ユガと神話と光る星


(2023.9..7メルマガアーカイブ)


インドには「ユガ」という時間の尺度があります。

ユガは「時代」という意味で、途方もなく長い何百万年というサイクルを延々と繰り返す宇宙的な時間を俯瞰した、インドの壮大な神話的時間観念と言えるものです。



今日はざっくりとですが、「今どんな時代か」というところと、私が思うことをお話しようかなと思います。

今日の話題に絞った範囲にはなりますが、まず基本知識を押さえてみてください。


基本①
ユガというのはヒンドゥー教における「神々の時間単位」と言えるもので、その解釈では現在は「カリユガ」と呼ばれる時代にあたると考えられています。


基本②
カリユガというのは人間がその本来の神性・聖性からもっとも離れた時代と考えます。暗黒時代とも言われます。

基本③
カリユガでは、ダルマと呼ばれる徳の質(善性や聖性)と、アダルマと呼ばれる徳ならざるもの(悪の質)の比重が、アダルマの方にもっとも偏っていく時代と考えます。心の闇の時代というわけです。


ひとまずこんな感じで。




■アダルマ

アダルマについて、「闇」とか「悪」とか言うとなんだか怖い感じなのですが、もう少し解像度を上げてみると、それは人々の心の迷妄、自己の本来性を見失う時代と言えます。制御を失った欲望と、そこからうまれる苦しみ、それらが支配している時代と考えるとわかりやすいかと思います。それがカリユガです。

自ずと、分断、争い、そして堕落と嘆き、というカリユガの風景が見えて来て、現在の私たちの世界と一致するところの多さに驚きます。




■神聖の時代と神話

ユガのサイクルの頂点には「サティヤユガ」という時代があり、その時代は人と神の区分はなく、すべての人が神性のままに生きていた時代とされます。サティヤは真実と訳されます。真実の時代、人はみな聖なる意識のみで生きていたわけです。


https://en.wikipedia.org/wiki/Yuga






インドに限らず世界には「神話」があります。
サティヤ時代には人と神は違いがなかったので「神」という概念はいりませんでした。むろん宗教も教えもいりません。誰も心をこじらせたり、人生がわからなくなったりしないし、自己存在について疑問もなく、解明されなければいけないこともなかったので。

ですので神話というものは、人が「神なる自己」や「本来の自己存在」を見失っていく過程で必要になった、はるか太古の自分のルーツを知る物語でもあり、魂が還るべきところの物語として、生きていくために必要なものになりました。そして苦しみが多くなった時代においては、自分のことも世界のこともよくわからなくなった人間がどうやって生きていったらよいのかを、寓話の中に見つけていくバイブルでもあります。





■それぞれのユガの特質

ユガは4つの区分があり、以下のように伝わっています。

①サティヤユガ(1,728,000年)
ダルマ(徳)が完全に支配している世界

②トレーターユガ(1,296,000年)
ダルマ(徳)が3/4、アダルマ(悪・罪)1/4がになる世界

③ドヴァーパラユガ(864,000年)
ダルマ(徳)が1/2、アダルマ(悪・罪)1/2がになる世界

④カリユガ(432,000年)
ダルマ(徳)が1/4、アダルマ(悪・罪)3/4がになる世界





■カリユガの中のダルマ


サティヤユガから離れれば離れるほど、人は「神の質」を失ってアダルマに偏っていくのですが、しかし4つ目のカリユガになったとしても神の質ダルマが完全になくなるわけじゃなく、数パーセントは人の心の中に存在すると考えます。この発想は東洋の陰陽を表す太極図と似ています。黒の中にも白があり、白の中にも黒があり、真っ白にも真っ黒にもならない。


もっとも陰陽の太極図は、人間の「善悪」というよりも「森羅万象の構成」とその秩序を表しているもので、インドのユガおよびダルマの配分と完全に一致しているわけではないと思います。というのもサティヤユガにおいてはアダルマが「なくなる」瞬間がどうやらあるっぽく、そのあたりの諸説はこの先また調べてみたいところです。


いずれにせよ救われるのは「カリユガ」というアダルマ(悪・闇)が最も優位になった暗黒時代の中にも、ダルマ(善)の質は少ないけれどもある、というところ。


そういう意味ではインドのユガの考えは(どえらく長い時間観念なので「個人の生」では言えなかったとしても)、そもそも人間なるものは「純粋」からスタートしているという性善説的な感覚があるように感じます。


