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『永遠の0』⇒(「アルキメデスの大戦」)⇒『ゴジラ-1.0』における「反戦・生命重視・国防・兵器開発」思想を考える。(小説家・百田尚樹氏&監督・脚本山崎貴氏の「百田=山崎文脈」としてまとめてみる)※盛大ネタバレあり

 『ゴジラ-1.0』を観たのをきっかけに、映画『永遠の0』と『アルキメデスの大戦』も見直して、あれこれ考えた。

ネタバレ注意報

※どの映画についてもネタバレと言うか結末ビックリ部分まで詳しく明かして論じちゃっているので、ネタバレ嫌な人は読むの絶対止めておいてね。論旨明確にするためにはそこまで明らかにしないといけなかったので。 

序論 前提いろいろ

 『ゴジラ-1.0』を見始めてすぐ、冒頭シーンを見て、ああ、これは映画『永遠の0』の、ある種、続編だなあと感じた。

 映画『永遠の0』の原作は4百万部を超える大ベストセラー、百田尚樹氏の小説である。百田尚樹原作・山崎貴監督・脚本の映画としては『海賊と呼ばれた男』もそうである。山崎貴監督は脚本も書くので、百田尚樹原作小説を映画脚本に脚色する、という作業を二回している。その中で、百田作品が大ベストセラーになる、その勘所のようなものを体得して、オリジナル脚本である『ゴジラ-1.0』を書くときにもその核となるものを注入した、というようなことが起きたように思われる。

 そう、『ゴジラ-1.0』は、山崎貴監督のオリジナル脚本で、百田尚樹氏は関わっていない。ので、百田氏はどんな映画だろうと期待し、しかし庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』には勝てないのではと言う不安をもって観に行って、「いや、これはシンゴジラを超えた」と大感動して、その感想をYouTube動画にアップしている。

百田尚樹チャンネル「感動ライブ「映画『ゴジラ-1.0』を観ました! 私的には『シン・ゴジラ』を越えました」

 百田氏も私同様、「これは『永遠の0』の続編、スピンアウトという感じの印象を受けた、けしてそうではないのだけれど、そう感じた、感動した」と興奮して語っており、そして同じテーマを掘り下げて、全くのファンタジーであるゴジラ映画として完成させた山崎監督の手腕に感激していることを、動画の中で繰り返し繰り返し語っている。

 百田氏は、両方の映画のテーマは「生きる」ということ「誰のために生きるか」ということなのだ。ということを力を込めて語っている。それは誰がどう見てもそうなので、その点、両方の映画とも、感動と共に「生きる」ということ「誰のために生きるか」ということを伝えているのだ。そのことに異論はない。そのことが両映画の大ヒットの原動力であろう。興行成績から見ても、圧倒的支持を、どちらの映画も獲得している。『永遠の0『』の興行収入は85億円、『ゴジラ-1.0』はおそらく米国での大ヒットもあり100億円を軽く超えそうである。

 百田尚樹氏が今年半ばに保守党を立ち上げ、その政治的意見や立場はかなり「愛国保守」的である。歴史観についても、左派リベラルからは「歴史修正主義」などと批判されることも多い。しかし、『永遠の0』と『ゴジラ-1.0』が、そうした極端な保守主義的映画かというと、そんなことはない。ここで語られているストーリーと、そこにおける「反戦と、生命尊重主義、戦中の軍部軍国主義への批判」は、百田氏のふだんの政治的な主張よりもはるかに穏健で、一般に受け入れやすいものに思われる。

 このあたりについて、加藤典洋氏は『世界をわからないものに育てる事』「1災後と文学 もう一つの「0」ー『永遠の0』と島尾敏雄、吉田満」の中で以下のように論じている。ちょっと長いが引用する。

