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Mちゃんの冒険〜入眠ハンター編〜



何年も前のことですが、ヨーガ仲間であり職場では後輩に当たる存在、友人Mちゃんが、


『えみりさん、わたし、睡眠に入る瞬間を捕まえたんです!』


と嬉しそうに言っていました。唐突な話ですが。



「起きてる」から「寝てる」の境界は、ふつう、まどろみの中で通り過ぎてしまうものだとは思いますが、Mちゃんは、

『はい、ここからが眠りです』

という瞬間を自覚的に捉える事に挑んでいたようで、それが "マイブーム"だった時期があったようです。



その時、確か数年ぶりに会ってお茶をしてた時でした。有楽町のカフェにて。唐突な言い出しではありましたが、しかしあまり不思議でもなく、Mちゃんには元々そういう「何か一人で盛り上がってる不思議なブーム」みたいなものが度々あったのを思い出しました。そうそう、そういう人だよね、と。



Mちゃんのブームはたいてい「内的」なもので、外的な行為の伴うものではないことが多く(そういうのもあるのかもしれませんが、私の知る限り)、「自分の意識の潜在的なところ」を探るというのがMちゃんの興味として一番大きなところだったようです。たぶん今も変わってないんじゃないかなと思います。


「そういった傾向」の話になるのも、私たちの関係のバックグラウンドを知れば、なるほどと思うかもしれません。



Mちゃんとは、その何年か前に同じヨガスタジオのプログラム開発の職務に関わっており、「瞑想」のレッスンのプログラム開発や研修を一緒に担当していた時期がありました。



当時、私がメインとなってレッスン構成やその意図なんかをまとめていた瞑想クラスがあり、その内容を他のたくさんのインストラクターさんに落とし込む研修の際に、Mちゃんが研修担当のメンバーとして入ってくれました。それはとても適任で、Mちゃんは私が構成した瞑想クラスを「内的に」を理解し、人に教えたり伝えたりするときにどうしても起こってしまう「個人的なフィルター通過」の中で起きる「解釈の変容」を、なるべく本流からずらすことなく伝えることができる人でした。まあつまり、私と相性が良い、というところだと思います。


研修は1ヶ月単位で進行していて、その間に講義や実習が行われ、月末に終了テストをし、パスすればスタジオでプログラムを担当できるようになる、という流れでした。ですので毎月毎月研修を受けるメンバーは代わる代わる通過していき、私たちはそれを受け入れ、送り出す、というような感じです。来ては去るを見つめている感じですね。


Mちゃんとはその研修が行われていた時期(たぶん一年か二年)は、頻繁に会う月日でした。



「瞑想」というものについて扱う研修だったので、必然的に会って話す内容は「内的」なものになり、私たちは会うたびにお互いの瞑想体験や、そこから考えたことを交換し合う関係に。毎回会うのも楽しみで。


その頃からMちゃんの「日々の内的なトライ」を聞いていたので、久しぶりに会うなり「睡眠に入る瞬間を捕まえた」という報告もそれほど驚くものではありませんでした。とてもMちゃんらしい「進捗報告」だな、と。



ですので私もすんなり、『で、(それは)どうだったの?』と尋ねました。

するとMちゃんは、


『えっとですね〜、ボチャン!!って水の中に落ちる時と、だいたい同じです!!』


と嬉しそうに。

「だいたい」と言う事は、何か「差異」もあるのかなとは思ったのですがそこは聞かずに、(おそらく抽象度を変えた同じ事象なのかなと思い)


『それは、いつでもできるようになったの?』と聞いたら、

『いや〜、まだ一回しか捕まえてないんですよ〜』

と、口惜しそうに、でもなんだか嬉しそうに。




私は、Mちゃんの『捕まえた』という言語での表現にいたく感心していました。感覚的に、その言葉が一番適切であるように思えたのです。



実際私は「入眠」の瞬間を意識して自覚的に通過したことは、たぶんそんなにないと思います、覚えている限りでは。ここで言う「意識して自覚的に」と言うのは、前もってそれを「(捕まえて)やろう」と決めているところも含まれ、そのような決意なく「偶然的に」捕まえてしまった事はあったかもしれません。