ただ、やはり繰り返しになりますが、それが「一人の人間の生」ではなく「時代」で考えるので、カリユガという時代に生まれた私たちのほとんどは、個人差はあってもアダルマの質を持って生まれ、生きている間はアダルマの影響をかなり受けやすく、自分の行為を野放しにすれば簡単にアダルマに傾くものなんだと思います。


個人のアダルマ性は、極悪人とか犯罪者みたいになるという意味ではなく、アダルマは「迷妄」のことも指します。心が脆弱で曇りやすく、猜疑心や葛藤、怒りや嫉妬を起こしやすく、一言で言うならば「苦しみやすいし苦しみから抜けにくい」という感じです。

(カリユガでは本当に悪に染まる人も多いことも一応述べておきます。)

「怒り、貪り、迷い」など、ブッダが「貪瞋痴」と呼んだものがアダルマ的感情と行為ですね。



カリユガにおいても、神の気配、善なる思い、光、明るさは確かにありますが、それ以上に優位な気配は「闇」なので、この闇の中で自分や世界がわからなくなるのは当然といえば当然だとも思います。自分の魂的なルーツも、本来の存在のしかたも思い出せないくらいにサティヤという本質から離れている時代です。



このことは私はよく考えます。
ほぼ毎日考えているかもしれません。

還る場所や、自分の本質を思い出せないアダルマを抱えた私たち。

だとしたら、カリユガこそもっとも「神話」が必要な時代なのではないか。そう思えてなりません。





■神話をインストール

少し前の話ですが、作家を志す方とお話する機会がありました。毎日物語を書いてSNSを使って作品を発表しているそうです。養成学校に行ったりして新たに学ぶこともしているそうで、そこでアドバイスを受けたり先生にも褒めてもらえたりもしたようなのですが、たくさんのアドバイスをもらっても「自分は何を書けばいいのか」「これでいいのだろうか」と思うことが多いようで、迷いも多い。褒められても自信が持てない、と。


私は畑違いなのでそのジャンルのアドバイスはできなかったのですが、私の場合は絵を描く行為があり、同じ創作者として抽象度を上げた提案はできるかもしれないと思いました。



「神話って読みますか?」と聞いてみました。

「あんまり・・・」と。


もしよければ、世界の古いお話や神話をたくさん読んでみるといいんじゃないか、と提案してみました。


というのも、創作には根っこが必要なんじゃないかと私は思っていて、物語でも絵でも自分の中の深い所にイメージの根が張っていると、そこから吸い上げたものが書ける(描ける)ように思う、と。

偉そうにならないように「たぶんそうだと私は思う」というニュアンスで話しましたが、実際は「それ必須」と思っていたりします。



私の場合はインド神話や日本の神話が好きで、特にインドの神話は常々触れているのもあり、心理の深いところに染み込んでいます。そういう物語とそれに伴うイメージが、創作している時の「心のホーム」みたいな、一種の「帰属意識」を与えてくれます。



仮にその時描いている絵が神話を題材にしたものではなくても、単に花とか鳥とかを描いている時でも、自分の本体は神話の世界にいて、神話の世界から一瞬この現世に腕を伸ばして花や鳥を描いているという気持ちになる。


言い方が大げさかもしれないし、それほどのものを描けていないだろと言われるかもしれないけれど、絵を描いている時自分は神の時代サティヤに属していて、同時に現在にも存在しているように確かに感じる瞬間があり、描くことをやめないでいるとだんだんとその感覚は頻繁に、長くなっていきます。


そうすると、自分がなにかを描く時に「自信」とかはまったく必要ないし、自信あるとかないという意識すら起こらない。もちろん技術的な向上は現実的に努力が必要で、技術的に「まだまだだなあ」と思わない日はないです。ボツ作品もいっぱい生まれるし。

しかしそれで落ち込んだり迷ったりしないのは、自分の下半身は神の世界に浸かっているので、創作の足元は安定する。自己否定なんかにはいかない。

(無意識に「下半身」って出てきたのがちょっとおもしろい。頭ではなく、下のほう。)