 読後感をいえば、小説として、とりたててすぐれているとはいえない。それでも何の先入観もなく読むかぎり、どちらかといえば反戦的なメッセージを載せた、「感動的な」小説であるとも受け取れる。
 つまりこれが多くの一般読者を「感動」させたことには理由がある。作者が右翼的な言辞を吐いているからといって、ただ好戦的な作品と受けとるだけでは正当とは言えない。これが小説を読んでの私の感想である。
 事実、作者の百田は「特攻を美化している」、あるいは「戦争賛美」という批判に対し、インターネットのSNSで、自分はこの作品で「特攻を断固否定した」、「戦争を肯定したことは一度もない」と述べている。(『永遠の0』のウィキペディアによる)。映画『永遠の0』の監督山崎貴との対談でも、この小説のテーマは「生きるということ」と「戦争を風化させないこと」だと語り、監督山崎もこれに、原作は左右いずれのイデオロギーにも「全然傾いていない」と、応じている。
 監督との対談で、原作者はまた、自分はこの小説に「できるだけイデオロギーを入れなかった」とも語っている。(「百田尚樹×山崎貴 幸せって何だろう」朝日新聞digital、2013年12月30日)。
 ここで注意を引くのは、「できるだけイデオロギーを入れない」で、「生きる事」と「戦争を風化させないこと」をテーマにした特攻体験者の物語を書き、事実多くの人を感動させた百田が、同時に、現在の国家主義的首相をあからさまに支持し、2014年の都知事選での元航空幕僚長の候補者の応援演説では「南京虐殺はなかった」と述べ、保守主義者との対談では「憲法改正と軍隊創設」を主張する、ウルトラな右翼思想の持ち主でもある、という事実である。
 「反戦的」な小説によって人々を「感動」させている小説家が、「自分は国家主義者である」と、同時に公言している。しかもこの二つが本人にも社会にもさしたる不審もなくそのままに受けいれられている、ここには、小説の読まれ方に関し、小説と小説家と社会の間に、一種新たな関係性が顔を見せている。
(中略)つまり『永遠の0』が語っているのは、「イデオロギー」というものが立場によって着たり脱いだりできる―着脱可能であるーのに加え、いまや小説を書くにあたってもも着脱可能なものとなったらしいという、新しい事実である。
 百田は、この物語を書くにあたってイデオロギーを「入れない」ように気をつけたと述べている。その意味は、自分のイデオロギーを入れないように留意した、といことである。なぜわざわざそんなことをするのか、彼の言行をそのままに受けとれば、彼は右翼的なイデオロギーの持ち主なのだが、それを「入れ」れば人を動かすことができない。それを排した物語にしたほうが人をより広く深く感動させることができる。そう考え、それをカッコに入れた。それがここでの着脱の操作である。
 感動させるための物語、そういう物語にふさわしいイデオロギー。ここには「感動」と「物語」と「イデオロギー」をめぐる、新しい布置が顔を見せているのである。

『世界をわからないものに育てる事』p27~28

  さて、1948年生まれの加藤典洋氏はそのように、『永遠の0』、百田尚樹氏の小説と映画のことを読んだ。のだが、1963年生まれの私は、1956年生まれの百田氏、1964年生まれの山崎氏と同世代であるせいか、加藤氏とはちょっと受け取り方が違う。
 この映画で語られる反戦と生きる事と国防にまつわる考え方と言うのは、別に「感動のため」の無理やりな(本心とは異なる)ものではなく、1960年前後に生まれ、高度成長とともに育った戦争を全く知らない世代にとっては、最も受け入れやすい、自然な価値観として理解できるのだなあ。
 加藤氏のような「着脱」としてよりも、はっきりと一貫したある考え方として理解できる、という、そのことについて書いてみたいと思ったのである。本論で書きたいことはそのことである。

 加藤氏に同意できるのは、百田尚樹氏のことを「極右的・国家化主義者」と置いて、その作品をその色眼鏡で見て批判するのは筋違いである。ということ。そこまでは同意である。

 加藤氏は、作品が反戦的なメッセージであるのは、百田氏が、感動をより多く獲得するために、自分の極右的イデオロギーを「着脱、この場合は外した」のだ、と理解した。

 しかし、私には、百田氏や山崎氏がこの映画に込めた「反戦と国防」に関わるあるメッセージのつながり「百田=山崎文脈」と仮に置くが、それは百田氏にとっても山崎氏にとっても自然に本音で思っていることであり、かつ、それが日本国民のかなりのマジョリティにとっても、実はけっこう、受け入れやすいことであり、だからこそ多くの人に大きな感動をもたらし、大ヒットにつながった、と考えている。

 その「百田=山崎文脈」というのは、これから分析していくが、やや複雑だが、それなりに筋は通っているのである。いや、むしろここ何年も私がその周辺、戦争、国防、防衛政策、その他について考えてきたことと重なる部分が多いと、整理をしていて思った。