ただ、「瞑想」をしていると、それが段階を追って深まる過程がとても細やかに見える時があります。思考がだいたい収まってからの話なんですが、「沈黙」が階調を踏みながら密度を高めていきます。沈黙の濃度が高まる、とでも言いますか。

その「階調」の境目に、はっきりとした「越境」の感覚を持たない場合も多いのですが、時々「はい!ここから次の段階です」というような越境感覚を鮮明な感触として得ることも、あるんですよね。

なので、睡眠についてもきっとそうなんであろう、ということは想像しやすかったわけです。



Mちゃんは「起きている」から「眠っている」に入る際の越境が、

「ボチャン!!って水の中に落ちる時と、だいたい同じ』
 
と言いました。


そして彼女は、実際にプールとかに落ちるようなイメージで(その時は背中から落ちるような姿勢を示しながら)、自分の前方であり上方の水面に向かって両手を伸ばし、そこを「掴む」ような動作をしました。その動作からも、まさに、捕まえたんだな、と思えて私は思わず笑いました。「捕まえたね!」と。



その後彼女が、意のままに入眠の瞬間を捕まえられる「入眠ハンター」になれたかどうかは知りません。連絡をして尋ねることもできますが、それだけのために連絡はしないかな、というところなんですが、しかし今こうやって改めて彼女のことを書いていたら、「そういう理由であっても連絡するのが、友達なのかもしれない」と思えてきました。共通の職とか活動から離れるとなかなか会わなくなり、そして月日が過ぎるのはとてもはやく、有楽町のカフェでその話を聞いた日からたぶん三年以上経ってしまいました。コロナ前だったのは確かです。







それで、なんで急にこんな話をしたのかと言うと・・・これまたMちゃん的に急にハンドル切りますが(笑)





先月発売された村上春樹の新刊


「街とその不確かな壁」


を読んだからです。



大丈夫です!
まだ読んでない方や、
これから読むんだよ〜〜!何も言うな〜〜〜!
という方もいるかと思いますので、内容、感想、今日は書きません(笑)

次回あたり書いてしまいそうですので、その際には「ネタバレ注意」などの標識を出しますので、読んだりあるいは避けたりしてください。




ただ、一個だけ。
「街とその不確かな壁」の中で「夢」あるいは「夢」的な要素が出てきます。(それは春樹作品の定番の事象なので、このくらいは言ってもいいかなと思います。そして今日はこれだけにします。)



それでもって「夢」について考えていましたら、Mちゃんの「入眠の瞬間を捕まえる」という話を思い出したのです。



睡眠時の夢を見ている状態と、瞑想の中での「ある段階」は非常に似ているように思います。あくまでも「瞑想の中のある段階」においてなので瞑想の全てではないのですが、同じような状態があると言っていいと思います。


夢の中ですと、何かに追われていて速く走って逃げたいのにうまく走れなかったりとか、あるいは起きている時の認識とは大きくズレがあったり(大きなヒキガエルの事を自分の母親だと思っていたり、空中を飛べることに違和感も驚きもなかったり)、そういうような心の状位があったりします。瞑想でもそういう、身体との連動がない瞬間や、認識が異なる瞬間があったりします。



起きている時の私たちは、とても限定的で狭い範囲の自由と制御(不自由と制御不可能)を持って生きていて、それは大方の他者とある程度共有しています。通常ヒキガエルを母親だとは思わないし、身ひとつでは空を飛べません。過去のある時点に身体を持って立つことはできなかったり、同じように未来に対しても。



ただ、「起きている間」に自分に課している自由/不自由や、認識の仕方が、私たちの意識で起こる全てではない事は、言わずと知れたものでもあります。
だからこそ、私たちは「ここではないどこか」や「見えていないもの」に強く興味を持ち、そこに触れてみたいという志向を持つのですね。





Mちゃんは、自分自身の睡眠の過程で、通常はっきりとしていない「ある瞬間」を意識的に捕まえようとしました。そこを捕まえることになんの意味があるのかと言えば、これまた「目に見えた」意味はないかもしれないのですが、目に見えない意味はあるように思います。



