『写字室の旅/闇の中の男 』(新潮文庫)ポール・オースター(著),柴田元幸(翻訳) 老い衰えていく中での「小説を書くこと」と、実人生と文学作品の中で入り組む「パートナーや家族との愛と性」「国の歴史や政治の暴力」、その関係性を何重にも折りたたんで小説にしていく。老いがひときわ身に染みる二篇でした。
写字室の旅/闇の中の男 (新潮文庫) 文庫 – 2022/8/29
ポール・オースター (著), 柴田 元幸 (翻訳)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
この前、人生初ポール・オースター『ムーン・パレス』を読んで、ますまず面白かったので、
次、もう一冊と思い、普通なら、出世作ニューヨーク三部作なる『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』というのを読むのが普通だろうなあと思ったのだが、Amazonレビューだったかツイッターだったか、いろいろ読んでいたら「あなたが老人なら『写字室の旅・闇の中の男』がいいよ、と言ってくれているのを発見したので読んでみた。
Amazon内容紹介を見ての通り、「写字室の旅」のほうは、代表作の登場人物が続々登場してくるので、読んでいないとわけがわからないかなあと思ったので、『闇の中の男」から読んだ。
それだけで感想文を書いてしまおうかと思ったが、ちょうど11月2~4日の小旅行に行くのに文庫本を持っていこうということで、旅行中に「写字室の旅」のほうも読んでしまった。
どちらも、老人が、老いの衰えの中で、小説を書くというか、物語を頭の中で作るという話が出てくる。どちらも主人公は、肉体が衰え、人生「あとは死ぬだけ」みたいな状況になっている。
「写字室の旅」の方の老人は、自分が誰でどうしてそこにいるのかわからない部屋に閉じ込められている。謎の設定である。介護施設なのか、監禁部屋なのか。
「闇の中の男」の主人公は、妻に先立たれた72歳の書評家である。47歳の一人娘と、その娘23歳、つまりは孫娘と三人で暮らしている。彼は片足が交通事故で動かないので自宅で車いす生活である。「写字室の旅」と較べるとリアルだが、かなり悲惨な状況である。
「写字室の旅」の方の主人公のもとには、次々とポール・オースターの初期代表作の登場人物が訪ねてくるので(主人公には記憶がほとんど無いのでそうだとは分かっていない)、読者には、主人公は年老いたポール・オースター自身で、自分の作った登場人物に復讐されるためにこの部屋に閉じ込められているんだろうなあ、ということは読んでいれば割とすぐ想像できる。
「闇の中の男」の主人公は小説家ではなく、プロの書評家として何十年も新聞や雑誌に書評を書いてきたが、今は家にこもっている72歳の老人である。
心に傷を負って引きこもりになっている孫娘(映画を大学で学んでいた)と一緒に昼間は映画を観るだけの生活を送っている。47歳の娘も作家の評伝を書いている文学の人である。
主人公は書評は書くが小説を書こうと思ったことは全く無かったのだが、妻を亡くした喪失感と眠れぬ長い夜をやりすごすために、文字では書かないが、ベッドの中の暗闇の中で、頭の中で毎夜、物語を捏ね上げている。その「書評家老人が頭の中で捏ね上げている小説、物語」がこの小説の半分くらいを占める。
この架空の小説内妄想小説というのが、この小説の書かれた時点(2007年くらい)でありながら、2001年のNYのテロがないかわりにアメリカが内戦状態になっている内戦状態パラレルワールドアメリカに突然投げ込まれてしまう男の話である。
今、アメリカ大統領選で、トランプが勝ったら内戦になるんじゃないか、みたいな状況で読むというのはとてもタイムリーな話である。そういえば観ていないけれど、アメリカが内戦になっているという世界を描く映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』というのもヒットしているようだしな。ポール・オースターの想像力は、まだトランプが政治家になる前から、アメリカが内戦になって何百万人も死者が出ている状況を想像していたのである。
「南北戦争」という集団的トラウマを抱えるアメリカ人にとっては、アメリカが内戦になるというのは、深層心理というほど深くないところで、常に可能性としてのリスクとして意識されているんだろうなあ。ここ半年ほど、南北戦争前後を描くフォークナー連作を読み漁ったので、なんとなくその感じというのは分かるような気がする。