 私の友人にはどちらかというとリベラル系の価値観の人が多く、百田氏に対して批判的な人が多いような気がする。私が「百田=山崎文脈」は私の考えに近い、などと書くと、それだけで拒絶反応を起こして読むのをやめてしまうのではないかと懸念するのだが、できれば大事なことなので最後まで読んでほしい。いやここまでで十分、長いか。でも本論はこれからです。長いよ、ごめんね。

本論 大ネタバレしながら、両作品の共通点をあぶりだす。

 まず、『永遠の0』と『ゴジラ-1.0』の共通項を抽出し、その意味するところを考えていく。当然、盛大にネタバレありありである。結末までネタバレしつつ論じるので、ネタバレいやな人はここで読むのをやめましょう。

1 『永遠の0』

 『永遠の0』は、ゼロ戦が米艦に特攻する冒頭シーンから一転、現代(2005年)ある老婦人のお葬式シーンから始まる。残された夫、老いた男性、大石(夏八木勲演じる)は、特攻隊の生き残りである。三浦春馬くん演じるその孫、佐伯健太郎は、葬式で初めてじいちゃん大石と亡くなったばあちゃんが再婚だったことを知る。自分の母親、佐伯清子(風吹ジュン)はばあちゃんの連れ子だったのだ。じゃあ、本当の、血のつながっている本当のじいちゃんてどんな人だったの。三浦春馬と姉、吹石一惠は、本当のじいちゃん・宮部について調べ始める。すると、このほんとのおじいちゃんは特攻で死んでいることがわかる。特攻で死んだ本当のじいちゃん宮部(岡田准一)の妻マツノ(冒頭で死んだばあちゃん、若い時は井上真央)と娘(後の風吹ジュン、戦中から戦後すぐ赤ちゃん、春馬君のお母さん)を、特攻を生き残ったじいちゃん(老人は夏八木勲、若い時は染谷将太)が面倒を見て、後に結婚した、ということが物語の結末で分かる。そして、岡田准一演じる宮部という戦闘機乗りについては、調べていくと初めのうちは「腕前はぴか一の達人だったが、臆病者卑怯者で戦闘からはすぐに離脱してしまう」という評判をかつての同僚たちは語るのだが、より深く直接の部下やライバルたちに聞いていくと「妻と娘のためになんとしても生きて戻る」ということを優先していた人間であることがわかる。そして、一時、特攻用に学徒出陣で航空兵になった者たちの指導教官をしていた宮部が、なんとかして航空兵たちの命を守ろうとしていたこと、そして終戦直前、教え子、本多=若き日の染谷将太と同じ日に宮部=岡田准一は特攻に出撃するのだが、自分の乗るゼロ戦のエンジンに不調があることに気が付いた岡田准一は、その機なら途中で不時着用の島に故障で降りて特攻を避け生き残れる可能性があると考え、自分が生き残るのではなく、若い本多を生き残らせようと、本多と飛行機を交換する。「生き残ったら妻と娘を頼む」というメッセージを操縦席に残して。そして岡田准一は特攻で死に(見事な操縦技術で敵艦に体当たりに成功し大破損をもたらす)、染谷将太は生きて日本に戻り、井上真央とその娘の面倒を見て再婚する。というのがじいちゃん夏八木勲と、ほんとうのじいちゃん岡田准一の間にあったことだったということを春馬君は知るのであった。

 ①主人公は戦闘機乗り、最後に特攻隊員となるのだが、戦闘機乗りとして臆病・卑怯ものと言われている。のは、「死にたくない、生きて帰りたい」という思いがあるからである。死にたくはないが、操縦・空中戦の腕前は達人である。死にたくないのは家族を大切にしているからである。

②生き延びたじいちゃん、染谷将太⇒夏八木勲は、機体の不調で不時着用島に降り、特攻から生き残り、日本に帰る。特攻で死に損ねた、本来は自分が死ぬべきだったという思いを抱いている。

③生きて日本に帰った染谷は、自分の妻子ではない、恩人岡田准一の妻子である女性と子どもの面倒を見る、守りいつくしむことで、生き残ったものとしての責任を果たすだけでなく、「愛」のある家庭、世界を戦後、築く。

④日本軍の弱さ(米国と比較して)は、人命を軽視する作戦(特攻)、人命を軽視する兵器(乗員保護する性能が低い機体・装備)、全体に人命を軽視する思想にある、という批判が随所に描きこまれる。