■説明ではないもの

絵と書き物ではまたちょっと違うかもしれないけれど、創作という意味では、自己存在の置きどころは大きく影響するだろうと思います。


もしも神の領域に自身を置いて書き物をしたならば、それはおそらく「詩」というかたちになるのだろうと思う。ヴェーダにしてもウパニシャッドにしても古代インドの聖典はほとんどが詩の形式を取り、そこに「説明」はない。それは3000年とか昔の司祭や聖者たち(この時代の聖者は今だったらアーティストという職業でしょう)は「言葉」というものを発する時、自身を神の領域に接続していたからそうなるのが当然だとわかる。経典が説明的になってくるのはもっともっと後の時代で、説明的になるほど芸術性(神性)は少なくなり、もっと時代が下ると内容は「やり方」という技術面になっていく。そして今に至る。



現代人は物語に「説明」を求めることが多い。すべてを説明しないのなら何か目でみてわかるような伏線を起き、その回収が求められ、「そうだったのか」とわかることに受け手の快感が偏っている。落とし所があって「わかった」とか「腑に落ちた」という感覚を人々は欲しがる。そうじゃない作品をつくると途端に「わからなかった、誰か説明を」となってyoutube上に「腑に落とす」ための解説動画がアップされる。


最近は逆にこの心理を利用して「あとからいろんな人に解説させる」ためにわざと説明しなかったりしているものも多いように思う。これは別に悪いことでもなく「様々な解釈ができる」ということへの許容量は広がっているんだろうし、「自分で考えろ」という作り手の姿勢もありだと思う。


しかし、「解釈がある」ことへのこだわりや、「解釈する快感」への依存にもなっているのかもしれない。「ただ見る」「ただ感じる」ということへのスペースと、それだけでも十分価値のあることという実感はこの世に残ってほしいし、神性という意味ではそっちのほうが威力がある。


古代の人々はたぶん「腑に落ちるかどうか」は大事なことではなく、そんな期待はないように思えてならないのです。


物語に何を求めているか、それは「説明できないものを感じること」、神の気配や宇宙を感じること。物語でも絵でも造形物であっても、言語的に説明できないこの世の摂理が自分の存在と矛盾していないという圧倒的な一体感を感じていたんじゃないかと思う。実際に、説明的なものというのは価値が低かった。




■問題は・・・


提案しておきながらここで1点難題が立ちはだかるのだけど、そういった「説明的でないもの」には時代を超えていく力が宿っていくのだとは思うけれど、問題は「すぐに金にはならない」「ついてこれる人が少ない」という現代的な問題がありますね、と私は笑いました。


しかし仮に、わかりやすさとか刺激を求めて思考がジャンクになった現代人の期待に応える「今風」な作品を作るのであったとしても、自分の存在を神聖で普遍的な領域に置くことで作品に深みが出るのは確実にあると思います。


この提案は現実的(社会的)な成果に結びつくまでにすごく時間がかかるものだと思うけど、そういう土台のところを大事にして地道に続けていけば、簡単に消費され忘れられるようなものではなく、人々の心の中で「育っていくもの」が作れるようになると思う。そしてそういう作品を求めている人は実は多いと思う、と話しました。




■カリユガだからこそ

ミヒャエルエンデの「モモ」の物語の、第1章がはじまる前のページにひとつの歌が添えられています。


「アイルランドの旧い子どもの歌」とあります。


やみにきらめくおまえの光。
どこからくるのか、私は知らない。
近いとも見え、遠いとも見える。
おまえの名を私は知らない。
たとえおまえがなんであれ、
ひかれ、ひかれ、小さな星よ!



暗黒時代に純粋な思いや神聖な意識を保って生きるのは大変なことです。

食品売り場に行けばほぼ添加物、ヨーガを勧められる理由はダイエット、ショート動画は見放題(時間を失い放題)、ものの価値は付いている値段、人の価値は所有と見た目、人間関係は損得が基準。


この時代、堕落するのもバカになるのも浅はかになるのも全部簡単。闇にまみれて闇でいるのは簡単。


でも、誰か光っていないと、世界はもっと暗くなります。


アイルランドの旧い子どもの歌にある「ひかる星」は、きっと数万年とか昔の光。でもはるか地球の誰かに届き、こどもたちはそれを歌っていた。


太古の神話や、大昔の星の光が、今の私たちに届いたことを希望って呼びたいなと思います。時代は悪意と不満に満ちていても、光っていれば誰かに届くと思っています。



ものを創る人間、クリエイターは幸いだと思うのです。どんなに時代が混乱を極めても、個人の人生がカオスでも、作品には光を残せるのだから。これはほんとに幸運なことだと思っています。



なんか今日は、物を作る人向けの内容になりました。誰かの心に響けば嬉しいです。


読んでくださりありがとうございます。

よい1日を。


ナマステ
絵美里

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