『わたしだけがいなかった街で』柴崎友香をめぐる、読書わらしべ長者体験。

読書していると、「読書・数珠繋ぎ」というか、「読書・わらしべ長者」というか、そういうことが起きる。ある本を読むと、その本の中に、他の本の話が出てきて、あ、面白そうだなと思う、そうやって知った作家さんが、どこかで他の本を薦めていると、その本も気になったて買ってみたりする。

 加藤典洋氏の『世界をわからないものに育てること』という、文学評論の本を読んでいる。1.災後と文学 「復元話体のなかで  大震災と柴崎友香『わたしがいなかった街で』」という評論が大変に面白い。のだが、この小説自体を読んでいないので、よくわからない。ので、読んでみた。
 
加藤氏の文章は、精神科医で評論家の斎藤環氏が「“災間”の文学のなかで」という評論の中で、この小説を取り上げ、特に高く評価していることに共感しつつ、さらに精緻に分析を進める、という、かなりマニアックに細かい小説論なのだが。僕も「作品論と作家論の間を行ったり来たりする文学評論」をあれやこれやと考えたり書いたりする中で、「小説における語り手の移動、一人称と三人称、それが一作品の中で同居するときの、小説家の狙い、意図」問題には敏感な方なので、そこを支点にしながら、震災と文学の関係を分析するこの評論は非常に面白かった。とはいえ、まずは、やはり、その小説そのものを読まないと。読んでみた。
 
 これがまあ、素晴らしい小説でした。しむちょん影響で海外文学の翻訳を読む比率が高くなっているわけですが、日本人作家の、日本語の小説を、日本語ネイティブな僕が読むときの、呼吸が楽にできる感じ、(知っている舞台、場所で、知っている言葉で語られることのもたらすもの。)だからこそ、加藤氏が論じている、異様に細かい様々な指摘について、あれこれと賛成したり反対したりするという思索と、小説自体を味わうことを同時に苦も無くできる感じ。そもそも、読者が小説世界で楽に息ができるように、小説を書くことができること自体、すごい才能だと思ったわけだ。そして、いくつもの異なる語り手視点の文章を、滑らかにひとつの小説につなげていくその腕前。しかし、さらっと読んだとき、これは震災後小説とは、ふつう、読めないのだ。
この小説を「災後文学」として読む斎藤氏と加藤氏の、非常に難易度が高い読解分析。どう考えても「直接は、一切、震災について書かれていない小説」を、なぜ、二人の評論家は「震災後小説」として、その最高傑作として読んだのか。

 そのときは生きていた人。今は死んでいる人。今も生きているけれど、会えない人。この先もおそらく会うことは無いけれど、生きている人。そういう人との様々な距離。ユーゴ内戦はじめ戦争ドキュメンタリーを執拗に見続ける主人公。肉親の戦争の記憶を考え続ける主人公。そうしたエピソードの重なりは、震災について何一つ語っていないのに、震災後に、2010年の夏を舞台に描かれることで、これは震災を直接語らない、災後小説なのだ。と。
 
 というわけで、非常に優れた評論家二人が、震災後小説の最高傑作と評価しているのに、震災については一切触れられていない小説ってどんなだろう?って、興味、わきません?

そしてこの柴崎さんの小説を読んでいる中、月末で、古新聞をまとめてトイレットペーパーと交換に出す日が迫っていたので、ここ3か月くらいの新聞(日経と朝日)に全部目を通して、気になった記事、特に読書、本関係の記事を切り抜くということを先日していたら、この柴崎友香さんが、『ジーザス・サン』デニスジョンソン著 柴田元幸訳 白水社 というのを読書欄で、勧めていたわけです。すごく有名な作家の、すごく有名な短編集、らしいのですが、不勉強で知らなかった。ので、買って、今日から読み始めているわけです。日本語の、自由に息ができる日本の現代小説世界から、再び、苦手な水泳のような、下手糞なクロールの息継ぎをしながら、息絶え絶えになりながら読み進む、翻訳小説読書の世界に舞い戻るわけだ、これが。

 読書わらしべ長者生活、大変に楽しい。

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