2  『ゴジラ-1.0』

 では、『ゴジラ-1.0』はどんなふうに始まるかと言うと、これは、なんと、特攻機のゼロ戦が、不時着用の島に着陸するところから始まるのだ。操縦しているのは敷島(神木くん)である。神木くんは訓練時の操縦腕前は高いが、実戦経験はなく、いきなり特攻に出陣させられ、本当は機体が故障していないのに、故障したと偽って不時着用の島に逃げた。こちらは正真正銘の臆病者、卑怯者であった。腕のいい整備兵立花(青木崇高)にそれを指摘をされるがとぼけて誤魔化す。その夜、島がゴジラに襲われ、ゼロ戦の機銃で応戦するように立花に頼まれるが、敷島神木君は臆病者で、またしても逃げ出して、生き残ったのは神木君と立花だけ、あとの、島にいた整備兵たちは全滅する。こうして終戦を迎え日本に帰った敷島は、闇市で浜辺美波演じる大石ノリコと赤ん坊をひょんなことから拾い、一緒に暮らし始める。赤ん坊も空襲の時に死んでいく母親からノリコが託されたもので実子ではない。赤の他人の敷島とノリコと赤ん坊が敗戦後のバラックで暮らし始めるが、とにかく金が無い。そこで敷島は、米軍や日本軍が設置したままの機雷を除去する危険な仕事をする。木造船に乗り機雷を見つけては爆破するのである。そこで、元・海軍の技官、吉岡秀隆演じる野田らと出会う。その船がゴジラに襲われるがなんとか逃げ延びる。ゴジラはその後、銀座に上陸し、銀座で働き始めていた浜辺=ノリコは敷島をかばってゴジラが吐く核爆発的破壊熱線の爆風に吹き飛ばされ、行方不明となる。どう見ても死んだようだ。
 そして、ゴジラを倒すために元・日本海軍の精鋭が集められ、ゴジラと遭遇して生き延びた吉岡秀隆が作戦を考え、旧・海軍軍人と民間の会社が協力する。敷島も作戦に参加する。一機だけ奇跡的に残っていた秘密兵器的戦闘機「震電」戦闘機で、ゴジラを相模湾の作戦地点まで誘導する役割である。それだけでなく、もし吉岡の作戦が失敗に終わった時のために、敷島神木くんは整備兵立花を探し出し、戦闘機に爆薬を詰み、ゴジラに特攻する準備を密かにする。愛する浜辺を失って死を覚悟していたのである。しかし、神木君まで死んだら赤ん坊、女の子は一人ぼっちになるなあ。観客はもやもやする。
 吉岡は作戦会議の席上で「日本軍が負けたのは特攻や貧弱な装備、兵站の軽視など、命を大切にしない日本軍の戦い方が原因だったからだ。このゴジラをやっつける作戦は誰も死なない、命を大切にして戦うぞ」と宣言する。吉岡の作戦は海の深い所にゴジラを急速に沈め(フロンガスの泡で包むと沈むんだそうだ)、水圧でゴジラを殺す。ダメだった時は急速に浮上させ、そのショックで殺すというもの。これを実現するため、民間のテント、風船を作る会社が全面協力する。
 作戦実施するが、吉岡の作戦ではゴジラは死なず、神木君は結局ゴジラの口に特攻したか、に思えたが、この戦闘機、救命脱出装置がちゃんとあって(立花が後付けしたのか?)、神木君は脱出して生きのびる。しかも、浜辺美波も生きていたことがわかる。生きていた神木君、生きていた浜辺美波、みんな生きていて、主人公級人物、誰も死なない。生きててよかった、という映画である。大切な人を守るために戦うのは大事だけど、死んじゃダメ、特攻はダメだよ、という映画である。

①主人公は臆病で特攻隊から生き残る。死にぞこないである。臆病ではあるが操縦技術は達人である。
②生きて帰ってきた日本で、見ず知らずの女性と赤ちゃんを世話するようになり、愛を育む。
③愛するものを守るために、ゴジラと戦おうと決意する。そのためには死も決意するが、しかし、遺される子供のことを考えて、死んではならないとも同時に思う。
④旧・日本軍の戦い方は命を粗末にする戦い方だったが、正しい戦い方はできるだけ人が死なない戦い方である。旧日本軍への反省から、できるだけ人が死なない作戦、そのような兵器を開発することが大事である。