そのように「捕まえて」みる感触そのものが、心というものが持つ仮初の限定性の施錠を解き、起きている時の認識の不自由さから(少しかもしれないけれど)解放する働きはあるように思います。


起きている時に自分に課す「心の限定性」という鎖、あるいは檻は、非常に強いもので、解いてもまた次の限定性を自ら掴んだり、あるいは同じ施錠がまたかかってしまう事も多々あります。


ですので私たちは、自分の意識(あるいは心という広大なプール)の中を、しばしば探検に出かける必要があるように思います。


どこが固く閉ざされ、どこの鍵は比較的開け閉め自由で、どの境界線が通過可能か否か、みたいな事を。



そういう探検を「睡眠」というかなり直接的で個人の肉体的な状位の中に求めるMちゃんの好奇心はとてもおもしろく、そして、どこまでも健康な人だな、と思えてきます。
睡眠というのは意識の領域でもあり、また同時に非常に肉体的な事でもあります。肉体的な事と精神的な事を分けないで捉えるには、ある程度の体力が必要で、いろんな意味での総合的な健康レベルが下がると、どちらかの領域に「捕まって」しまったりするものです。



Mちゃんの健康度について言うと、冒頭に使った言葉「マイブーム」と言うのは言い得ているように思います。ちょっと時期が経つとまた別のブームを持っていたりします。同じように「内的」な事柄への興味であることが多いのですが、内的な「ある関心」に対して、Mちゃんは長く居座らないところがあります。それは「ミーハー」と言ってもよく、でも全然悪いことでも軽んじているのでもなく、むしろそここそが彼女の健康を担っているように思えるのです。



ブームとかミーハーと言っても、それらは深いところでつながっている興味なのが感じ取れます。彼女の中で捉えたいものが、意識の奥の方にある「なにか」だという事がわかるので、「いろいろな角度」から探索の旅に出ているのが感じられるます。「角度」は変わるけれどそこには一貫した、しかし言語化の難しい「一つの問い」があるように思えるんですよね。


Mちゃんは、誤解されることもあるかもしれません。興味がコロコロ変わる人のような、なんとなく軽い、あんまり悩みのない気楽な人に見られるかもしれないです。


しかし、同じところを同じ方法で掘っていても埒が明かないことってあります。「意識」や、はたまた「人生」に関して言うならば、それは奥へと奥へといくらでも続き、辿り着きたいところに行くまでに多くの工夫や調整が必要な場合が多いものです。メガネの度数を調整したり、登山靴を新調したり、一人で出かけたり誰かをとタッグを組んでみたり。

Mちゃんはおそらく、ごく自然にそういう「変更」を屈託なく受け入れるタイプの人なんだと思います。そういう健康さです。




はてさて私はというと。


Mちゃんの試みたような「無意識の中で起こる“ある越境” を捕まえる」という挑戦は、読書体験や美術鑑賞の中でも起きているように感じられます。そのようなフィールドにおいて言えば私もかなりのミーハーであり、ブーム持ちで、しかしそうならざるを得ないところがあります。みんな繋がってきてしまうし、全てが探索の役に立っている感触があるので。誰かから見たら「別々の対象」でも、眼鏡を磨いて見てみると、それらの後ろには、枝分かれした水脈の元の流れがあったりします。その水脈のルーツを見つけた瞬間というのは、自分の中の何かしらの施錠を解除して、ひとつ自由を得たような実感があるので、こればっかりはやめることができませんね。それって、魂の栄養のように思うのです。



今、書いていて、はたと気づきました。


Mちゃんの名前には「磨」という字があります。同じ「ま」と読ませる漢字はたくさんあるけれど、「磨く」の「磨」が使われています。Mちゃんは、いろんな探索の角度や冒険のためのツールを磨き、磨かれた視界を保とうとする態度がいつもある。そんなふうに思いました。



冒険、という言葉が最近とても好きです。



今日も読んでくださってありがとうございます。



ナマステ
絵美里

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