なんだが。しかし、結局この後、ワロージャは1900年の義和団の乱鎮圧の遠征軍に参加し、そこから手紙を送り続けることになる。ロシアの人が読めば、この皇太子の下り(1918年のことを過去の歴史として語っている)から、義和団の乱に送られている(1900年のこと)へ、というところに差し掛かると、小説内の時間が奇妙にズレてしまっていることがわかる仕組みになっていたわけである。(僕はそこでは全然、分からなかった。)

 ただし、初めのほうしばらくは、ワロージャが送られた戦争が義和団の乱であることは明らかにされていないから、その段階では時間のズレには読者は気づかない。というかまだズレていないのかもしれない。

  初めのワロージャの手紙では、ワロージャ自身がというよりも、作者シーシキンが、「どの戦争にワロージャを送ってやろうか」と選んでいるように感じられる。

 そして、翻訳者による巻末解説では、作者の言葉を引用しながら説明している。

 しかしなぜワロージャは、他のどの戦争でもなく、1900年の中国で義和団事件の鎮圧に参加しているのだろうか。その理由を作者はこう語る。

 _これは、すべての侵略戦争のシンボルなんだ。世界大戦はもう起こらないだろう。だが、アフガニスタン、イラク、オセチア…そういった、強い国がよってたかって弱い国を潰しにかかるような戦争は、今もなくならない。ロシアもまた、二十世紀初頭に義和団事件鎮圧という名目で連合国軍と共に侵略戦争をし、多くの兵を送った。ところが今のロシアの義務教育では、それを教えない。

「忘れられた戦争」ではない。「忘れさせられようとしている戦争」なのだ。ワロージャはその史実に言及するために、1900年へと旅立った。作中でワロージャはこう語る。ー「もしかしたら僕は、すべてを見届けて書き留めるためにここに来たのかもしれない」と。

 というわけなのだが、さっきも書いたが、読者は(僕も)しばらくは、この時間のズレの仕掛けに気づくことなく、この小説を読み始める。初めのふたつの手紙はあまりに意味不明なので、とりあえずそのことは棚上げして読み始める。そうすれば、戦争で離ればなれになった若い恋人同士の手紙のやりとりとして、普通に読んでいけるのである。

 そうしているうちに、はっきりと「あれれ」と思うのが、しばらくして、いや、正確にいうと417頁ある小説の108頁目のサーシャの手紙で、ワロージャの訃報が家族に来て、サーシャも知らされてるという内容が出てくるところ。

 あれれ、ワロージャ、戦死しちゃったの。もう文通できなくなるじゃん、と僕は思ったわけだが、ところが、その後も手紙のやりとりは続く。ワロージャは義和団の乱に参戦している生々しい戦場の記録を書き送り続ける。一方のサーシャの手紙では、サーシャの人生の時間はどんどん加速して先に進んでいく。

 ここまでくると、流石に何かおかしなことがこの小説にはあると、みな気付く。

 どんどん変なことになっているのに、二人は平然と淡々と手紙を書き続ける。サーシャは、しばらくワロージャの死のショックを綴る手紙を書いていたかと思ったら、恋人への手紙なのに、妻子ある年上の男性と出会い「結婚します」という手紙を書くのだから。

 恋人が戦死しちゃったので、それを受け入れて人生を進めたのだな。それを死んだ恋人にあてて、手紙として報告しているのだな。女性サーシャの手紙だけなら、そう読める。

 サーシャの手紙では人生がずんずん何年も進んでいく。結婚生活。その破綻。自分自身が中年の女性になっていく。老いた両親の死を看取っていく。一人の女性の人生のまるごとが、恋人への手紙で語られていく。少なくとも二十年くらいは小説全体で過ぎていくのである。サーシャの方の時間は。

 ワロージャの中国での戦争の時間は、小説全体でもほんの数か月の時間経過である。ロシア国内のどこかで訓練を短期間受けた後、天津の先にある港に上陸し、天津の攻防戦があり、その先、北京に向けて進軍していく。義和団の乱の史実に従えば、6月くらいに上陸して、8月くらいに北京に向かう。ずっと暑さに苦しむのは、夏の間の戦争だからだ。

 まったくかみ合わない時間軸の中で、二人の手紙は、相手に読まれているのか読まれていないのか定かでないのだが、とにかく交互に小説の上では配置されて、小説は進んでいくのである。あくまでも、愛する恋人に語りかける形で。初めの方はたしかに届いていたようなのだが。

 若いときに戦争で恋人を亡くした女性の、その後の人生の物語と、義和団の乱で命を落とすまでの短い期間に、ロシアに残した恋人に手紙を書き続けた若い兵士の物語が、交互に、相手にあてた手紙として、きちんと響き合って展開していくのだ。

 どこに注目してこの小説を読むか、それは人により、様々な読み方ができると思う。サーシャの一生の物語として、現代のロシアに生きる女性の、仕事と家族と結婚と、そういうものを描く小説として複雑なドラマが描きこまれている。サーシャは産婦人科の医師になったのだと思う。命を助ける仕事についたつもりが、時にはというか。かなりの頻度で中絶手術をすることに苦悩を覚えつつ、働いている。サーシャ本人も、結婚相手も、父も、母も、友人も、結婚生活の上での問題(およそどれも不倫・浮気問題なのだが)を抱えている。仕事と家族と結婚生活、子どもと親の関係、親の死、恋人の戦争による死以降の彼女の人生も、死の影が深く差す。そこから生の意味を考えていく内容が語られていく。

 もちろん、主人公二人の、死も時間も超えた愛のドラマとして読むこともできる。別の時間を生きながら、時間も距離も遠く離れながら二人のそれぞれの中で育っていく愛。これがこの小説の中心のようにも思える。この小説を読んでいるとき、ちょうどテレビで新海誠監督の「君の名は」をやっていて、そう、時間と空間がズレた二人の間に育つ愛という意味では、ちょっと関係がある。似ているわけではないけれど。

 あるいは、「はじめに言葉ありき」から始まり、ワロージャは戦争の中でもひたすら「書くこと」の意味を考えながら生きる。あるいは、生きることと死ぬことと書くことの関係を考える。宛先の、読む人のことを思い浮かべて書く文章が手紙である。生と死と愛を「書くこと」から見つめた、いかにも文学らしい小説、ともいえる。

 ここまでが全体を俯瞰しての感想なのだが、ここからは、このロシアとウクライナの戦争の時期に、戦争についての小説としての、ワロージャの「戦場レポート」のような手紙を中心に論じていきたい。

 ここから先は、「時間のズレ」という小説の仕掛けのことも、あるいは「書くことと生きること死ぬこと愛すること」というこの本の中心主題も扱わない。いやそれどころか、女性側のサーシャの人生についての方の手紙についても扱わない。「戦争」に偏って分析するのは、この小説全体の読み方としては邪道だと思う。この小説を論じるというより、この小説の一部を素材に、ロシアの、そして世界の戦争を考えるという文章に移行する。

 「ロシアの戦争」「忘れさせようとしている戦争」についての記録、戦場に送られた一青年の体験を通して、手紙を通して見えてくる戦争について考えていく。それを、ロシアがウクライナに攻め入る現在の戦争と重ねたり比較したりしなが考察していく。

 ※あまりに長くなるので、前半、ここまでにして、
『手紙』=一人のロシア青年が体験、記録した義和団の乱を舞台にした小説を読みながら、ロシアの戦争・世界の戦争を考える、
という後半は別の独立したnoteにしたほうがよさそうである。では、とりあえず、前半、おしまい。後半に続く。(現在鋭意執筆中)



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