2作の共通点

 もういいかな。ねえ、この二作品、すごく同じ構造でしょ。『永遠の0』では、愛する女性と子供を守るために「死なないとがんばったけど、ついに死を選ぶ岡田准一と、その思いを託されて生き続ける染谷将太=夏八木勲」と、二人の人物が思いをリレーしていたのを、『ゴジラ-1.0』では、神木君が一人でその両方の役割を果たすのである。

 あとね、主人公は「腕は達人、命は大事、臆病者」という設定なのだな。岡田准一は「家族が大事」なのに対し、初めの頃の神木君は「単に臆病者」なのだが。

 これは、本当の戦時中には絶対に許されない価値観だったはずで、いかに達人でも、岡田准一がなんとか終戦近くまでその価値観で許容されていたというのは、設定としていかにも不自然なのだが、これは「現代の日本人の生命が何より大切という価値観を、戦争中に持っていた人物」というフィクションなのである。

 それから「腕前が達人、しかし戦わない」というのが結構、重要な要素である。『永遠の0』の方の岡田准一だと、実戦でもめちゃくちゃ強いのに戦わない、『ゴジラ-1.0』の神木君だと実戦経験が無いが腕前はいい、でそれぞれ性格付けは違うのだが。これ、なんでかというと、「武道の理想形」→「自衛隊の理想形(今のあり方)」を、戦時中の戦闘機乗りに投影しているということなのである。

 話がちょいとあらぬ方に行くが、YouTubeには「自衛隊は実はものすごく強い」という伝説を語る動画がけっこうたくさんある。米軍と戦車戦の演習をしたらめちゃくちゃ強かったとか、戦闘機の模擬戦を米軍トップガンとしたら自衛隊パイロットめちゃくちゃ強かった、とかいうようなものである。自衛隊はできてから75年、実戦はまだ一度もしていない。しかし、真面目な日本人がひたすら訓練を重ねているのと、武器兵器についても、国産戦車は優秀とか、アメリカから買った戦闘機をオリジナルにいろいろ改造して、とかで、「実はすごく強い」と思いたい気持ちが日本人にはあるのだと思う。本当の実力は、やってみないと分からない、ということだと思う。「絶体戦わないのに目茶苦茶強い」というのが、日本人が自衛隊に求める、理想の姿でありそれが岡田准一や神木くんに投影されているのだと僕は思う。
 現実の自衛隊で残念なのは、弾薬の持っている量は少なくて実戦が始まったらわりとすぐに弾切れになるとか、自衛隊員が怪我をしたときの、それぞれが保持している緊急エイドキットが貧弱で、負傷者が死んじゃう恐れが高いとか、日本軍伝統の(この映画二作で批判されている)、兵站と人員の命を守ることが軽視される、というのは、実はあんまり解決されていないとも言われていること。

 話はずれたが、繰り返しになるが、主人公二人の「腕は立つ、達人だが戦いたがらない、あるいは実戦経験が無い」というのは、現代の自衛隊を人格化して、それを先の大戦の中に投げ込んだ、という性格があるということである。

 腕は立つが戦いたがらない主人公。しかし、守るべきもの、家族、妻と娘のためには、戦わなければならないと覚悟を決める。

戦い方と兵器における、人命軽視→人命尊重

 しかし、できるならば、「命を捨てる」という戦い方は間違っているという強い主張が両作とも貫かれている。命を大切にしながら戦うという戦いかたをするようになるべきだという考え方。

 で、この戦い方の工夫をする吉岡秀隆は元・海軍技官だが、協力するのは民間会社の技術者である。これは庵野監督の『シン・ゴジラ』でも、最後の「ヤシオリ作戦」に民間会社が大活躍したのと同様で、主張として抽象化すると「日本オリジナルで、兵員の命を大切にするような、アメリカに頼らない戦い方を工夫するには、軍だけではできない、日本の民間企業の協力が必要だよね」ということを描いているのである。ここも大事なポイントなので押さえておこう。