「写字室の旅」の方でも、こちらは1830年くらいの(南北戦争よりだいぶ前の)アメリカと同じ地理条件を舞台としているが、政治体制も歴史も住んでいる民族も全く別の国である。いずれにせよ欧州からの移民が支配者となり、東西に国が分かれ、かつ先住民を支配したり虐殺したりしている。その内戦に巻き込まれた政府の人物の独白報告書らしきものを、閉じ込められた部屋で主人公老人が読んでいる。
はじめはそれが小説だとは分からず報告書として読んでいたのだが、途中で、どうも出来の悪い小説だと分かり(訪ねて来た人に教えてもらう)、頭の中でその続きを考え始めてしまう。こちらも文字では書かずに、声に出して語っていく。 というエピソードが、小説の後ろの方、1/3位を占める。記憶も肉体的機能も衰えて失われている主人公ではあるが、主人公は小説家ポール・オースターの老いた姿なので、小説の続きを語り始めると、調子が出て来てしまって生き生きとしてくるのである。南北戦争とそれ以前の先住民ネイティブアメリカンを滅ぼした原罪の意識を、並行世界のフィクションに転換したような小説内小説になっている。
二作に共通するもの
自分の肉体と頭脳の老い、パートナーを失ってなお生き続ける寂しさ、老いてなお性欲・色気だけはあるトホホな感じ、そういうことと、小説を書く、フィクションを作るという意欲だけは老いてもなんだか続いていく。いや、老いを生きていく中でどうしてもそれは発動してしまう。
そういう物語を作ろうとすると、個人的な問題だけではなく、アメリカの社会や政治の深い部分が自然ににじみ出てきてしまい、内戦について描くことになってしまう。それだけでなく、小説の中にまた、女性への愛や性についての過去の記憶と現在の願望とが色濃くどんどんと入り込んでくる。
小説家。小説、文学というものが、個人の人生、愛と性、家族、そういうものへの個人的体験が色濃く投影されながら、それだけではなく、常に、国の歴史、政治、政治的暴力と個人についての認識や潜在的恐怖、それとどう関わろうとしているかの態度、が折り重なって描かれるものだということ。
このふたつの小説が発表されたのは2007年、2008年。ポール・オースターは1947年生まれだが、60歳、61歳という年齢である。ちなみに今の僕が61歳。
描かれている主人公老人は、もう少し年を取っている。片方は72歳。もうひとつは年齢不詳だが、やはりそれくらいのようである。つまり、60歳になったポールオースターが、10年後、さらにもう少し先、老いていく自分に起きることを想像しながら、自分の人生の老い先に待ち受けることと、小説を書くということがその「老い」の中でどういうふうに自分に関わってくるのかを想像し創造した小説と言うことなのであろう。
老いの世界文学、老いの大河ドラマについて
あとはもう死ぬだけで、妻と自分のどちらが先に死ぬのか、それが、それだけが最も重大な関心事になっていく。後に一人で残されたくない。カズオ・イシグロもそうなっていく(『忘れられた巨人』の最終章)。
昨日の夜の大河物語『光る君へ』第42回「川辺の誓い」での藤原道長(柄本佑)も、政治的争いに疲れて、宇治川の川辺で、まひろ紫式部に「わしより先に死んではいけない」と関白宣言(関白じゃないけど)してから号泣していたもんなあ。老いの入り口に立って、この先は衰え死んでいくだけとなったときの人間って、こうなるんだなあというのが、小説を読んでもテレビドラマを見てもやたらと身に染みるお年頃になってしまっているのである。
カズオイシグロ『忘れられた巨人』も「光る君へ」も、そしてポールオースターのこのふたつの小説も、政治の争いについての深刻な問題を描いてはいるのだが、それでも個人の愛と性、パートナーとの別れ、そういうものに人はより強く囚われていくのである。どんな世界文学を読んでも、ガルシア・マルケス読んでもクッツェー読んでもそうだもんなあ。
そうそう、この上なく深刻な映画を観てすら、僕はそっちのことの方に、性と愛の方に心が囚われていくのである。最近、配信で映画「オッペンハイマー」観た後のFacebook投稿を引用しておしまいにしよう。
だからといって「オッペンハイマー」や「福田村事件」の政治的重さを見ていない、感じていない、考えていないわけではないのよ。そういう「公」「政治」の問題と「私」「性や愛」の問題が絡み合って、最後「性と愛」の方が残る。それが老いるということなのだと思うのだよな。