 ところで、ここで「大切にする命」というのは、日本人、日本の兵士と日本の民間人の命である。岡田准一は最後に特攻に成功して米国戦艦に打撃を与える。おそらく米兵何人かは死んだと思うが、そのことはあんまり誰も気にしない。神木君に至っては、というか『ゴジラ-1.0』に至っては、ゴジラの命を大切にしようとかは、当然誰も思わない。ぶっ殺しにかかっているのである。そう、「命を大切にする」は、味方の命であって、敵の命のことは考えないという。これもけっこう大事なポイントである。

 戦争という敵味方双方の命のやりとりをすることに全体に反対することと、「味方の命、民間人も兵士も」守ることを大切にすることは、戦争に対する態度を考える上で、全然別のことだから。二作の共通点は「日本の兵士の命を大切にしよう」であって、敵を殺すのにまで反対するという「戦争絶体反対」の思想ではない。

 だから、この二作の哲学から導きだされる戦い方の工夫や兵器の工夫というのは、「味方の命を犠牲にせず、いかに効率的に敵を殺すか」、もう一歩進んでも「敵の民間人は殺さずに、いかに敵の兵器・兵士・軍幹部だけを殺すか」と言うことになる。それを目標に兵器開発をするとどういうことになるかというと、たとえば爆弾を積んだカミカゼ・ドローンなんかは今回のウクライナでの戦争でも大活躍をしているわけだ。敵戦車などに自爆攻撃、特攻をするわけだが、人が載っていないから自国兵士は犠牲にならない。しかし、敵兵器は破壊し、敵兵士は効率よく殺せる。ドローン攻撃については、アメリカ軍なんかは、米国内の基地で操縦して、中東で攻撃するドローンで、テロリスト幹部を何度も攻撃して、ただしけっこう誤爆して民間人も殺しちゃって問題になっていたりする。また、アメリカ軍兵士のメンタルの問題として「9時5時勤務時間は米国内基地でドローンを遠隔操作して敵兵を殺し、勤務が終わると普通に自宅に帰って家族と平穏な日常生活を送る」ということに、人間は精神的に耐えられない、精神に異常をきたす、と言う問題も起きているのだな。

 ドローンについてはさらに言うと、もともとドローンって「オスのミツバチ」のことなんだよね。すごく小さい昆虫サイズの、カメラ付きドローンで、テロリスト幹部を監視する、毒薬で暗殺する、みたいなことも、技術開発的には進んでいる。

 あと、戦闘用ロボットも「自国兵士の命は大切にし、敵は効率よく殺す。敵民間人を間違って殺さないようにしながら、敵兵だけを殺す」という目標を立てれば、今後も、戦闘用ロボットの開発は進む。(その使用について国際的にどう規制するか、禁止するかの議論も進んでいる。)
 ガザでも市街地上戦ではイスラエル兵にもかなりの犠牲が出ている。それは一個ずつの建物に隠れた敵を、一部屋ずつ制圧していく、という地道な戦いに地上戦というのはなっていくのであって、その過程では、部屋に仕掛けられた爆弾とか、白兵戦とかで、装備兵力で圧倒的に優位なイスラエル軍でも犠牲はかなり出る。イラク戦争やアフガンで、米軍に犠牲が出続けたのもそういうことである。これを避けようとすると、地上戦・市街戦用のロボット兵は、開発したくなるし、できれば実戦配備したくなる。

 というわけで、「自国兵の命は大切にする。民間人の犠牲は自国民も敵国民も出ないようにする。敵国兵士は効率よく殺す」という目標に向けて、兵器の進化(ドローン、ロボット、AI)は進んでいる。

 そして、AI、ドローン、ロボットなどの技術開発は、軍・大学・民間企業が効率よく連携し、軍事予算と大学の科学研究予算と民間企業の開発投資が連携している国の方が優位なのは、これは言うまでもない。米国、イスラエル、中国なんかはそこが連携している。これに対して、日本はそうなっていない。それに反対する声が強い。

 『ゴジラ-1.0』の、対ゴジラ作戦で、民間企業が旧・軍と協力する、というのは、「みんなで力を合わせていて、とてもいい」と映画を観ていると当然感じるのだが、その構図をいったん抽象化してから、日本の現実に投影しなおすと、「日本が愛する人を守るため、自前で兵器開発、軍事技術開発をアメリカに頼らずしようとするなら、民間や大学との共同作業がもっとスムーズにいくように、制度も意識も変えていかないと、できないよね」ってなると思うのだよな。

参考 アルキメデスの大戦における兵器技術開発と人命尊重

 ここで、もうひとつの山崎貴監督の架空戦記映画、『アルキメデスの大戦』の話をちょいとしようと思う。もともとは三田紀房によるマンガなわけだけれど、そのごく初めのエピソード、戦艦大和の建造をめぐるものだけを、山崎監督で映画化している。この作品も百田尚樹氏は全く関係ないのだが、山崎監督が『永遠の0』を通じて形成した、戦争についての考え方が投影しているなあと思うので、脱線だが、ちょいと論じる。

 時代は第二次大戦よりちょいと前。昭和8年。主人公は、東京帝大数学科の、100年に一人の天才と言われた櫂 直(かい ただし)という若い元・大学生。菅田将暉君が演じる。なんだけれど、軍事産業財閥の令嬢、またしても浜辺美波演じる、との密通を疑われ帝大も退学させられちゃっている。この菅田君が、次の主力艦建造計画で「これからは航空戦の時代だから空母にすべき」という山本五十六少将と、大艦巨砲主義、超大型戦艦(大和)を主張する平山忠道造船中将が対立する中で、海軍内の動向としては平山中将、大和案優勢のなか、逆転を計る山本五十六が菅田将暉=櫂と出会って、平山案の過小見積もりを暴くために、櫂を海軍経理局の少佐に抜擢する。正確な設計書も見積書も軍の機密を盾にしての妨害工作で手に入らない中、数学の天才・櫂=菅田君がどうやって巨大戦艦の建造費を見積もりしていくか。浜辺の活躍、民間の造船会社社長、鶴瓶さん演じる、の協力もあり、、、。映画最後の方はなかなか複雑な終わり方なので、割愛します。

 本来はアメリカの大学に留学することになっていた櫂が、なぜ山本五十六の依頼を受けたかというと、大和ができちゃうと、日本人はその力を過信して、アメリカとの戦争に走ってしまうから。大和建造を阻止することで「アメリカとの戦争を防ぎたいから」というのが理由だったのだな。反戦の思想である。その一方で、櫂は、より「戦えば強い」兵器のための技術開発と実現に、マンガの中でもどんどん大活躍していくのである。

 愛する人を守るためには、まず戦争を回避しなければならない。しかし愛する人を守るためには、どこの国よりも先に、より強力な兵器を開発し、保持しなければならない。マンガの中では、ゼロ戦の開発からガスタービンエンジンの開発からロケット(弾道ミサイル)開発まで、数学の天才を活かして、櫂は大活躍していくのである。

 この映画の冒頭は、戦艦大和がアメリカ軍の猛攻で沈没するシーンを、山崎監督得意のVFXで描いているが、ひとつ、「日本軍の人命軽視と米軍の兵員人命重視」を対比させるシーンがある。劣勢の中で、大和の機銃手が、米軍戦闘機をやって一機・撃墜する。「やった」と喜ぶ機銃手。戦闘機パイロットはパラシュートで脱出し海面に。しかしこの乱戦の中、あのパイロットはやがて海に沈んでしまうのか、と思って見ていると、米軍の救助用の水上飛行機がすぐにやってきて、パイロットを救助して飛び去って行く。それを見ていた大和の機銃手がショックを受ける。「日本軍が特攻攻撃だと(大和も最後は沖縄に乗り上げて砲塔となる特攻出撃であった)というのに、米軍はすぐに兵員を救助しながら戦うのか。その差が、この戦争の結果なんだろう」、ということを表現するシーンを、冒頭にわざわざ入れているのである。

 つまり、櫂=菅田は、数学の力で日本を救いたいと、軍に入り、兵器技術開発に進んでいくのだが、彼は単に殺戮のための、兵員の命を軽視した兵器ではなく、本当は、兵員の命も守る兵器を開発しようとしていくのだろう、そこには軍の体質との葛藤がこの先、待ち構えているのだろう。そういうことを予感させるようなことを、山崎監督は狙ったのではないかなあ、と思うのである。

「百田=山崎文脈」のまとめ

①命を大切にするならば、まずは臆病であってよい。できるだけ極力・戦わない。極限まで戦いを避ける努力をすべき。たとえ臆病と言われても、生きること、生き残ることを求めるのは人間として正しい。
②そのような「現代的生命至上主義の臆病さ」をもつ人間を先の大戦の軍の中に置くと、そこには葛藤・ドラマが生まれる。(あり得ない不自然さも生じる)
③その葛藤・ドラマは、旧軍・かつての対外的には好戦的で軍内部で権威的、暴力的だった旧・日本軍のあり方、生命軽視の価値観への強い批判として表現される。(そしてやはり、あり得ない不自然さも生じる。)

このような設定の「非現実性、不自然さ」というものに対して、山崎監督は、VFXのリアリティという武器で、「理屈で考えると不自然だけれど、映画として観ると、納得できてしまう」という魔法をかけるのである。

④自ら戦いを始めることは絶対にしないとしても、敵が攻めてくる、という状況になったら、愛する人のために、戦わねばならない。愛する女性・赤ちゃんという、「守るべきもの」を、血のつながった肉親だけでなく、より大きな、普遍的な意味を持たせるために「血のつながっていない女性、赤ちゃん」という設定を好んで用いている。

⑤しかし、そうした大切な人を守るための戦いも、かつての日本軍のように、兵士の人命を軽視した、兵士の犠牲を当然としたものであるべきではない。愛する人のためにも「命をかけて戦う」ではあっても「死んではならない」のである。そこの葛藤、「自分が死んでも守る」と「自分が生きて帰ることを愛する人も望んでいる、待っている」という葛藤が、戦争をめぐる最もドラマチックなところである。

 ここらあたりまでが人間のドラマについてだが、ここから、軍のあり方、戦い方の選択、兵器開発の思想に踏み込んでいく。

⑥できるだけ自国兵士の命を大切にした戦い方をしなければならない。戦い方も、兵器の開発も、そのことをより重視すべきである。

⑦愛する人を守り、かつ自国兵士の命も守るためには、兵器も、兵士の技量も精強でなければならない。できるだけ戦いを避ける意志と共に、戦えば最強である、という技量を持たねばならない。

⑧精強であるためには、軍事技術や兵器の開発に、民間の英知も学術研究の英知も結集しなければならない。アメリカなど外国の兵器、技術に依存しきらずに、日本の自前の軍事・兵器技術開発を高水準に保つ体制の構築も必要であろう。

 このあたりは、戦後から現在の日本の米国への従属をテーマにした庵野監督のほうの『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』とも重なってくるテーマである。

 こうした「百田=山崎文脈」について、リベラル左派側から、「好戦的」とか「戦争肯定」と批判されるのは、半分は的外れだと思うが、しかし理解できなくもない。
 まず、百田氏や山崎氏が言う通り、ふたつの映画はむしろ「反戦的」であるし、旧軍への批判的視線での「戦争を忘れないこと」に向けられているのは事実である。この部分を理解せずに、この二つの映画を「戦争肯定映画だ」というのは、それは、なんというか、「百田だから」ということでの批判であり、加藤典洋氏の分析する通り、的外れで、作品をまともに読めていない批判だと思う。

 ただ、その延長線にある、それでも「自らは決して先制攻撃はしないとしても、自衛隊は精強であるべきであり」「自衛隊が精強であり、かつ自衛隊員の命がより守られる戦い方をするためには、兵器や装備も最新最強であり続けなければならない」し、それを完全に米国に依存従属するのではなく、「日本独自の軍事技術・兵器開発のためには、大学における軍事研究や民間との協力」という方向に、この「百田-山崎文脈」はつながっていく。この点を「好戦的」と批判する立場は、それはありうると思う。

 ただ、そのことまでも否定する立場に立つとすると、完全な非武装中立とか、ガンジー主義的無抵抗主義を国家として採用するという立場を取らないといけないはずなのである。

「いざというときは自衛隊、戦え。しかし、武器は貧弱、エイドキットも貧弱、弾薬は少ししかない状態で良い」では、これでは、自衛官に「戦って死ね」と言っているようなものである。リベラル左翼の意見に賛成できない。リベラル左翼の方が(自衛隊員の)人命軽視である。

 米国軍事産業の言われるままに高値で古い兵器を売りつけられていることを批判するのは正しいと思うが、それでも自衛隊員に命を大切にする、しかも精強な自衛隊であってほしいならば、自前の技術開発により大きな予算が投入させる方向に政策を転換すべきなんじゃあないかなあ。

 『ゴジラ-1.0』を観たのをきっかけに、映画『永遠の0』と『アルキメデスの大戦』も見直して、あれこれ考えた。という文章でした。

おしまい。

 




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